こんにちは(*`・ω・)ゞ

 

前回、四国中央市の

佐々連鉱山から江之元港まで

 

法皇山脈を越えて

8kmを片道1時間で結んでいた

 

架空索道を調べているうちに

 

私も久々に

法皇山脈を越えてみる事にしたーw

 

2024-04-23

 

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国道319号で法皇山脈の

南側へと向かいます車DASH!

 

この山向こうの銅山川に沿った地域を

嶺南地域と呼び、

 

旧伊予三島市では金砂町と富郷町が

この地域にあって

 

銅山川は遥か彼方の

紀伊水道へ注ぐ

一級河川吉野川の支流であり

 

延長55km、流域面積280㎢で

下流の徳島県では

伊予川とも呼ばれている

 

石槌山系冠山(標高1732m)に発し

富郷渓谷の深い浸蝕谷を作りながら東流

 

馬立川、中の川、猿田川などを合わせ

徳島県三好郡山城町の

小歩危(こぼけ)の北で吉野川と合流する

 

銅山川流域は四国山地の多雨地帯で

 

降雨は梅雨期、台風期に集中し

年平均降水量は2500mm

 

銅山川の豊富な水の利用は

藩政期以来の

 

水の不足する宇摩地方への

分水構想に始まり

 

昭和11年愛媛県と徳島県との確執を経て、

ようやく分水協定が締結

 

現在では、銅山川の水は

 

柳瀬ダム(昭和28年完成)

新宮ダム(昭和51年完成)

富郷ダム(平成12年完成)により

 

宇摩地方に

灌漑用水、水道用水、工業用水として

また発電に利用され

 

川之江、伊予三島地域は

製紙工業を中心とした

用水型産業を基幹として発達しました

 

江之元索道は1972(昭和47)年に廃止

白滝鉱山索道は1966(昭和41)年頃に

葛川-三島間が廃止

 

1960(昭和35)年に

法皇隧道が開通した当時

 

この国道319号は未だ市道で

曲がりくねった山道の隘路でした

 

具定展望台と谷を挟んだカーブ

 

ここから四国電力のトラックが

谷に転落する重大事故があって

 

国道改修前には

 

木の墓標に

重大事故発生地点として

 

事故の経緯が

書いてあったように思うけど

 

もう50年以上前の記憶で

 

現在は

石の慰霊碑と地蔵に変わっており

 

当時を偲ぶ記述は

全く見当たらなかった

 
江之元の索道は
 
具定展望台西側431mピークの山の
 
頂上の僅かに西側を越えて
法皇山脈の稜線に向かってた

 

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具定展望台に寄り道

 

平成22年8月、日本夜景遺産に認定
小学校5年の時、犬の散歩が
思わぬ遠出、となって
 
3人と1匹が、この展望台を通って、
法皇トンネルを潜り、平野橋まで歩いたよー
 
当時法皇トンネルは有料(自動車)で
トンネル内のトラックの音に驚いて
愛犬が騒いだ為
 
出口で料金所のおばちゃんに
「中でさいがんりょったら危なかろがねムカムカ
って怒られたー
 
帰りはこの辺りで薄暗くなってしまい
とても心細くて焦ったけど
 
あっという間に
 
標高349mから麓まで
駆け降りた記憶が残ってる
 
具定展望台からの眺め
 
愛媛と香川の県境に位置する
標高507mの大谷山

本来は「おおたにやま」ですが、
最近「おおたにさん」と呼ばれとるがねw
 
そーいや、大谷山(オータニサン)
登るつもりで、
なかなか実行できてない煽りあせる
 
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法皇隧道
 
自動車でこのトンネルを走り辛いのは
 
鉄道みたいな坑門してるから?
って聞いたことあるけど・・・
 
領徳碑をみると

1957年(昭和32)年12月23日

 - 鉄道工業株式会社が落札

(途中、湧水により工事が難航、

井原建設工業がこれを引き継ぐ)

ってなってるけど・・・

 

真偽のほどはうーんウーンはてなマーク

 

トンネルを抜けるとすぐ左に
水ヶ滝
 
長野集会所手前に
金砂湖遊歩道の標識があって
左へ180度ターン
 

等高線に沿って車道を進んでいくと

立派なコンクリートの坑門が現れた

 

前に数台停めるスペースがあるので

ここにパジェロをデポ

 
平成16年4月1日に2市1町1村が合併し
今年、四国中央市発足20周年
を迎えるというのに
 
伊予三島市表記の案内板が
いまだに建ってると
 
思わず
この先大丈夫なのー
って思っちゃうw
 
まさか車で突っ込む方は居ないと思うけど
 
軽四輪以上は無理なら
三輪車で突撃やね~
 

素掘りで高さ2mほどの小さなトンネル

 

照明は無く、真っ暗で

正面出口の明かり目指して進むのみ滝汗

 

でも、別子銅山の

旧端出場水力発電所の導水路

に比べれば快適、快適wwチュー

↓↓

2022-05-26

 

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金砂湖側の出口は
コンクリートで巻いてないけど
 
こっちの方が雰囲気あるー
トンネルを出た所は断崖絶壁
 
路面はコンクリート舗装されてます
 
進路の反対側は地蔵嶽
 
地蔵の形をした岩肌何かと思ってたら
崖にお地蔵さまが鎮座してるのねー
 
金砂湖の左岸を
下流に向かって進みます
 
 
竹藪と石積み(炭竃跡)

金砂湖が生まれるまでは、
銅山川の北岸沿いに平野部落から長野を経て、
また南岸の押渕部落から丸太橋を渡って
長野の地蔵崖の麓の岩間の道を東に向かって進むと

そこに小頃須と呼ぶ部落二十九戸があり
川沿いの平坦地で、
ここには日本鉱業の三島索道の中間駅があり

この地も木炭を生産し、
三椏、楮、米、麦、粟、蕎等を栽培し、
また六頭の駄馬を飼い
馬に依る運搬業を営む人があり、

この地の生活は豊かな方であったが、
ここも金砂湖の湖底に沈み
全戸他地方に転居し
 
部落の存在したことも物語となり
地図の上から姿を消した。
 
資料「伊予三島 嶺南」より
しばらく進むと竹藪の間から
索道の支柱の土台跡が見えます
 
位置的に小頃須(よごろせ)駅
かと思われます
 
一部文献には小比須(おごろす)
と記されているものもあり
迷いましたが
昭和59年1月発行
著者 合田正良
発行者 富郷農業協同組合発行
の「伊予三島市 嶺南」
で確認すると
小頃須(おごろす)
と記載されており
こちらの表記に改めました
 
 
こちら側(左岸)から見るのは
もちろん初めてですが
 
満水になると
もう一段上まで湖面が来るー
 
この白滝鉱山の索道は
1916(大正5)年に造られたけど
 
ダムが出来る前から
同じルートなら
 
ギリギリ水没しない高さは
たまたまだったのでしょうかね?
 
この辺の遊歩道は
満水時の湖面ギリギリの高さで
付けられてるけど
 
ダムで水没を免れた高台の集落の為に
付け直されたもんやろね
 
その後、無住になり
遊歩道になったのかな?
 
崩落に倒木
あまり利用する人が居ないのか
 
遊歩道は荒れ気味
 
ネットで調べた時には
この橋も壊れてたけど
ここは補修されてる
 
地形図には住居が2軒載ってるけど
廃屋の痕跡も無くなってる
 
少し高度を上げて
断崖絶壁の岩肌を穿って
道が続いてる~
 
白滝鉱山の高架索道は
対岸から半島の様に突き出た
この標高357mのピークを越えてたはず
 
湖面標高が285mなので
 
この半島越えるには
72m以上の高さが必要・・・
なんて考えていたけど
 
索道(ロープウェイ)やけん
 
このピークに支柱を建てれば
別に水平じゃなくてもえーやん爆笑
 
コンクリートの橋を2つ渡ります走る人
 
肩掛噴霧器や陶器製の土管
石積みなどが現れた
 
横藪の集落跡かと思われます
 

 

植林が途切れて
広葉樹の集落跡でいい感じ飛び出すハート
 
対岸には赤い屋根の建物が見えてる
 
元金砂村役場で
現在岩鍋山荘になってる建物かな~
 
金砂村の中心だった
横藪集落にあった
役場、郵便局、駐在所が
 
水没する為に
岩鍋集落に移転したようです
 
横藪は
ダム建設により水没を免れたり
 
非水没地に移動した家が4軒あったが、
昭和37~38年頃には
無住となったそうな
 
岩鍋には白滝鉱山高架索道の
起動所があって
 
ここから三島の金子まで
法皇山脈を越えて
続いていたようです
 
起動所の場所は
 
空中写真から判別すると
湖岸に近い場所だったようです
 
三界万霊の地蔵様と
4つしかないけど六地蔵でしょうか
 
金砂湖内の支柱跡と岩鍋起動所跡を
一直線に結ぶと
 
ちょうど357mのピークを通りますが
飽くまで私の推論で
 
証明する資料が
見つかった訳ではありません
 

 

 

ここまでの途中に
家なんか無かったのに
 
この電柱どこに続いとんやろか
 
湖面が満水になると
遊歩道の右の樹木は水没するようですね
 
集落跡の守り神?
コロボックルみたいー

植林のなかに墓石が残ってた

 

金砂湖の出現によって立退した戸数は145、立退き者は801人、水没した土地は、田4.5ha、畑44.3ha、山林65.4ha、宅地5.9ha、墓地0.4haであった。ダムによる立退き者801人は、当時の金砂村の人口の25%程度であるが、佐々連鉱山地区を除くと在来の集落の約半数が水没することであり、それは村の存亡にかかわる大事件であったといえる。

 

水没集落は、上流から見ると、富郷村の下長瀬、金砂村の灰原瀬・水丁・平野・押淵・小頃須・安井・川口・上小川・岩鍋・横脈・折坂・信生・柳瀬であった。またダムサイトに近い脇の谷もダム建設の影響で多くの住民が立ち退いた。

 

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林業の作業小屋でしょうか
 
竹で囲っている小屋は
椎茸栽培かな

 

朱色の翠波橋が見えてきたー

 

翠波橋

 

 

レトロ~飛び出すハート

現役の木製電柱が一本残ってる

 

折坂支3号
昭和39年2月
 
1974-1978年の空中写真
 
1970年代、横藪は既に無住になってるが
対岸の岩鍋は集落が残っている
 
1916(大正5)年、高知県土佐郡大川村の
白滝鉱山から三島(現四国中央市)まで
架空索道を設け
 
途中、城師山と小川山岩鍋に
起動所を設け
 
野地峰と翠波峰を越して
三島(金子)に通じてた(全長21km)
 
柳瀬ダムが完成し、
1960年に法皇隧道が抜けると
トラック輸送に切り替え
1966(昭和41)年
葛川 - 三島間が廃止されました
 

この先、翠波橋を過ぎて

 

折坂集落から標高を上げながら

2つ先の谷まで道が表示されてる

 

途切れるまで辿ろうかなと思います

 

最後までご覧いただきまして
ありがとうございました
 
では、またバイバイ
 
次回に続く
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