こんにちは(*・∀・)ゞ
咲き始めるのが
例年より遅かった今年の桜も
🌸🌸🌸
4月の半ばになって
辛うじて残ってるー
この前日の4月9日に
雨の中、立ち寄ったJR寒川駅
1番線の桜はまだまだ見頃でしたー
しばらくJR乗って無いけど
昨年5月20日より
JR四国の運賃も随分と値上がりしてるー
伊予寒川駅発多度津駅までだと
950円⇒1,080円
徳島辺りでは無人駅のトイレも
閉鎖になってるって!
なかなか厳しいッス
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4月5日、天気は曇り
オリーブ園から・・・
燧灘の沖合もはっきりしない
ようやく桜は見頃を迎えたけど
菜の花は終わって
コラボは無理やったね
恵之久保池へ
ほぼ満開でしたー
🌸🌸🌸
今週末は各地で
花見賑わいそうですね
うーん
青空が無いと
なかなか桜は映えませんね~
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西条誌によると、「昔は河口に少し窪みがあるのみにて、小舟の出入りさえもなく、漁船は陸の上に引き上げていたため、魚の群れを見ても、俄かに船を降ろすことが出来ず、不便極まりなかった。天保7年、8年(1836・7)と大きな飢饉が続き、多くの人が飢えそうになった。そこで西条藩は、お救いの為、老若男女を問わず、苦しい農民をここに集めて港を掘らせ、賃金を与えて飢えを凌がせた。これにより、長さ50間(約90m)、幅10間(約18m)の堀溜ができ、長くその恩恵を被る事となった。」と記されている。
明治の初め、江之元港は東西1町8間(約122m)、南北18間3尺(約33.3m)満潮時深さ1丈2尺(約3.6m)、干潮時深さ3尺(約0.9m)に改修された。
大正13年、佐々連鉱山への索道が開通し、鉱石積み出し港として栄えたが、昭和54年鉱山が閉山した。
江之元は、天保8年以来、たんぽを中心に集落が形成され、藩政時代の漁港集落としての町並みが残されている。
平成9年6月 伊予市三島市教育委員会
「たんぽ」って云えば!
多度津湛甫を思い出すけど
何故かこっちは漢字やったね
2023-06-28
1975年の「早明浦ダム」竣工により
在家167世帯と
役場庁舎が湖底に沈みました
2017年5月には、
村議会の廃止を検討してるって
話題にもなったよー
四国山地のほぼ中央に位置する
土佐郡大川村は
白滝鉱山は明治時代に入って盛んになり、
その鉱石や 物資等すべて人力により
野地峰(949m)を越えて富郷村に入り、
葛川・城師・寺野・松野・ 岩原瀬・七々木・番所を経て
寒川峰越しに寒川村に出ていた
その物資を運搬する仲持ちが、
毎日百数十人を数え、
また鉱山に商売に行く商人も
大変な数で有ったとの事
白滝鉱山は索道の架設を計画し、
大正5年、白滝鉱山から
三島まで索道を設け、
途中、城師山に起動所を作り、
また小川山岩鍋に起動所を置き、
翠波峰を越して三島に通じていた
佐々連鉱山は1689年に発見され
明治時代になって採掘されるようになった
活発な採掘が行われだしたのは
1918(大正7)年に
神戸の岩城商会に経営権が移ってからで
金砂坑や金立坑も発見され、
1924(大正13)年には
鉱山から江之元港まで索道を施設
1941年(昭和16)年になって、
住友鉱業(現住友金属鉱山)が
経営に参画
新鉱床も次々と開発され
1950年から出鉱量が大幅に伸びて
ピーク時の1962年には
約850tになった
しかし、採掘現場が
地下1,000mを超える深さまで移り
採算性が悪くなった上
長期にわたる銅価格の低迷などで
業績不振に陥る
会社は操業時間の短縮
といった合理化や
新しい鉱床の発見などに
取り組んだが、閉山は免れなかった
1979(昭和54)年閉山
2024-04-23
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