こんばんは、Mahaloです。
お盆ですが、皆さんにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか?
故郷に帰省されている方、お盆も休みなしでお仕事をされている方…色々だと思いますが、いずれにしましても元気に平和にお過ごしであられる事をお祈りさせて頂く次第です。
ところで今回は、そのお盆にちなみまして『真の先祖供養とは何たるか?』という事についてのお話と、それから『お墓』に関するお話をちょっとさせて頂こうと思います。
(※今回の予定にさせて頂いておりました「八正道」の続きにつきましては次回にさせて頂き、先にこの時期にちなんだお話をさせて頂く事に致しました)
先祖供養の事につきましては過去記事『先祖供養について』でも書かせて頂きましたけれども、その記事も古くなり皆さんのお目に触れにくくなっているであろうというのもありまして、今回また改めて書かせて頂く事にした次第です。
お墓に関するお話を書かせて頂くのは今回が初めてだと思います。
というわけで、まずは『真の先祖供養とは何たるか?』という事についてですが、これは自分が亡くなった先祖や親の立場になって考えてみれば容易に理解できるお話なんです。
私達は、この世の生を終えて肉体は無くなっても、思い、意識というものはそのままであるものです。
正法たるグレートスピリットの法においては、肉体は「借り舟」であると説かれます。
肉体は、この世という世界を渡るためにグレートスピリットから与えて頂いた、自分の魂が一時のあいだ乗るための乗り物であると申し上げて良いでしょう。
ならば、自分にとって大切な人や可愛い人に対する思いは、この世に生きている間においても死後においても変わりなくて然りです。
自分が亡くなった先祖や親の立場であったら、この世にいる子や孫あるいはその後の子孫達がどのようにあってくれる事を望むでしょうか?
よほどの偏屈な方などでもない限り、ともかく調和して幸せであってくれる事を望むはずです。
生前において意味がわからない経文などは、この世の生を終えて肉体は無くなっても、思い、意識というものはそのままであるゆえに、死後においても意味がわかりません。
その人が意味のわからぬものをいくら唱えられてもそれでその人が救われるような事はあるはずもないのです。
要するに、真の先祖供養とは『子孫である自分達が調和した姿、幸せな姿をご先祖様達に見て頂く』という事に尽きるというわけなんですね。
成仏されているご先祖様であればその姿をご覧になってご安心なさいますし、成仏されていないご先祖様であればその姿をご覧になる事によって生前における自分の間違いにお気づきになられるのです。
例えば、いくらお金をかけて盛大なご供養の行事をしてもらっても、この世に残っている家族同士がケンカばっかりやってるような調子では、亡くなった側は安心したくてもしちゃいられないものであるという事を知らなくてはなりませんね。
そして次に『お墓』に関するお話ですが、お墓というものは、グレートスピリットの法においては、亡くなられた方の『記念碑』であるという程度に捉えなさいと説かれます。
私達がこの世の生を終えて後にその魂が行くべき所、言わば私達の本当の故郷とは、私達が生前にいた天上界と言われる世界であり、お墓が行くべき所ではないゆえに、本来は、お墓参りというものは別して行う必要はないものなんです。
過去記事『グレート・スピリットを知る7』で書かせて頂いている如くこの世とあの世とは隔離しているものではなく、常に通じ合っているものです。
そして、人の想いもまた同じくで常に通じ合っているものであり、私達の想いは距離等に関係なく即時にしてあの世の人へと通じるものです。
つまり、この世の何処からでも先祖供養はちゃんとできるものであるのだというわけなんですね。
ただ、周りのお墓はきれいにしてあるのに自分とこのお墓だけ草ボーボーてな有様ではこの世的な調和が取れなくなりますので、そういう意味で管理はちゃんとするべきであると言われます。
まあ、いずれにしましても忘れてならないのは、ご先祖様に対する感謝の気持ちですね。
今この世に生きる私達がこうして肉体を持たせて頂けているのは肉体先祖達があればこそですから。
ついでに申し上げますと、前述のとおりこの世とあの世は常に通じ合っているものであり、人の想いもまた常に通じ合っているものであるゆえに、お盆にだけご先祖様がこちらへ帰って来られるというようなものではないんです。
常々ご先祖様達に幸せな姿を見て頂ける自分となる事です。
Mahaloでした。
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