こんにちは (`・ω・´)ゞ

 

四国中央市寒川町の

江之元港へやって来ました

 

2024-04-13
 
前回の記事で
四国中央市(旧伊予三島市)に
かつて存在した索道に触れたけど
 
法皇山脈を越えるルートは
どの辺やったかな〜
 
と気になり始めて
再訪しました(^◇^;)
 
江之元港から佐々連鉱山まで
一直線に索道が通じていたとすれば
 
 
スマホにジオグラフィカの
地図を表示して
佐々連鉱山の方向を確認してみるー
 
あの辺やー
南東154度の方角❗️
 
だいたいやけど
あの辺りの峰を越えとったんかな~
 
いやいや、
急いては事を仕損じますえーあせる
 

A地点より撮影

 

掘込式の江之元港は

当時の面影を今も留めてる〜

 

江之元港から佐々連鉱山迄の

約8kmの索道ラインは

 

先ず、法皇山脈の稜線の

手前の山(標高431m)を越えて行きますが

 

当初は①の佐々連鉱山の方向

かと思ったけど

 

江之元港から佐々連鉱山まで

 

真っ直ぐに直線を引くと

空中写真の痕跡と

大きなズレが生じてしまう〜💦

↓↓

 

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当初はこの図が

正解なんかと思ってたけど

 

調べるうちに

佐々連鉱山の積出し位置が左(西)に

寄り過ぎてると思う様になった

 

 1961ー1969年の

地理院地図の空中写真で

 

稼働当事の索道の痕跡を

確認すると

 

江之元港から金砂湖左岸までは

痕跡が明確なので

 

ここから改めて

 

佐々連鉱山選鉱所まで

直線で結ぶと

写真の痕跡とほぼ一致する

 

1961-1969年の空中写真

 

ただ、この過程で

佐々連鉱山選鉱場の位置が微妙で

 

佐々連鉱山内の索道の

積出し位置とラインを確認すると

 

ネットで入手した

狭い範囲の部分的な

 

昭和30年代と40年代の地図では

ライン、位置とも異なってた

 

明確にしようと三島図書館で

 

当時の地形図を求めたけど

無いとの事で

 

この二つの資料を基に

索道ルートの痕跡を探りました

 

昭和30年代の地図に

佐々連小学校が

載って無いのは何故だろう

 

これ以上はどうしようもないので

 

新しい方が精度も高いかなという事で

昭和40年代の地形図を参照し

 

1961-1969年の空中写真と

併せて地図上のルートを確定しました

 

 

現在送電線の鉄塔が建っている

標高702mの小さなピークを通って

 

標高750mの法皇山脈の稜線を越えている

 

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↓- 追記 2024/5/4 -

 

以前(2021年)の別子銅山の記事で

佐々連鉱山に触れた時に

 

「海抜1,200mの山を越えて」

って書きましたが

 

法皇山脈の豊受山の標高が1,247mで

索道が越えてる場所は標高750mでした(;^_^A

2021-12-01

 

↑追記 ココマデ

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さて、さて

 

江之元港から法皇山脈までの

索道ラインの

特定を進めなければ(;^_^A

 

上:1960年代の空中写真

下:現在の空中写真

 

この写真で現在と比較して

 

江之元港から

法皇山脈に向かう索道が

 

手前の山のどの辺を

通っていたのか検証してみるー

 

2.5万分の1 伊予三島(昭和55年修正測量)

 

松山自動車道が通る前の伊予三島市

 

古い地形図はコレしか

入手出来んかったので

 

空中写真だけが頼りです

 

索道が稼働中の1961-1969

 

鉄道と国道を覆う屋根も写ってる

 

1974-1978年の伊予三島市寒川町

 

カラー版の空中写真があった

 

索道は既に廃止されてるけど

未だ痕跡が確認できる

 

江之元の索道は

1972(昭和47)年に廃止されたので

 

既に鉄道や国道を跨ぐ覆い屋根などは

撤去されてるけど、痕跡は残ってる

 

B地点より撮影
 
現在も残るアとイの建物は
1974-1978年の空中写真に写っており
 
索道はこの建物の間を通っていたと思われる

(イは1972年の索道廃止後、1974年以降に建てられたみたい)

 

B地点より撮影

 

こんな感じかな~

 

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場所を徐々に南に移動して
山裾まで確認してみるー
C地点より撮影
 

福田製紙工場の上空を越えてるー

 

C地点より撮影
 

福田製紙煙突の向こう(西側)

を抜けていく

 

D地点より撮影

 

E地点より撮影
 

旧国道(金毘羅街道)とは

此処で交差してたー

 

E地点より撮影

 
松山自動車道が
手前の山の裾野の
 
更に手前に
盛土して通っているので
 
分かり難かったけど・・・
 (御堂が見えない)
 
ちょっと、自信ないけど
こんな感じだったのかなぁ~
 
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F地点より撮影
 

江之元港からほぼ一直線に

山肌を駆け上ってたー

 

G地点より撮影
 

向うに見えるお堂と銀杏の木の

頭上近くを

索道ラインが通っていたと思われる

 

C地点より撮影

 

引いて眺めると

こんな感じかな~

 

俯瞰する空中写真では

このラインで間違いないと思うけど

 

引いて眺めた法皇山脈への

取り付きのラインが今一つ自信ない

 

何か手掛かりになるものは無いかと

松山自動車道の下を潜ります

 

G地点より撮影

 

松山自動車道の南(山)側は

盛土で隔てられて海も見えない

 

ここにある御堂と墓地は

比較的新しく

 

高速道路の建設によって

移転されたものなのかな

四国開発幹線自動車道・縦貫道

(現松山自動車道)は

 

1980(昭和55)年4月に

起工式が行われ

 

昭和58年度中に

伊予三島-土居間の建設と

供用開始を目指した

 

この辺りの寒川地区は

 

今から43年前の

昭和56年3月より着工されました

 

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大倉池を越えて

谷を奥へ進んでいくと

 

横に向かって

整備された未舗装の道が続いてる

 

その先で手摺付の階段になってる

 

車道では無かったんじゃがね

 

いったい

この先に何があるんじゃろかね

 

トイレに水飲み場

 

一段上に見えるのは

展望台じゃろかね

 

街灯も折れて倒れており

 

周囲の植林で展望は全く無く

 

訪れる人も居ないようだが

藪にもなっていない

 

大きな桜の木があるので
桜シーズンにまた来てみるかね~
 

秘密基地の様な廃墟公園

 

四国縦貫自動車道建設の折りに

 

用地買収にあたっての

懐柔策で造られたのだろうか

 

グーグルマップには

この公園は表示されないけど

 

iosの写真にはこの場所も

しっかり反映されてるー

 

誰も知らない公園まで

網羅するとは

アップルさんやるなーw

 

索道はこの公園より

もう少し東側を通っとったがね

 

1924-1972年の間

佐々連鉱山から法皇山脈の峰を越え

江之元港まで

 

約8kmを

片道1時間で繋いでいましたが

 

1960(昭和35)年に法皇山脈を貫く

法皇隧道が完成し

 

トラック輸送の普及によって

 

江之元の索道は

1972(昭和47)年に廃止されました

 

2023-02-03 

 

1972年は札幌オリンピックの年で

私は小学5年生でした

 

寒川地区は校区が違うので

 

索道を見るのも

バスの車窓から位しかなく

 

索道が在った事は、

はっきり覚えてるけど

 

具体的に此処をこう通ってった

とまでの記憶は無いッス

 

どこかに写真とか

ないかなぁ〜

 

このあと、

白滝鉱山の索道についても

興味があるので

 

パジェロで法皇山脈を越えて

金砂湖に向かいます車DASH!

 

最後までご覧いただきまして

ありがとうございました

 

では、またバイバイ

 

次回へ続く

 

 

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