こんにちは(`・ω・´)ゞ
四国中央市では遅かった
今年の桜も
ようやく終わろうかという
4月14日
かつてシコチュウ市にあった
2本の索道の痕跡にも
想いを巡らしながら
銅山川左岸の金砂湖遊歩道
を散策中~
2024-05-09
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長野隧道を抜けて
金砂湖の北岸を
翠波橋まで辿って来ました
長野隧道からここまで77分
金砂湖の湖岸を辿る遊歩道は
景色も良くて、オススメの散歩道
(一部崩壊箇所⚠️あります)
この日の水位は低かったけど
満水で遊歩道の際まで
水位が上がると
湖面に映る風景も相まって
更に素晴らしい景色が楽しめそう
翠波橋 昭和28年9月竣工
柳瀬ダムが完成したのが
1953(昭和28)年10月
ダム完成とほぼ同時に
この吊り橋も架設されたみたい
トンネルアンカレイジの手前に
駐車車両があったけど・・・
合併前の翠波橋
ずーと(30年以上)前に来た時には
「緊急車両以外は通行出来ません」
って書いてあったけど、
今は無いのかな?
対岸の入口にチェーンが張られてるけど
ダイヤル式の鍵になってた
(許可を得た地元の方は
進入可能になったのかもね)
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翠波橋を渡らずに
更に左岸を進んでみるー
ひょっとして
金砂湖一周出来る?
柳瀬ダムまで行けるかなー
車道になった道を進んでいくと
今もしっかり世話された
折坂の六地蔵が祀られてた
戸数10余戸の農業集落で
2戸を残して水没
既に無住となり
潰れた廃屋もある折坂ですが
管理に通われてる人が居られるのか
残った(水没を免れた)
集落の道も手入れされており
電気も通じている様で
防災無線も設置されてる
コンクリート製の小さな橋を渡ります
この枝道の先に
新しい小屋があって
そこで作業中の人が見えた
折坂の集落を過ぎても
岩を削り、石垣を積んだ
立派な道が続いてる
これだけの道を通すには
量り知れない
労力が要ったろうに・・・
金属製の橋桁は残っており
林業関係者が
間伐材を渡して丸太橋に
![チュー](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/008.png)
湖面標高が285mで
100mほど高い
標高約400mの山腹斜面をトラバース中
![飛び出すハート](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/610.png)
植林の中に家屋が現れた
軒下に服が吊るされてるー
誰か居るのかな~
![栄養ドリンク](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/223.png)
![びっくり](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/031.png)
![飛び出すハート](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/610.png)
柳瀬ダムの水没で
廃村になった集落には、
上流から
水丁・押淵・小頃須・安井・川口・信生の
6集落があり、
集落の大半が水没になったものには、
灰原瀬・平野・横飯・上小川・岩鍋・折坂・柳瀬の7集落がある
このうち、
少数の家の残存した横沢は
昭和48年に廃村となり、
ダムサイドに近い
大籔と脇之谷も相次いで廃村となる
金砂村は山腹緩斜面が少なく
銅山川本流沿いの
谷底平野に立地する集落が多かった
そのほとんどが
昭和28年に完成した柳瀬ダムによって水没
村の中枢部を水没で失った村は
周辺にあった残存集落の孤立感を高め
これらの集落でも高度経済成長期に
離村が続出した
渡り終えての振り返り(南から)
金砂湖に流れ込んでは
大変という事でしょうか
地すべり対策事業として
かなり大掛かりな
復旧対策工事が行われてた
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戸数10戸余の横藪は金砂村の行政の中心地であり、役場・警察官駐在所、郵便局があったが、上方の2戸を残してすべて水没する。その対岸の岩鍋は戸数11戸、白滝鉱山と三島を結ぶ索道の中継駅で、索道の原動所もあったが、下方の集落は水没、上方の集落のみが水没をまぬがれた。水没をまぬがれた部分には横藪から役場、郵便局、警察官駐在所が移転してきて、新たに金砂地区の行政の中心地となる。
「えひめの記憶」 金砂湖に沈んだ村 より
金砂村は、愛媛県の東予地方の宇摩郡にあった村
1954(昭和29)年11月1日に
三島町、松柏村、寒川町、豊岡村、富郷村、金砂村
の2町4村の
合併で市制施行し伊予三島市となり、
自治体としては消滅した。
その後、伊予三島市は平成の大合併で
四国中央市となり、現在に至る
1953(昭和28)年、柳瀬ダム湛水に伴い
岩鍋地区に移転した金砂村役場は
翌、昭和29年11月の合併で
伊予三島市金砂支所となる
岩鍋山荘の左の広場に
昭和50年度の空中写真で
同じ様な建物が並んで建ってる
もしかして、
ここに郵便局があったのかも?
現在、岩鍋地区は無住になって
家屋は全て廃屋になってる
この分岐から薬師峠へ道が繋がってる
少し登ってみましたが
急勾配の道の両側の田畑は
立派な植林に変わってた
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白滝鉱山架空索道の
岩鍋起動所から三島金子までの
法皇山脈を越える
ルートも検証してみました
かつて中曽根石床から
翠波峠の東の697mの峠を経て
折坂に至る翠波街道
この標高697mの峠を
索道も越えていたようです
(1961年の空中写真と地形図を重ねて検証しました)
法皇隧道の完成で
葛川-三島の間がトラック輸送になり
1966(昭和41)年頃に
撤去されました
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岩鍋から銅山川右岸を遡り
銅山川へ注ぐ支流の上小川だった
金砂湖岸を上小川の上流へ
辿ります
この上小川と銅山川が
合流する周辺には
川口(こうぐち)という集落があり
川口小学校と金砂中学校がありました
川口集落の南端
小川橋までやって来ました~
この小川橋の上から
上小川の下流方面を眺めると
湖底に眠る川口集落が一望
のはずでしたが・・・
小川橋は橋脚だけになってる~
えひめの記憶を見ると
この川口(こうぐち)にも
白滝鉱山架空索道の駅があったようです
索道
法皇トンネルをバスが走る前には、嶺南の鉱石や木材の物産を三島に出し、日用雑貨を嶺南に運ぶのに索道が発達している。その前には馬の背や仲持が運んだ。
索道は3本あった。白滝索道は大正6(1917)年に、三島索道㈱が下猿田から下をもっていたのを日本鉱業㈱が買収した。白滝鉱山から8里(32㎞)あり、途中白滝―城師―葛川―藤原―下猿田―豊坂―下長瀬―小頃須―川口―三島の駅があり、玉村式でケーブルの太さは1インチで、4時間を要した。川口から三島は50分であった。運転時間は朝8時から夕方4時までで昼11-12時は休んでいた。佐々連鉱業㈱の索道は大正10(1921)年に架設され、佐々連鉱山の鉱石を6マイル(9.6㎞)先の三島の江ノ元港に運んだ。昭和2年5月玉村式50馬力にした。途中金砂と押渕に駅があり、返り荷に日用雑貨や旅行者の荷物なども運んだ。佐々連鉱山はもと岩城、後に別子鉱業が操業していた。佐々連のケーブルは1インチより小さく7分であった。疏水索道は柳瀬―馬瀬谷―三島の5マイルで昭和16年の架設で、ケーブルの太さは1インチ2分であった。大王製紙が疏水組より借りて操業していた。
川口~三島間の運賃は昭和25年当時、普通貨物で10貫が22円、手数料が13円で合計35円であった。木材は少し安く、竹など長いものは高かった。積載量は8分の1トン=35貫というが、2分の1トンぐらいバケツに入れていた。
えひめの記憶 嶺南の峠道と索道より
柳瀬-馬瀬谷-三島にも
疎水索道があって
全部で3本あったとは知らなんだ~
上小川の上流に
新小川橋が付け替えられてた
水没移転後の金砂中学校
(昭和51年3月閉校)跡地が
付替えた新小川橋の
アクセス道路になったのかな
橋脚も壊してしまうのだろうか?
遺構として残しても
問題ない様に思うけど
どうなんだろう
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往路で金砂湖遊歩道から見た
小頃須駅の支柱遺構
復路では銅山川右岸の国道319号から
眺めれますが
国道と金砂湖の間の植林が
大きくなって
こちら側からは
殆ど見えなくなってる
佐々連鉱業(株)の索道も
法皇山脈の稜線から金砂湖までの
ルートも検証しておかねばね
先の「えひめの記憶」の記述では
「途中、金砂と押渕に駅があり」
とあったけど
沈んだ押渕駅が南岸なら
金砂駅は北岸?
金砂湖の誕生後の
1961年の空中写真を見ると
赤丸A地点が
何やら駅の雰囲気
がある様な気がする(;^ω^)
地形図と合わせて検証すると
標高585mのピークの僅かに右を通り
法皇山脈の稜線を越えているみたいです
写真を撮って無いので
ストリートビュー(;^ω^)
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暗くなる前に
パジェロ迄戻れるだろうかと
急ぐところですが・・・
グーグルマップを見ていると
ちょっと気になる点が出て来た-
何やこれー!
どうちて、こんな所に
川口小学校の石垣跡があるの?
川口って大字小川山の西部
銅山川と上小川の合流部
じゃなかったんかいね
小川橋のあたりから銅山川に向かって
少し下った所に昔、
川口と呼ぶ戸数七戸ばかりの部落があって、
そこには小学校、中学校などもあったが
昭和二十八年
柳瀬ダム(金砂湖)出現により悉く水没した。
郷土史「伊予三島市嶺南」より
おそらくですが・・・
昭和38年10月1日
川口小学校は
平野山小学校と統合して閉校し
金砂小学校となってるので
統合前の水没した
平野山小学校やろね
水没した灰原瀬の
平野大宮四社神社境内
に平野山小学校がありました
明治25年に平野山尋常小学校
と改称される前に
川口尋常小学校第四分校
となった(明治19年)時期があります
グーグルさんに
おっせてやらないけんねw
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ガーミンのGPSデータで
作成した3D動画
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探訪後の帰り道
翠波高原を通ったよー
菜の花
金砂湖から上流部の
白滝鉱山架空索道のライン(想像)
金砂村の隣、富郷村の
昭和20年代の資料を見つけた!
次回はこの痕跡を
パジェロで追ってみたいと
思ってますぅー
長くなりましたが
最後までご覧いただきまして
ありがとうございました
では、また
関連記事
1. 桜と索道 へ
2. 江之元の索道 へ
3. 法皇山脈を越えて金砂湖へ へ
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