こんにちは (≧∀≦ゞ

 

平成24年にNHKテレビが

「神さんの山 石鎚」を放映

 

たまたま、

映ってた画面を眺めた記憶がある

(最初から最後までじゃなく、

ほんの一部だったかも知れない)

 

何か月か後に再び、続編を

これも亦、偶然に観たが

 

ああ、これ前にやってた

続きやなーと思った記憶もあるw

 

80代の老夫婦が登場し

旧石鎚村最後の住人と紹介されてた

 

白い障子と長い縁側

石鎚の山並みが印象的でした

 

旧石鎚村中村地区に居住され

おそらく、

あと何年も住めないのではないか

と洩らされていた・・・

 

今思うと、何らかの縁に導かれて

ここにやって来た気がするーニコニコ

 

明治41年発行の地図を眺めると

 

加茂川を挟んで

多くの集落が記載されている(本村)

 

槌之川には旧千足山村

(昭和26年に石鎚村と改称)役場が

置かれていました

 

千足山村誌考 巻壱~巻五

<地勢 総説>

本村は石鎚山頂より北方に走れる山脉の

蜿々彙集して

幾多の丘峻起伏せる間に位置せるを以て

到る處山岳丘峻ならざるはなく

其の山勢最も急峻を極め

殆ど懸屏絶壁の觀をなすもの多く

此の間を流るヽ河川も廣大なるものなく

渓谷の間に奔流する

数条の細流東西に流れ南北に走るあるのみ

随って土地も字湯浪の幾分を除く外は

総て山腹の傾斜地にして急なるは

概ね七八十度緩なるも尚四十度を下らず

数歩の平地も人工を俟たざれば

得ること能わざるの地勢にあり 

 

<人文誌>

(前略)斯くて霊山の名漸く高く

當時既に中国九州方面に及びて

修験に信仰に登山するもの多く

其の登山口として小松、大頭方面より

横峯山を拝し石土山に至る沿道

又は氷見口より大保木村を経て

黒河方面よりする登山沿道等

漸く人跡の頻繁を加え来りしと共に

字湯浪、郷、槌の川、石貝、黒河地方に於いて

一時的居住者を見たるが

漸次之等の人により永住の端をなし

此より點々各所に散在居住者を増加し

 

次に治承寿永年間の源平の争乱に際し

當地平坦地方に於いて源平両族の合戦あり

終に平氏の没落となり櫻樹村方面より

敗残落人等の来住により

人口を増加したることも

傳説と遺跡により推知することを得べく

 

此等を以て假りに本村に於ける

第一期住民の紀元とすべく

此の一期間は頗る長期にして

住民の増加も誠に遅々として

桃源の境各所在に點々として

狩猟其他原始的生業を營み

自然にして平和なる生活を

楽しみたるものなるべく、次に降りて

(中略)

享禄初年(1528年)長曽我部元春の次男で

兄と不仲になり土佐を出奔、

伊予に逃げ黒川通矩の助けを借り、

剣山上の本村字黒河に寄寓し

暫く天下の形成を望観し、兵勢を整へ

越智郡幸門城主正岡氏と呼應して

周布郡内を攻畧し剣山城幻城等に據り

道前平野を統制するに當り

 

此の間元春の故郷土州地方より

縁故を求めて来り会するもの

最も多く横峯山より奥通り各部落には

此時より急速に住民を増加し、

 

次に天正十三年豊臣の師

大挙四国を征するに及び

剣山城の没落と共に

長曽我部氏の一族にして

妙口途中の川方面は素より

本村各部落に落ち延びて

定住をなすもの多く

其の一族通博の后裔は

祖先元春の旧縁により一時黒河に居住

更に字土居に永住し村内を統御して

本村里正の祖となりしものにして

此の期間を假りに本村第二期の

開拓紀元となすを得べく

 

この二期間に於ける来住者を以て

大体本村開拓の紀元となすべき

(後略)

 

十亀縫之進による「千足山村誌考」は

この山深い山村の原形をよく表している

 

ここで言う本村は千足山村で

 

加茂川流域の「本村」中山川流域の「前山」

の本村では無いと考えます

 

曽我部さんは1185年の屋島の合戦後

平氏の船に乗れなかった者が

 

九州へ渡る為に

吉野川を遡ったと話されてましたが

 

屋島からここまでは中々長い(;'∀')

 

吉野川流域の徳島県祖谷や

銅山川流域の新宮、金砂、富郷地域には

平家伝説も多いが

 

銅山川の源流域の笹ヶ峰のちち山で

石鎚山脈の険しい1本の脊稜となる

 

西日本最高峰の石鎚山を前に

平氏は南北に分かれ

 

北に下った者が

千足山村の紀元となったと話されてた

 

千足山村誌考でも

源平合戦の敗残落人の来住が

伝説と遺跡により推知出来るとされてるが

 

流入方向は石鎚山脈の脊稜ではなく

西隣の桜木村方面となっている

(源氏方の河野氏と戦った?)

 

そして何よりも気になっていたのは

千足山村の氏神である

諏訪神社の石碑を見ても

曽我部さんだらけ~

 

平家というよりも

やはり、長曽(宗・曾)我部の影響が

強いんかなと思っていたら

 

この辺りの事も詳しく書かれてる

 

<氏族>

曽我部77、曽我12、十亀8、黒河12、

伊東18、伊藤8、高橋6、阿部12、

大西1、佐伯6、亀山1、戸田1、

山中1、田村2、竹村4、

(亀山、山中は明治以降転入)

 

各氏族中曽我部、曽我、十亀等は

全戸の約半数に及び

其の分布も各字に普及せり、

 

之れ即ち享禄(1528~1532)より

天正年間(1573~1592)に亘る地方兵乱の時、

 

土州地方(香美市新井田)より

長曽我部一族の転入するもの多かりしを

知るに足るべく

 

之に次ぐものは黒河、阿部、伊東等にして

是等は多く河野系に属するものと

 

云うべく年代よりすれば

曽我部よりも先住のあるべく・・・

後略

 

瀬戸内海は河野(源氏方)が

支配していました

 

巻壱~巻五まである「千足山村誌考」は

これ以外にも

石鎚山に抱かれた村の姿を

四国の奥深い山村の原型を

細かく示している

 

最終巻の<跋>

起稿に当たりては

資材は山の如くに抱負も

雲の如くに

考へ頗る豊富な構想の下に

出発したのであるが

今茲に稿を終って全巻を通覧すると

案外にも、

すべてが貧弱であり何等の妙味もなく

只無味乾燥の感を深くするのであるが

夫は所謂筆者の不敏に帰するので

今更致方なく


只記録の全体を通して

光輝ある我郷土の史実を損傷せざりしか

否やを思ふて

心竊かに恐懼汗顔を禁ぜないのである、

 

我郷土の歴史は郷土の人に依って

生きると云うべく

而して昭和年代までの我村の史実は

大いに光輝ある歴史として

之を子孫に伝えて

祖先の栄誉を顕彰するに足るものと

確信が出来るのであるが

 

更に翻って今より以降千載に及ぶ

本村未来の歴史をして

光彩陸離たらしめるか否やは

即ち今後に於ける

我等子孫の成す如何に俟つの外なく

是頗る関心事であるが恰も

本誌の完結と殆んど同時に村名の変更あり

万古不動の霊峰と共に

永久無限に繁栄すべき石鎚村を

迎へたることは

我村の前途を祝福するに足るものと

確信すると共に

村誌も亦永久に愈〃其の光輝を発揮すべきとを

歓びて跋とす

昭和二十六年九月 十亀縫之進

 

 

 
から続きます

 

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千年以上も続いた

光輝ある千足山の歴史が・・・

 

今より以降

千載に及ぶ未来の歴史に繋がる事無く

曽我部夫妻を最後に

10年前にその歴史を閉じた

 

今、旧石鎚村(千足山)は

人々の生活の痕跡を遺し乍ら

自然に還りつつある

 

これはこの村に限らず

四国中央市の嶺南や

香川県の塩飽諸島をはじめ

 

日本全国至る所で

限界集落(※1)は増え続けて

 

近い将来(10年以内?)に

終わりを迎えようとしてる

 

(※1)限界集落とは、住民の半数以上が65歳以上であり、若者の流出によって社会的共同生活の維持が難しくなった集落。1988年に、大野晃氏が提唱した。2019年時点では、全国で454の集落が10年以内に消滅する可能性があり、2,744の集落がいずれ消滅の可能性があるとされている。今後も、少子高齢化などが原因で限界集落は増えていくと思われる。

 

 

杉の植林に埋もれる前は

ここからも

石鎚山を遥拝することが出来たらしい

 

野灯の火袋越しに覗いた

石鎚山は…

こちら (2010年頃)

 

杉林に埋もれて無いだけに

少し薮ってるー

 

野灯を過ぎて往還を下ると
すぐに、右への分岐があります
 
GPSで見ると諏訪神社のある
県道の通じている土居へ下るには
右へ折れると思われる
 
しかし、この立派な往還は
真っすぐにも下っている
 
いったい何処へ通じているのかと
しばらく辿ってみるー
 

お地蔵さまが往還脇に鎮座

これはただの道じゃ無いな~

 

さらに進むとロープが張られてた

 

この谷はあき谷みたい
 

帰宅してから調べると

この道は中村から兼藪集落へ向かう道で

 

あき谷を渡り、六地蔵の前を通って

その向こうの蛙滝を渡り

どうがみね、かみなり尾根を回って

兼藪に至るそうな(中村から20分)

 

1926(大正15)年に河口から土居まで

加茂川沿いに道路が出来るまでは

 

この道が兼藪から石貝に通じ

槌の川を経て星森峠を越え

道前平野へ下る往還だったそうな

 

明治41年発行の地形図で確認すると

 

石貝を経由する往還は

土居から標高350m地点から

400m付近をトラバースしており

 

中村から続く

この標高480mの往還は載ってない

 

曽我部さんの話では

 

戦時中に統制が厳しくなり

道前平野にヤミ米を買いに行くには

 

駐在所のある車道を通る訳にもいかず

 

この山道を通り

星森峠を越えて小松まで往復したそうな

 

 

在りし日の兼藪の屋号と戸主名を見ると

 

兼藪から土居に下る道もあったと

思われるけど

 

現在兼藪を訪れる人はなく

道は荒れていて

この道を下っても麓(県道)には

戻れない注意ということで

 

ロープを張って下さってる

のだと思います

 

ロープから折り返して
分岐を左に下ります
 
この辺りは曽我部邸から見降ろすと
東側の斜面になりますが
 
現在は杉の植林に覆われており
何も見えません
 
入口に薬師堂が祀られた住居跡があった

 

上の昭和27年の写真ではAの位置で

曽我部勤さん宅跡のようです

 

茅葺屋根の母屋は無くなってますが

奥の小屋は残ってるみたい

【B地点】

 

宅地跡を奥まで進むと

すぐ下にトタン屋根の伊藤勝さん宅

の2階屋が建ってます

 

いつ頃山を下りられたのかは
分かりませんが

 曽我部勤さん宅の小屋の中に
吊られたビニール袋は
まだ朽ちては無く
 
今も林業の作業小屋として
使われているのかも?
 
薬師堂は明治維新前後に
お嫁さんが弱いので
健康になるようにと建てられたそうな
 
今も管理されているのか

最近に供えられたと思われる
ペットボトルの綾鷹
 
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1889(明治22)年の町村制施行に伴い
千足山は千足山村となりました
 
戦後の人口流出の中で
昭和40年代の終わり頃
 
他の集落は夫々1軒か2軒
名残を惜しむように残るなか
 
中村は明治時代から
6軒続いていたそうな
 
 
曽我部勤さん宅を辞して
往還を下ると
 
先ほど見た伊藤勝さん宅前に出たー
 
この場所は往路で間違えた場所
 
どの家も急斜面に石垣を積んで
平地を確保して建ってるー
 
往路の方向へ辿ると上川谷に出るー
 
 
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石段を下ると左側に
中村で一番下に位置する曽我部斉さん宅跡
 
茅葺の大きな母屋は潰れていますが
てっ辺の棟を覆うトタンだけは残ってる
 
奥のトタン屋根の小屋は
現在も何とか建ってます
 
やはり茅葺屋根は傷むと
潰れるのも早い
 
谷ヶ内でもトタン屋根の
小屋は残ってたが
 
茅葺の母屋は総て潰れてた
 
下る途中、野灯の手前にあった
曽我部与平さん宅には寄り損ねたが
 
茅葺屋根にトタンが
被せられていたようである

 

斉さん宅の小屋内を外から覗くと

山仕事の道具や背負子が見える

 

軒下には野田式脱穀機

 

こうした廃村を訪ねる際には

 

そこで暮らした人々の

息吹が感じられ

時が止まっているように感じる

 

遺物には決して触れない

ようにしています

 

敷地内にお邪魔させて貰い

屋外から

写真だけ撮らせて頂いてますニコニコ

 

背負子はこんなかんじ

 

「あゝ飛騨が見える」と言い残し、

野麦峠で息を引き取ったのは、

女工政井みねさん

 

1976年の映画では

大竹しのぶさんと地井武男さんでした

懐かしー飛び出すハート


同じ様な背負子は

高見島の除虫菊畑の写真にも登場してた

「白雪に例えられた除虫菊の島」

 

 
高見島・佐柳島の10年後も
なかなか厳しい
 

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小屋の奥には墓地がありました

 

以前は各家に墓地があったが

明治になって共同墓地にする事になり

 

中村、土居、兼藪の三集落で

共同墓地を作ったとの事で

 

それは、先ほどのロープが張られた往還を下り

あき谷を越えた先に六地蔵があって

その先に作られているそうなので

 

この墓地はそれ以前のものかも

江戸時代のお墓なのかな?

 

斉さん宅の小屋に戻ります
脱穀機の横に三輪車
 
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往還に戻って四差路の石橋
 
下に下りて眺め上げると
こんなかんじ

石鎚村の中で中村は

南向きの条件の良い場所ですが

 

急傾斜地なので石を積んで

畑、水路、道路、宅地を作り上げてる

 

いったいどれほどの労苦を伴って

山中で生活のため

これだけの石を積み上げたのか

 

驚きとともに

先人たちの労苦に驚かされる

 

曽我部斉さん宅から往還へ
 
左の道は何処へ通じるのか不明
芋中だろうか?
 
芋中には戦後入植した2軒が
あったそうな
(索道の中継地点)


石橋を渡って往還を下ります

 

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A地点
あき谷の石橋を渡ります
 
この辺りは土居集落になるかな
 
曽我部さんの話では
中村は6軒との事でしたが

伊藤勝さん宅の左にもう1軒
廃屋がありましたが
ここは伊藤さんの敷地だったのかも?
 
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土居地区のB地点の廃屋にも
お邪魔させて頂きます

<B地点>

往還から見ると

まだしっかりしてる様に思ったけど

奥の方は崩れかけてる

 

昭和の頃

自家製の氷蜜を作って

かき氷よく食べたよー

 

途中から電動になったけど

最初はこんな手回しだったなー

 

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土居集落の往還を下るー

 

左手に母屋と小屋が遺ってる

<C地点>

廃村を訪ねると何故か

綾鷹に出会うことが多いなーw

 

農作業の道具

干されたままの仕事着

何十年も前のままとは思えない

 

家屋前の畑で

最近まで通いで作業されていたのかも?

 

山の中でも受信料は・・・

モチロン義務ですよねー

 

NHKの集金人も

石鎚村の山の中を巡ったのか

 

この家からの眺めも素晴らしい

雲がなければ石鎚山が見えたはず

 

この母屋も屋根にトタンが張られている
 
日当たりの良い
この家の屋号は上屋敷かな?
(表札は曽我部さんだった)
 
だとすれば、この辺から兼藪へ
続く道もあるはず
 
明治41年には字上黒河、字郷、字土居に
分校が設置された
(本校は途中の川)
 
分校は諏訪神社の鳥居の前にあり
昭和4年本校を字石貝に新設し
上黒河、土居分校廃止
 
日当たりの良い往還を下ります
 

右手にお堂があります

 

ここは4月7日に石貝集落を訪れた後で

立ち寄りました

 

 

<D地点>
商店跡の廃屋
 
この廃屋も崩れかけていました
(かなり危ない状態)
 
次に訪れた時には
潰れているかも
 
16時06分、パジェロデポ地点の
諏訪神社の駐車場に到着
 

ジオグラフィカの記録

 

ガーミン記録

(毎度の事ながら、ガーミンの方が1.6km多い)

 

GPSトラックログの3D動画

 

加茂川沿いの絶壁に開削された県道

 

県道142号石鎚伊予小松停車場線

 

取り壊されて間もない

虎杖(いたづり)の農協跡

 

農協の右隣には村役場があった

 

明治23年2月14日 

千足山村役場として字槌の川に開廰

昭和20年7月22日 

字虎杖甲1094番地に移す

現在に及ぶ

昭和52年 小松町役場石鎚出張所が廃止

 

巡査駐在所

明治22年 初めて巡査駐在所を

字槌の川甲1188番地に設置

昭和20年字虎杖に移す

現在に及ぶ

昭和35年頃 虎杖にあった

壬生川警察署・石鎚駐在所が閉まる

 

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河口の旅館跡を抜けて三碧峡へ

 

河口は石鎚登山ロープウェイが

出来るまでは

石鎚山の玄関口として賑わっていましたが

 

今は無住の集落になっています

 

石鎚郵便局跡横のこの旅館

どこかで見た記憶があるー

 

う~んうーん

何処で見たんやろ?

 

そーや!河口から黒川道を

成就に向けて登った時や

 

コレやコレコレびっくりマーク
 
上黒河集落跡で森の中に
埋もれてた旅館と同じ造りやね
 
黒河集落と河口集落
どちらも1968(昭和43)年に
ロープウェイが出来て一気に廃れました
(今宮道の今宮集落も同じ)

 

2019-05-09

 

遍路道として黒川道で成就社を

めざすのは危険で通行止になってます

今宮道を利用してください

注意

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昭和12年12月21日
字下黒河小字河口に石鎚郵便局設置
電信電話取扱
昭和13年1月21日千足山村役場電話開設
昭和56年河口の石鎚郵便局が廃止
 

黒河集落は季節宿のみならず

戦国時代、河野氏(源氏方)の一族として

周敷郡一円を支配し

 

江戸時代には

千足山の大里正をも務めた名族

黒河氏の本拠地でもあり

千年の歴史を持つ集落だそうです

 

風穴と鍾乳洞もある

 

千年に及ぶ千足山の

人々の営みの痕跡を遺しつつ

自然に還ろうとしている

 

「千足山村誌考」にあった

千足山~千足山村~石鎚村と続く

 

光輝ある歴史は未来に繋がる事無く

消滅してしまった

【十亀縫之進翁頌徳碑 碑文】

 翁者本村字石貝産。明治31年より昭和22年に至る約50年間、本村書記・助役・村長等を歴任し、当初旧態依然たりし我村をして民心を作興し新文化を導入、革新的諸機構を創設完備して面目一新、現代的明朗平和なる楽土の建設に貢献したる功績は枚挙に遑あらず是実に翁が無私公正、至誠一貫永年に渉り不眠不休、献身的努力を以て村民を徳化し慈父の如き信望は能く和協一致の美風を訓致したるに依る者にして翁が此の終生の画策労苦と其の篤行は永久に本村の銘記すべき処たり。故を以て翁は昭和19年地方自治功労者として勲六等瑞宝章を授与され尚本県知事及県市町村長会長より数次の表彰を受けたり。茲に本村は翁の功を頌し碑に刻して以て記念とす矣
     頌曰
    献身村治五十年至誠一貫尽心血
    文化興産普全戸民風一新千歳春
 昭和30年3月 石鎚村建立
           現村長 曽我部政秋
            議長 亀山 亮生

 

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地形図を見ると

 

土居の諏訪神社より中村方向に

続く道沿いに

3つの建物記号が表示されている

 

もちろん、無住となった旧石鎚村に

現在も住んでいる住居など存在しないが

(湯浪地区を除く)

 

日本全国どこも地形図には

かなり以前の廃屋も載っている

 

このうちの一つが曽我部邸に違いない

 

曽我部邸は一番上にあると聞いていたので
最初はaかと思っていたがbでした
aは谷ヶ内集落でbとcは中村集落
道は土居集落まではほぼ合ってるけど
中村からは一部を除いて
現状と大きく異なってました

 

最後までご覧いただきまして

ありがとうございました

 

おわり

 

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4. 旧石鎚村 谷ヶ内から中村へ へ

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