岩黒島は岡山県と香川県を結ぶ瀬戸大橋の橋脚となった5つの島のうち
 
人が暮らす3つの島の中では一番小さな島です
 
江戸時代までは無人島で、江戸後期の新田開発に力を注いだ時代に、島の開拓が進められました
 
1797(寛政9)年に20kmほど西の佐柳島(さなぎしま)からの移住が始りました
 
 
また、島内で採れる良質の粘土を使って江戸末期から昭和初期にかけて瓦の生産が盛んだったそうな
 
現在の主産業は、小型底引き網漁と刺網漁業を中心とした沿岸漁業とヒラメの養殖など
 
島内には民宿が3軒あって、新鮮な魚貝類の料理が人気のようです
 
1988(昭和63)年4月に瀬戸大橋の開通に伴って、岩黒島連絡橋と歩行者用エレベーターが利用できるようになり、陸路による移動が可能に成りました
 
まずは、
 
架橋前の岩黒島はどんな島だったのかな
 
地理院地図で探してみると
 
1980(昭和55)年9月28日撮影の空中写真がありました
 
児島-坂出ルートの橋脚となった岩黒島、羽佐島、与島が写っています
 
岩黒島を拡大すると↓
 
この写真が撮影された1980年の国勢調査では
 
塩飽諸島の櫃石島389人、岩黒島130人、与島361人、小与島47人
 
15年後の2005年にはそれぞれ、236人、96人、142人、6人と大きく減少していますが、
 
主島であった与島の人口減少が際立っており、面積も小さく人口も小さい岩黒島の減少率が最少となってます
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与島は諸島の主島であり、瀬戸大橋架橋時には周辺諸島の学校が廃校になっても与島に統合する事を考慮して近代設備を有する学校に小・中学校共に建て替えられました
 
しかし他の島より早く、2000年に小学児童、2002年に中学生徒が居なくなります
 
この表の10年後には、櫃石島においても
 
2016年に櫃石小学校、2018年に櫃石中学校から児童と生徒が居なくなります
 
その一方で、当初から児童・生徒の規模では全く少なかった岩黒島では現在も岩黒小中学校が存続
 
といっても小学校は平成30年4月より休校、中学校は在校生1名で崖っぷちアセアセ
 
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瀬戸大橋によって陸続きになった櫃石島・岩黒島・与島
 
ちょうど石材資源の枯渇時期でもあって、島を外部に開いて観光の島として大型投資を受け入れた与島
 
面積の小さい島における大きなプロジェクトは、全てを島外に依存しました
 
島民の生活とは全く別次元の形態で巨大観光産業が営まれ、これによって島の生活は豊かにはならなかった
 
一方で岩黒島と櫃石島の入口にはゲートが設けられ、島内居住者しかこのゲートを自家用車で通ることが出来ません(与島にもゲートがあって一般車両は島内道路には侵入出来ませんが、島内のPAに駐車して訪問出来ます)
 
これは開通当初に本四公団と島民との取り決めによって作られたものであり、島民の意志が大きく反映されたそうな
 
島をオープンにした与島と陸続きになりながらも今までの外部との交流関係を変えなかった櫃石島と岩黒島
 
岩黒島・櫃石島では漁業補償によって漁船や装備品の近代化が進みました
 
瀬戸大橋開通から30数年を経た現在では
 
与島の宿泊業は全て廃業した一方で、岩黒島では3軒の民宿が島の漁師の獲る新鮮な魚貝類を供する民宿として賑わっているそうです
 
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ご訪問頂きましてありがとうございます
 
前回のバスとエレベーターで行く岩黒島からの続きです(。^_・)ノ
 
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地上60mのバス停からエレベーターで降りた場所は小高い丘の上
 
丘の上を北へ続く車道と港の方へ下る小道がありました
 
小道を辿って少し下ると右手に井戸
 
立札がある所を見るとただの井戸ではなさそうです
 
13:01
1797(寛政9)年に当時無人島だった岩黒島に7名が移住して開墾
 
移住者たちにとって、何より重要問題だったのは生活用水の確保であり、最初に掘削したこの井戸で生活に必要な水を得る事が出来たそうです
 
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井戸のすぐ先には左へ分岐する小道があり、その反対側には石の鳥居が建っている
 
鳥居から参道を仰ぐと・・・
 
鳥居の中には、逆光の中に神々しく聳える岩黒島橋の北主塔が
 
まるで計算されたかの如く真正面に鎮座されておりまする拍手
 
まるで瀬戸大橋を祀ってるのかと思ってしまいます
 
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桜並木の石段を登っていくと・・・
 
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巨大な構造物が本殿のすぐ裏に・・・
 
絶好のロケーションですが、周りは鬱蒼とした森になりつつあり展望はよくないです
 
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初田神社は岩黒島の氏神様ですが元日らしくない
 
この神社は江戸時代に佐柳島からの移住を勧めた初田助十郎を祀っています
 
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くるくるループ橋のランプが初田神社本殿のすぐ近くに見えます
 
架橋以前にはこの辺りにクマゼミがたくさん棲息していたらしく、
 
瀬戸大橋の完成前にはループ橋の擁壁にクマゼミが彫られたそうです↓
擁壁に彫られたクマゼミ 瀬戸大橋完成当時の写真
 
岩黒中学校の体育館にも唯一の在校生と教職員で3か月半かけて描かれ昨年10月上旬に完成したようです
瀬戸大橋を渡るマリンライナーからも見えるかもね
 
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初田神社は瀬戸大橋建設の際、東へ数十メートル移設されたみたい
 
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参道には二つの鳥居があって、この鳥居は中腹の鳥居
 
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元日ですが人の気配はまったく無く、扉も閉まってました
 
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櫃石島橋南主塔と狛犬
 
岩黒島の狛犬は「あ」と「うん」を逆に置いてあるみたい
 
本州四国連絡橋岩黒島橋工事
熊谷組 日本国道開発 若築建設共同企業体
本州四国連絡橋櫃石島橋工事
西松 青木 東洋共同企業体
 
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集落の中から見えるのは櫃石島橋の南主塔と左右同形に張られた88本の黒いケーブル
 
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島の路地は細くて自動車は通れないかな
 
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港までやって来ました

まずは、島の南側の車道を歩いて岩黒島橋を見上げてみようかな
 
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岩黒島南方の眺め
 
与島から無人島の羽佐島を経て岩黒島へトラス橋と斜張橋が連なってる
 
トラス橋の与島橋(611m)と羽佐島高架橋(266m)は開通後に与島橋(877m)と名称を一本化されました
 
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与島の隣の小与島もよく見えます
 
小与島は花崗岩の島で岩盤を削って石材を切り出していましたが、殆どの石材を取り尽くして島の北部には大きな穴が開いて池のようになってます
 
この資源枯渇が問題となりかけた時期と瀬戸大橋の架橋とが重なり、与島と小与島の石材採掘は瀬戸大橋とともに廃業、これに伴って石材加工業、石材運搬業も無くなり、主要産業がすべて失われました
 
瀬戸大橋架橋に伴う補償金で島外で生活する事を選択して多くの島民が島を後にしました
 
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今歩いている海岸線に沿った車道は1980年の空中写真には写ってなかったので、瀬戸大橋工事によって整備されたようです
 
岩黒港から時計回りに島の外周を廻っております
 
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逆光ですが・・・
 
与島から羽佐島経由で岩黒島へ連なる与島橋と岩黒島橋
 
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岩黒島橋と岩黒島高架橋の接合部
 
まさに巨大橋、岩黒島橋の海面から橋桁までの高さは40m
 
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瀬戸大橋で一番短い93mの岩黒島高架橋と櫃石島橋
 
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櫃石島橋の真下までやって来ました
 
櫃石島から鷲羽山まで右にカーブを描きながら連なっています
 
櫃石島橋の海面から橋桁までの高さは32m
 
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島内の集落から良く見えていたのはこの櫃石島橋南主塔(152m)
 
ここから先へは進めないので車道へ引き返します
 
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巨大なコンクリートの構造物を見上げると目が眩みそう
 
上部の車道の横に出っ張った部分は岩黒島バス停(上り)かな
 
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丘の上のループ橋へ続く車道を進みます
 
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再び岩黒島橋の下を潜ります
 
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岩黒島高架橋の橋脚は3本
 
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岩黒島へのアクセス道である岩黒島連絡橋
 
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岩黒島高架橋の橋脚から岩黒島橋方面
 
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ここからは丘の上の車道を岩黒小中学校方面へ歩きます
 
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ループ橋の下を潜って最初にエレベーターを降りた場所まで戻って来ました
 
このまま丘の上の車道を岩黒小中学校方面へと辿りますが・・・
 
大変長くなってしまいましたので今回は此処まで
 
岩黒島の後半は次回につづきます
 
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GPSトラックログ
本四備讃線の電車による瀬戸大橋通過は橋からはみ出てます(軌道の上に車道がある為GPSが受信出来ないのかも)
 
今回もお立寄り頂きましてありがとうございました
 
次回も見てねy(^ー^)y
 
では、またバイバイ