みなさん、こんにちは!

本日の「きっかわみきの物語」部分公開は

「鹿の祈り」の7章からです。

 

 この物語は、鹿のリンバが10回、生まれ変わるお話です。

そしてリンバは、生まれ変わる度に、環境が変わるのですが、それにつれてリンバが祈る内容と祈り方がどんどん変化していきます。

リンバの生まれ変わる環境を縦糸に、その時々の祈りの言葉を横糸に、物語は紡がれてゆきますが、

さてはて本日は7回目に生まれ変わった時のお話ですよ。
それでは・・・


 

 リンバは次に生まれ変わると、メス鹿として生まれ、

思索にふける鹿になりました。

 リンバは仲間の鹿から離れ、度々森の奥深くに入ると、

眼を閉じて静かに自分の心の動きを観察しました。

そして次に森の様子を観察し、他の鹿やそれ以外の生き物のことも

観察しました。

 

 一方で、この思索好きのリンバは、祈ることが習慣でもありました。

ある日のこと、リンバは祈っている最中に、ある思いがふと

心をよぎりました。


「私はいままで、ずっと祈ってきたけれど……、でも思えば、

自分のことや鹿のしあわせしか祈ってこなかった……。

これからは……、自分たち、鹿のことだけではなく、

他の生き物のしあわせも祈らなければ……」


 こうしてリンバは、次のように祈るようになりました。


「草も木も小さな虫たちも、すべての生き物が

しあわせでありますように……」

 

 そしてさらに、その祈りは日に日に長くなっていきました。


「草も花も鳥も虫も、クマもヤマネコも、

それにこの森の木々も、山も、

この地上のすべてのものがしあわせでありますように……」


 こうしてリンバが祈る対象は、

月日の流れとともに多くなっていったのでした。

 

 ある時のこと、リンバは自分がいつしか

清々(すがすが)しい心境になって、澄み渡ってきていることに

気付きました。とともに、リンバはもう一つ、この七度目の生を得て、

大変重要なことに気付きました。

それは「祈り」がもつちからの大きさについてでした。

リンバは、祈ったことはやがてこの世界に形となって現れる、

実現するのだということを、直感的に知ったのです。

 

 こうしてリンバは、地上の様々なもののしあわせを願い、祈り、

同時に祈りのちからの大きさとはたらきを強く感じながら、

その生涯を閉じました。


 みなさん、いかがでしょうか?

これがリンバの7回目の生の部分のお話です。

 リンバは生まれ変わる度に、どんどん魂が成長して、

それにつれて祈りの内容がどんどん高度になっていきます。

 そしていよいよのクライマックスは

10回目の生まれ変わりの部分です。

 さて、リンバが至る究極の祈りとはどのようなものなのでしょうか?

みなさんはどのような祈りになると想像されますか?

 そしてあなたは今、どんなことを願い、何を思って日々、

暮らしておられるでしょうか?

その日々、何気なく思い、考えていることが、そのまま祈り(=意宣り)

になって現象化してきますので、今日はその普段の何気ない考え癖や

思い癖をチェックしてみて下さいね。

 

 みなさんが日々積み重ねられる美しい思いや楽しい感情によって、

みなさんがますます輝いていかれますように☆


 この「鹿の祈り」の物語、祈りについての洞察や万物を輝かせる

祈りの言葉も載せてあります☆

 今日も、素敵な一日を!




書籍「鹿の祈り」(単行本・電子書籍両方あります)

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その他 癒しと気付きの「きっかわみきの物語」

→ http://www.miki-kikkawa.com/books/books.html

 みなさん、こんにちは!

本日の「きっかわみきの物語」部分公開は

「金色(きん)の耳」のウマノオトシゴの章からです。

んっ?何?ウマノオトシゴ??

そうなんです。「タツノオトシゴ」ではなく、この物語に登場するのは

「ウマノトシゴ」なのですよ。

本日は、その風変わりなウマノオトシゴが実に神妙なことを

<花>に語りかけるシーンです。

とてもとても深い言葉です。

それでは・・・・。


「みんな、君は『旅人』だとか、『リズム』だとか、それに「貴く偉大で不思議な何ものか」だとか言っていたけれど。あれはきっと私が風変わりだから、それで、なぐさめるために、あれこれ言ってくれたのだわ」


<花>はそう思うと、ますます落ち込んでしまったのでした。


 しかし、ウマノオトシゴはそんな<花>の様子など意に介するふうもなく、おちゃらけながらも、大真面目にこんなことを言い出したのでした。


「あのさ、お花さんよ、おいらも随分悩んだってわけさ。

だから、アンタの悩みは分かる。

で、勘違いしてもらっちゃあ困るけど、おいらはこう見えても、話の分かる奴ってのは、すぐに見抜けるのよ。

おいらには分かる。アンタは話の分かるお方だってことがね。そこで、ここだけの話。

あのさ、おいらはある時、不思議な声を聞いたのよ。そう、不思議な声。その声ってのは、あれは多分、沼の主だったと思う。そりゃあ、このおいらも度肝(どぎも)を抜かれたってもんだが、どこからともなく、あの時、確かに沼全体からしわがれた声が、このおいらに話しかけてきたのよ。

その声は言っていた。『ウマノオトシゴよ、そなたは偶然ウマノオトシゴに生まれたわけではない』ってね。

おい、聞いたか?このおいらに向かって、『そなた』だぜ、『そなた』。いや、まいったね。

で、その声は結局のところ、こう言っていたのよ。『そなたは、気の遠くなるような過去からのあらゆる因果(いんが)と功徳(くどく)が降り積もった賜物(たまもの)として、あるべくしてある』ってね。

いやあ、最初は思ったね。『因果とか功徳とかが降り積もってだか何だか・・・。何を言われてもだめよ。おいらはあの広々した草原をパーっとたてがみをなびかせながら、格好よく駆け抜ける馬に生まれたかったのよ。

それがこの妙ちきりんな沼で、おまけにこの無様(ぶざま)な格好。ふざけてもらっちゃあ、困るね』って。

しかし、アンタ、ここが人生の面白いところさ。

おいらは、ふっと思ったのよ。啓示って言うんだそうだが、神様の言葉が降りてきたように感じたのさ。

こりゃあ、ひょっとすると、何かすごいことを聞いてしまったのかも知れない、いや、すごいことを聞いたんだってね。

それで気付けば、その沼の主の声をいつの間にか口ずさむようになっていたってわけ。

『すべてはあるべくしてある』『おいらは、気の遠くなるような過去からのあらゆるものの賜物(たまもの)としてある』ってな感じでね。

因果(いんが)とか功徳(くどく)とかいう難しい言葉はよく分からんがね。

するとどうだい。何だかいよいよ本当にそんな気がしてきたから、不思議ってもんさ。

今じゃあ、これは神様がおいらにくれた真実の言葉だと思っている。

まあともかく、アンタにはなぜか今日、この言葉を伝えなくちゃならんって気がしてね。

それで、こうして話したってわけさ」


 ウマノオトシゴは実に威勢(いせい)良く話したのでした。



 みなさん、このウマノオトシゴの語り、いかがだったでしょうか?

ウマノオトシゴが聞いたと言う、沼の主の声の言わんとするところは、何となくでも伝わったでしょうか?


 そなたは偶然ウマノオトシゴに生まれたわけではない

 そなたは、気の遠くなるような過去からのあらゆる因果(いんが)と功徳(くどく)が降り積もった賜物(たまもの)として、あるべくしてある


 少しここのところを解説いたしますと、

まず一つ目は、物事に「偶然」はない、すべては「必然」である、ということです

 つまり、現在のあなたも私も、すべてのものは、偶然の産物ではなく、必然的な産物、しかるべくして、成るようにして成って現在ある、ということ。


 そして2つ目ですが、気の遠くなるような過去からのあらゆる因果(いんが)と功徳(くどく)が降り積もった賜物(たまもの)として、あるべくしてある、の部分。


「気の遠くなるような過去」とは「宇宙が始まった」と思えるほど遠い時、というくらいの感覚です。

(「宇宙」には、そして「時」には、本当は始まりも終わりもないのですけれど、とりあえず、ここでは、それくらいの遠い時からの、という意味にとってみて下さい。)


 そして「あらゆる因果と功徳が降り積もった賜物として」の部分ですが、「因果」というと過去の悪い行いの結果というように、悪いものばかりを想像しがちですが、ここではそれだけにとどまらず、「功徳」ということも伝えています。宇宙創成以来のと思えるほど過去からの、あらゆる万物がなしてきたこと、

すべての恩寵、降り積もったすべての貴いはたらきの集積の結果が、私やあなたやその他のすべてのいのちとなって、現在あらわれている・・・・。

そのような意味です。


 私たちのいのちは、過去の数えようもないほどの無数のものの功徳そのものである、とも言えます。


 私たちの中には、すべてが入っています。過去の栄光も遺産も、未来の希望の種も、そして時間を超えたこの宇宙の万物が私たちの中にはすべて入っているのです。

 このあたりのことは、この「金色(きん)の耳」の「カシの木の葉」の章でも語られています。


 いずれにしても今日は、みなさんのお一人お一人の中にある、汲めど汲めど尽きることのない無限の万物の功徳を感じながら、お過ごしになってみて下さいね。


 「私って何?」「いのちって何?」をテーマにした、この物語(金色の耳)、少し変わった切口でお話が展開されています。

今後ともご愛読の程、よろしくお願いしますね。


 どうぞ素敵な一日を!








書籍「金色の耳」(電子書籍・単行本両方あり)

→ http://www.miki-kikkawa.com/books/book1.html

「続・金色の耳 ~なぜ悲しみや苦しみがあるの?~」

→ http://www.miki-kikkawa.com/books/golden-ear-4.html

 



みなさん、こんにちは!

本日の「きっかわみきの物語」部分公開は、

「金色(きん)の耳」のエピローグ、水鏡の章からです。




「私って何?」と問い続けてきた<花>ですが、

様々な生き物から様々な答えを与えられ、

<花>なりに一つの考えに到達しつつあるところです。

では、さっそく・・・・




 その日、<耳の花>はふと、自分の足元の水鏡に視線を落としました。<耳の花>はその時、はっと胸を突かれるような感動を覚えたのです。

 それは、今までずっと自分の足元にありながら、見逃してきたものでした。

水鏡が、いかほどに美しく輝いているか、この時初めて気が付いたのです。

 <耳の花>は、水鏡に向かって思わずつぶやきました。




「水鏡さん、こんなに傍にいながら、今頃になってあなたの美しさに気が付くなんて・・・私は今まで何を見ていたのでしょう。

あなたは見渡す限りどこまでも澄んで輝いて、本当に濁りというものがありませんわ」




 すると水鏡が答えました。




「私は水鏡だけど、優しい風が私の表面をなでるように吹いてくると、小さな小さな波ができ、その時私は優しい風になる。

大風が吹きつけると、表面は激しく揺れて、大きな大きな波が立ち、その時私は大風になる。

まったく風の無い時には、私は静寂を極めた水鏡となるのです。

静謐(せいひつ)な水鏡ができると、そこには空が映り、流れる雲が映り、空を飛ぶ鳥が映り、月が映る。

私はこの時、水鏡でありながら、空にも、雲にも、鳥にも、月にもなっているのです。

空と雲と鳥と月と私の間を分け隔てるものはなく、それそのものになっている。

私が空となり、空が私となり、私が鳥となり、鳥が私となっている。

あなたは『どこまでも澄んで輝いている。濁りが無い』と言ってくれたけれど、どこまでも澄んでくると、こうなるのです。

あらゆるものが邪心無く、どこまでも澄み渡ってくるとどうなるかを、私はこの水鏡で表しているのです。

いのちあるものが最も純である時の、究極の姿と言えましょう。

あなたは今まで、いろいろなものに『自分とは何か』を聞いていたけれど、あなたが澄み渡ると、あなたはこの世界のありとあらゆるものになれる存在なのです」






 水鏡がこう言ったのに対し、<耳の花>はそっとつぶやいたのでした。




「今の私には想像もつかないけれど、そんな世界があるのだわ。この世界って本当に不思議・・・」




 さて、みなさん、今日の部分公開はいかがだったでしょうか?

「私が空となり、空が私となり、私が鳥となり、鳥が私となっている」

この言葉は、有名な禅語をもじって、その内容を取り入れさせてもらったものですが、何ともおおらかで、すがすがしくて、澄み切った世界観だとは思われないでしょうか?




「あなたは『どこまでも澄んで輝いている。濁りが無い』と言ってくれたけれど、どこまでも澄んでくると、こうなるのです。

あらゆるものが邪心無く、どこまでも澄み渡ってくるとどうなるかを、私はこの水鏡で表しているのです。

いのちあるものが最も純である時の、究極の姿と言えましょう。」

なかなかこのような究極の姿にはなれるものではありませんが、

しかし人は余計な「我」を取り除くと、少しずつでもこの境地に

近づいていけるような気がします。




「私が空となり、空が私となり、私が鳥となり、鳥が私となっている」

今日はみなさん、是非そんな境地があることを思い出して、

まずはそんな「つもりになって」お過ごしになってみて下さい。

あなたの傍にいる人、生き物、あなたの傍にある木々や草の声が

あなたにそっとささやきかけ、あなたとそれらが一心同体となっているような、そんな素敵な瞬間がありますように・・・・☆




それではまた!








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みなさん、こんにちは!

本日の「きっかわみきの物語」部分公開は

「金色(きん)の耳」の「大鷹と小魚と沼の主」の章からです。

では早速・・・・



 その日は何かが違っていました。

 それは日の光が沼の水鏡に、まぶしく反射している日のことでした。

<花>は爽やかな日の光の中、天空を見上げたり、

水鏡の上をじっと見つめたりしていました。


 上空には、大鷹が空を舞い、沼の水鏡の表面の下すれすれには、小魚が泳いでおりました。

<花>は交互に大鷹と小魚をじっと見入ると、目を閉じて、

それらがたてる音にじっと耳を澄ませたのでした。

 <花>は、全身が耳になったように感じました。

そして、<花>には空を飛ぶ大鷹の気配が感じられ、

大鷹が空を雄大に舞いながら話しているのがはっきりと

聞こえてきたのでした。


「空を飛んでいる僕にとっては、空は、僕のいのち、

僕のすべて。

沼も山も稲穂も人間も、すべてを下界に見て大空を舞うことが、どれほど気持ちがいいことか。舞うって、何てすばらしいのだろう。

飛ぶって、何てすばらしいのだろう。

そして生きているって、何てすばらしいのだろう」


 目を閉じたままいると、水鏡の表面の下すれすれの所にいる小魚の気配も感じられ、小魚が泳ぎながら話しているのも

はっきりと聞こえてきました。


「水の中を泳いでいる私にとっては、水は、私のいのち、

私のすべて。私はこの水の中を泳いでいる時、

どれほど気持ちのいいことか。

泳ぐって、何てすばらしいのだろう。

生きているって、何てすばらしいのだろう」


 そして全身が耳のようになって、大鷹と小魚の喜びに満ちた声を聞いた<花>には、沼の主の声までもがはっきりと感じられたのです。


「水を離れた魚はおらず、空を離れた鳥はいないように、

魚にとって水は魚のいのち、鳥にとって空は鳥のいのち。

いまあなたが心の内に聞かれたとおりなのです。

そしてあなたはこれからもっともっといろいろなものの声無き声を聴いていくことでしょう。

そしてやがて深く得心する日がやってきましょうぞ。

あなたのいるこの星があなたのいのちそのもの、

この宇宙があなたのいのちそのものである、ということを」


<花>は思いました。

「この言葉・・・遠い昔どこかで聞いたような、

なんだか懐かしい感じ。これって、まるで私が遠い昔に知っていたことを、思い出したような・・・」


さて、みなさん、この一節、いかがだったでしょうか?

どのようにお感じになられたでしょうか?

水を離れた魚はおらず、空を離れた鳥はいないように、

魚にとって水は魚のいのち、鳥にとって空は鳥のいのち

これは仏教のとある経典の中に出てくる、有名な言葉ですが、

私にとっては、繰り返すごとに味わい深い言葉であり、なるほど誠にそのとおりだなあといつもしみじみと感じ入る言葉でもあります。


この物語「金色(きん)の耳」は、「私って何?」、「いのちって何?」をテーマにしたお話ですが、今日部分公開させて頂いた部分は、

物語の中でもラストに近い箇所です。


みなさんは「あなたって何?」と聞かれれば、何とお答えになられるでしょうか?

どうぞ今日は

あなたのいるこの星があなたのいのちそのもの、

この宇宙があなたのいのちそのもの

という言葉を思い出しながら、

私のいるこの星が私のいのちそのもの、

この宇宙が私のいのちそのもの

と置き換えて、つぶやいてみて下さいね。


すべてのものがつながり合っていることが改めて思い起こせる

一日となりますように・・・☆






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きっかわみきの物語

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みなさん、こんにちは!

本日の「きっかわみきの物語」部分公開は、

「青い眼をもった木」の「深山に眠っていた虎の巻」からですよ。

青い眼の木が、長く眠っていた貴公子の虎に、

「いのちの法則」を聞かせる場面です。


木は虎にこの場面では、4つのいのちの法則を話しますが、

今日はその4つ目の場面から。

では・・・



 木は最後に、〈因縁果のお話〉をし、さらに意味深長な一言を加えたのです。


「君はしずくの音が原因で、その結果、目が覚め、目が覚めたことが今度は因となって、そこに何ものかの縁がはたらいて結果、私に出会い、私に会ったことがまた因となって、また別の縁がはたらいて、その結果このような話を聞いた。

つまりよく考えてみると、因が果となり、果がまた因となり……のぐるぐるまわりをしているのが、この世界というわけだ。

これを因果同時(いんがどうじ)とも言うのだがね。

それで、この因果同時の話も、先ほどから話をしているいのちの法則の話も、いずれも東方で熟したものの見方なのだよ。

 ところで、だ。虎くん、

実際のところ、心が目覚めなければ、本当に起きたことにはならないのだが・・・」


 それまでそのすべてに一つ一つうなずいていた虎も、

この一言には思わず苦笑したのでした。

 そしてその虎くん、最後に誠に虎くんらしいことを言ったのです。


「目覚めて最初に、このようないのちの法則のお話が聞けるとは……。

『果報は寝て待て』と言うが、それは誠にそのとおりだったようですね。

しかし僕はいつも何事も『寝かせて考える』というのが流儀なのです。

ですから、あなた様からのこのお話も、しばらく寝かせていま一度味わうことにさせてもらいましょう」


 虎はそう言うと、何とまた寝始めてしまったのです。

この虎くん、おっとりと落ち着いていて誠実なのはよいが、

少々のんびりし過ぎ、慎重過ぎるのが玉にキズだったのでした。



 さて、みなさんこのお話、いかがだったでしょうか?

虎はしずくの音が原因で、目が覚め、

目が覚めたことが今度は原因となって、木に出会った。

そしてさらに木に出会ったことが今度は原因となって、

その結果このような話を聞いた。



「因が果となる(原因があって、結果が出てくる)」ということは

よく聞かれると思うのですが、いかがでしょうか、「そのまた

『果』自体が、次の因となる」というのは、聞かれたことがある人は少ないのではないでしょうか?


 かく言う私も最初は驚くとともに、しかしなるほどと思いました。

「出てきた結果が、次の事象を引き起こす原因になっている・・・」


 しかしこうして考えていくと、すべてが次々と連鎖して

次の事態を呼ぶわけですから、いまの一つ一つの私たちの

一挙手一投足にすべてがかかっている、一つ一つの何気ない

行動に次がかかっている、いまが次を決める・・・ということになりますよね。


 この「青い眼をもった木」の物語では、「一人の一挙手一投足が

、宇宙の果てまでも影響を及ぼす」と言っています。


 他にも「目からウロコが落ちる」ようなお話がたくさんこの物語の中には盛り込まれており、とてもとても幻想的なお話ですので、みなさん、今後ともよろしくお願いしますね。


 それではまた・・・・。

皆様、今日もどうぞ明るく元気に爽やかにお過ごし下さい!

あなたの一挙手一投足に込められた愛が、宇宙の果てまで

届きますように☆




書籍「青い眼をもった木」(単行本・電子書籍両方あり)

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きっかわみきの物語

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