こんにちは(*`・ω・´)ゞ

 

まだ、桜が咲いていた

2か月前の4月7日に

 

石鎚山の麓、

西条市小松町石鎚の

 

旧千足山村(せんぞくやまむら)

石貝集落跡を訪ねて来たよー

 

「増補版 千足山物語  

付 山家の思い出 -愛媛県西条市-」

渡辺祐二より

 

今回の目的は

 

何年も前から計画していた

 

廃村となった石貝集落に

今も綺麗な形で遺っているという

 

石鎚遥拝所でもあった

野灯(石灯籠)を

この目で確かめるんですらい

 

 

2022-01-22 

 

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パジェロで旧石鎚小学校、中学校があった

土場地区へ向かいます車DASH!

おや、おや~

 

虎杖(いたどり)橋手前の黒川道

 

2年ほど前から

バリケード封鎖されてたけど

 

花崗土を盛って

途中まで通れるようにしたのかな?

注意

注意書きに書いてある通り

 

遍路道としての黒川道は

荒れて廃道状態になっており

通行禁止です

 

成就社へ向かうお遍路さんは

 

800m先の河口(こうぐち)から

今宮道を利用しましょう

 

桜が満開ですねー🌸
 
虎杖橋の向うの建物は
周桑農協小松支所石鎚出張所跡
 
前回ここを通った時と
何やら雰囲気が異なってるー
シャッター開いてるし
物置も無くなってる
 
物置が無くなって
 
石鎚みそJA周桑石鎚製造所
の看板が現れた
 
農協がJAになったのは
1992年頃だったでしょうか
 
30年位前までは
この建物も現役だったのかなぁ
 
この自動車道が土居の諏訪神社まで
通じたのは大正15年
 
それまでこの川沿いは
断崖絶壁が続いてた
 
千足山村役場は
槌之川(つちのかわ)にありましたが
 
何かと不便なため
 
終戦間近になって
道路のある虎杖(いたづり)に移転して来た
 
大正15年に河口から土居まで
自動車道が完成し
 
その後、河口の近くに
虎杖集落が出来た!
 
千足山の役場も此処に移り
農協も出来た!
 
石鎚森林組合や
緑茶の製茶工場も出来た!
 
ここから60番札所の
横峰寺への山道も整備された!
 
昭和40年頃から
お四国詣りが盛んになって
 
この辺りは遍路バスや
自家用車が駐車して渋滞するほど
賑わったそうな!
 
現在は再び無住となり
廃村になってます
 
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四国中央市の自宅から
 
土場の石鎚小学校、中学校跡まで
ちょうど60kmウインク
 
県道脇の邪魔にならない場所に
パジェロをデポし
 
石貝集落を目指しますグー

石貝集落へ続く道の

県道脇の入口に

 

十亀縫之進(1880~1965)翁の

頌徳碑があります

 

【十亀縫之進翁頌徳碑 碑文】

 翁者本村字石貝産。明治31年より昭和22年に至る約50年間、本村書記・助役・村長等を歴任し、当初旧態依然たりし我村をして民心を作興し新文化を導入、革新的諸機構を創設完備して面目一新、現代的明朗平和なる楽土の建設に貢献したる功績は枚挙に遑あらず是実に翁が無私公正、至誠一貫永年に渉り不眠不休、献身的努力を以て村民を徳化し慈父の如き信望は能く和協一致の美風を訓致したるに依る者にして翁が此の終生の画策労苦と其の篤行は永久に本村の銘記すべき処たり。故を以て翁は昭和19年地方自治功労者として勲六等瑞宝章を授与され尚本県知事及県市町村長会長より数次の表彰を受けたり。茲に本村は翁の功を頌し碑に刻して以て記念とす矣
     頌曰
    献身村治五十年至誠一貫尽心血
    文化興産普全戸民風一新千歳春
 昭和30年3月 石鎚村建立
           現村長 曽我部政秋
            議長 亀山亮生 

 

翁は石貝集落の出身で

 

土居の諏訪神社の神職や

村の書記、助役、村長等も歴任し

 

『千足山村誌』、『千足山誌考』8冊、『千足小学校沿革』

を著されました

 

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植林の中のつづら折の古道を

登って行く

 

両脇を石積みで固めた
しっかりとした古道ですが
 
豪雨で上から斜面を流れ落ちてくる
岩や土砂、倒木
 
補修する人が住まなくなった
かつての生活道は荒れていくばかり
 

 

古道を歩き始めて28分

急な斜面の上に木造の建物が見える

 

小さな石を下から積み上げて
道と住居の平地を確保してる

 

この平地には潰れた家屋跡と
半壊した小屋、索道跡がある
 
ここは石貝集落の下の方で
下石貝と思われます
 
石貝集落はこの下石貝と、
さらに上の方にある上石貝
 
二つの集落があったそうな
 
「山家の思い出」伊東鶴一
1984(昭和59)年11月1日発行より
 
この伊東さんの書かれた図を
参照すると
 
先ほどの住居跡は
下新宅の十亀荒吉さんかな
 
野灯は「堂夜燈」となっており
上石貝にもあったのか?
 
この上にお堂はあるけど
堂は常の書き間違いだろうか?
状態の良い集落内の
往還を進んでいくと
 
「四国戦場之時切リ死ス八人之墓」
と刻まれた
石碑が建っていた
 
ここにお墓があったのだろうか?
花崗岩の手水舎が遺ってた
 
四国戦場之時とは
何時の時代を指すのだろうか?
往還を単軌条運搬機のレールが横切ってる

 

更に進んでいくと
往還の右側に
顔を出しているのは・・・
 
石貝集落は石鎚村が
まだ千足山村といわれている頃
 
村役場のあった槌之川集落や
郷と有永などを結ぶ
往還の途中にある集落でした
 
この往還の脇に
村の人たちが野灯(やとう)さん
と呼んだ石燈籠がある

野灯さんの前には六地蔵

 

下石貝の六地蔵の上側にも

石仏が座ってる

 

ここの石灯籠は火袋も木製で

 

笠も屋根式に丁寧な造りで

きれいなまま残っている飛び出すハート

 

誰かが補修したのか、悪戯か?
石仏の頭が挿げ替えられてる
大小色んな自然石を
上手に組み合わせて
 
末広がりの
見事なラインに仕上げてるーキラキラ
 

槌之川へ向かう往還から分岐して

虎杖へ向かう道が

 

地図には表示されてるけど

確認出来なかった

 

墓地

 

素晴らしい!キラキラ

 

幾ら眺めても見飽きない

 

堂々と風格ある姿で立っている

立派な石灯籠(野灯さん)

 

今は植林に埋もれて

何も見えないが

 

ここは石鎚遥拝所でもあったらしい

 

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現在の県道142号が

土居の諏訪神社まで通じたのは大正14年

 

それまでは

加茂川沿いは断崖絶壁でした

 

上流の集落から人々は

この往還を歩いて槌之川へ

 

四国霊場60番横峰寺のある

星ヶ森峠を越えて

道前平野に下っていた

 

県道が通じた後も

戦時中時分には統制が厳しく

 

ヤミ米を買いに行くにも

虎杖の県道沿いに石鎚駐在所と

下に大保木駐在所があって

 

交換の小豆や換金作物

ヤミ米を背負って

その前を通る事が出来ず

 

戻りは

米2斗(約30キロ)を背負い

 

この古道を星森峠を越えて

小松まで行き来したそうな

 

2019-05-13

 

星森峠

 

今も通れるなら槌之川まで

往還を辿ってみたいと思います

 

誰も住まなくなって
補修される事の無くなった山道は
荒れるがまま
 
現在の住人である猪も
道を掘り返し破壊していきますいのしし
 
杉の葉に隠れているけど
上手く石段を組み込んでる
 
急傾斜地なので
 
とにかく膨大な数の石を使って
宅地や畑の平地を造り上げている
 
十亀縫之進さんの「千足山村誌考」によると
 

『字石峡(かい)と書くべきものと思ふ、
石の峡(はざま)の意にして

此の地は前後左右石の峡に挟まれたるが故なり。』

 

カイは狭まった所の意味があるので、

石の多い狭い所

 
上から流れ落ちて来た土砂や石が
往還を埋めて覆いザレてます
 
植林が切れ、展望が開けた
瓶ヶ森(かめがもり)が見える~
しかし藪が酷くなって
進めなくなりました煽りあせる
 
この辺りは畑だったみたいな感じです
 
槌之川までは
僅かに標高を上げながらの
トラバース道で
 
快適な道かと予想してたけど
残念ですもやもや
 
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野灯さん迄引き返して
 
上石貝にあるという
お堂に向かうー
急傾斜地に積まれた夥しい石垣群
 
造林の作業小屋と思われる建物も
使われなくなって
久しく歳月を経ている
 
石段の道も
杉の葉に隠れて分かり辛い
 
上へ向かう道を見失って
彷徨っていると・・・

 

2階建ての建物発見びっくり
 
入口が開いてたので
外から内部を窺うと・・・

 

賞状が掛かっとる!
 
写真を拡大して見ると
 
農協からの感謝状みたいで
昭和58年の日付で
佐伯さん宛となっとる
 
柱に掛かっとる鏡は
 
中学生の頃
わたしの家にあった物と同じで
 
帰り道の河口の
関門旅館にもぶら下がっとったがね
 
昭和50年代に流行ったんかね
 
建物の入口に
木の看板みたいなのがあるし
 
地図から見ても
石貝会堂と思われる
 
会堂というからには
集会所みたいなもんでしょうか?
 
でも、人が暮らしてた生活臭がする
 
洗濯機や五右衛門風呂、石臼もあるし
箪笥もある
 
集落に最後まで残った人が
住居として使ってたんやろか?
 
少なくとも
 
1983(昭和58)年までは
無住になって無かったんやね
 

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さて、さて

 

お堂を探さねば!

 

下調べでは・・・

 

そーです!

私だって少しは調べて来てるのよー真顔

 

お堂は集落の一番上にあるとの事

 

植林された杉は

十分に間伐されておらず

 

見通しがきかんがね~

 

いったいどこまで

集落が続くのかも検討がつかんがね

 

道は水路に沿ってあることが多く
石段を上へと辿るが
 
倒木や杉の枯れ葉や
石垣の段差で道を見失い
 
お堂も全く姿が見えず
諦めかけたけど・・・
 
そうだ!
 
単軌条運搬機(モノラック)の
レールの終端とお堂は近いって
 
随分前に此処を訪れた方の
探訪記事で読んだ
 
廃線跡のレールを辿れば
お堂が見つかるかもニヤリ

モノラックのレールは

石貝会堂の少し上で終点になってた

 

お堂は近くにあるはず

そー思い乍ら

 

右往左往しつつ

急斜面をよじ登っていくと

 

金色(こんじき)に輝く屋根が見えたー

ヾ(o´∀`o)ノワァーィ♪

 

こんな山奥にひっそりと・・・

残ってるー

 

昔は集落の一番上から

下に住む人々を見守っていたのかな

 

入口に立派な灯篭が二つ

 

片方の灯篭の宝珠が蔦に絡まれて

宙ぶらりんになってるー

 

お堂は思ったより

しっかりしてる

 

六地蔵さんは半分潰れてた
 

宝珠が蔦に絡まって落ちかけてる~

↓↓

蔦が枯れて落ちる前に

元の位置に収まりましたニコニコ

立派なお堂ですが

 

造林も手入れされておらず

訪れる人も無さそう

 

杉の木が密植してて
まったく、先が見通せません

 

杉の木ばかりかと思ってたら

中に電柱が1本紛れてるーw

 
お堂の縁台で一休みさせて頂きました飛び出すハート
 
石貝のお堂は
 
標高590mの東向き斜面に
しっかりと今も遺ってた
 
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お堂をあとにして
往還まで下りますが
 
やはり道が良く分からず
右往左往あせる
 

13時47分

「紀正主之墓」と刻まれた墓

 

天正年間(1573~1592)に

紀州熊野の人が上石貝に来て

 

熊野神社を

ここに勧請したそうな

 

13時48分

トウモロコシなどの

穀物を粉にする機械かな?

 

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前回の

金砂湖の記事に登場した

四国中央市の「嶺南地域」

 

2024-05-17

 

かつての新宮村、金砂村、富郷村も

平氏の落人が隠れ住んで

山村になっていった

 

源平屋島の合戦(1185年)後

 

平家の主力は船に乗って

壇ノ浦へ向かい

 

乗れなかった者たちは

吉野川を遡ったという

 

そのわけは四国山中を横断して

九州へ渡る事が目的だった

という説もある

 

その落人が移り住んだ

集落には

 

京都平野神社や

石清水八幡の神を祀るために

 

山城八幡神社、山城四社神社、

平野神社として

祀られている

 

もともと平氏は都に在りし頃

 

石清水八幡宮(山城八幡)、平野神社

紀州熊野神社の神々を信仰していた

 

また上賀茂神社、下賀茂神社をも崇敬した

 

安徳天皇を奉じて都落ちし

屋島の戦に源氏に敗れ

 

阿波、伊予の山に逃れた落人は

開拓地に都の神々を祀り

氏神として信仰した

 

それが山城八幡であり

大宮四社神社であり

平野神社であり

熊野神社である

 

そのため金砂富郷には

山城八幡、大宮四社神社、平野神社、熊野神社

が多く鎮座しているのである

 

平野大宮四社神社は

 

石清水八幡宮、上賀茂神社、下賀茂神社、平野神社

の四社をお祀りして

平家一門の再興を祈った

 

熊野水軍の大半は

源氏に味方する傾向の中

 

熊野本宮の苅田城太夫は

源氏に味方せず

 

熊野三社の御分霊を奉じて

平家に味方し

 

武運つたなく屋島の合戦に敗れ

 

平家一門の落人と共に

銅山川奥に安住の地を求め

 

富郷村下猿田に熊野神社を創建して

氏神としたそうな

 

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千足山村も同じく

吉野川を西へと遡り

 

支流の銅山川を遡り

石鎚山に遮られて

 

九州に渡るために

尾根を南北に

 

北と南に分かれた

 

平家が滅びた事を知って

その地にとどまり

 

北は本村に隠れ住み

千足山村の始まりとなった

 

南は高知県の仁淀村で

 

別枝都には落人の集落があり

4ヶ所くらいに人が住んどるそうな

 

石貝は南北朝時代(1332~1392)に
紀州の人が落人となり
移り住んだ所と言われてる
 
移り住んで200年後に
熊野神社を勧請したのだろうか?
 

上石貝に熊野神社、下石貝には素鵞神社が

それぞれにあったが

 

明治41年に

槌之川の梅本八幡神社に合祀

 

その時、郷にあった八幡神社と

古坊の八幡神社も梅本八幡神社に合祀

 

そして槌之川の梅本八幡神社も

無住になって

土居の諏訪神社に合祀している

 

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野灯前まで下って来た

 

往還を土場方面へ向かいます

 

モノラックの起点も確認しとかねば・・・

 

単軌条運搬機のレールの起点

 

ここに索道口があり

谷底の車道からここまで索道で運び上げ

 

モノラックに積み替えて

急斜面の集落の中を運んでたんやね

 

ちぐさ索道の台車

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往還を下ります

 

下石貝の一番下にあった

廃屋に寄ってみる

 

もの凄く急な斜面に

下から石垣を積み上げて

 

平地を作り家を建てている

 

五右衛門風呂と小屋

 

登って来て最初に見える建物の壁

 

今にも倒壊しそう

 

こちらは個人で設置した索道みたい
巻き上げ機には耕運機を使ってる

 

急傾斜地に建つ廃屋
 
14時53分
土場の石鎚小・中学校前に
降りて来ました
 

 

 

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千足山村は1889(明治22)年の

町村制施行に伴い

単体で千足山村となりました

 

1951(昭和26)年に

石鎚村に改名しましたが

4年後に合併して小松町となります

 

加茂川流域を本村と呼び

中山川流域を前山と云い

 

本村から拓けていって、

後になって前山が開けたそうな

 

本村は加茂川流域にある

中村、兼藪、谷ヶ内、大平、折掛、成藪、土居、石貝、虎杖、正路藪、老ノ川、堂藪、有永、黒川(上黒川と下黒川)、郷、槌之川、河口の

17集落があったが

 

2014(平成26)年に

中村の最後の1軒が山を下りて全て廃村になる

 

中山川流域の前山には

古坊、戸石、途中ノ川、湯浪の

4つの集落があったが

 

湯浪を残してあとは廃村になった

 

藩政時代は1集落に6~10軒

少ない集落では3~4軒で

 

全村で約200軒おおよそ1000人

 

多少の増減はあっても

 

終戦後まで

この数字で推移したそうな

 

石貝集落は昭和初期まで12戸あった。
展望も日当たりも良いところであったが、

日照りが続くと水不足になる心配があった。


南北朝時代、

紀州の人が落人となり移り住んだと言われ、

その墓石も残っているという。

曽我部正喜さん談
 

長くなりましたが

最後まで御覧頂きまして

ありがとうございました

 

では、またバイバイ