どうも、Mahaloです。
早速ですが、今回も、前回の記事『正しく道に精進する(正精進)とは?』に引き続き、お釈迦様がお説き下さった『八正道』について書かせて頂きます。
過去記事でも申し上げた事があるとおり、多くの皆さんにおかれましてはお釈迦様や八正道と言われてもあまりピンと来られないであろうゆえ、八正道についてのお話は決して人気が高いものではないでありましょう。
しかし、この八正道とは『グレートスピリットのお言葉』と『心行(しんぎょう)』に並ぶ、霊的真理の教科書の中の教科書とでも言えるものであるという極めて重要なものでありますので(途中で随分と間を空けておきながら言うのもなんですが)次回以降も引き続きの形、一気の形にて、八正道の全部についてお伝えしてしまいたいと思っております。
というわけで、今回は八正道の残り4つ(正しく見る、正しく思う、正しく語る、正しく生きる)の内の…
『正しく生きる(正命:しょうみょう)』について書かせて頂きます。
これは『中道にあって常に自分を厳しく見つめ生きていく事』であると教えられます。
人というものはその多くが、ついつい「このくらいはいいだろう…」という様な甘えた考え、行いをしてしまいがちなものでありますが、甘えというものは…まあ、手抜きと例えて良いと思います。
そのつどそのつどは小さな手抜きであるとしても、当たり前や毎度の様に手抜きばかりという調子で生きていったら、塵も積もれば…というヤツで気がつきゃ手抜きの山、つまりは、自分の人生は手抜きだらけのものとなってしまいます。
人生に手抜きが多いという事は、それだけ自分が成長あるいは進化向上できない事となって然りです。
また、自分が手抜きした反面には、我が責でもないのにその分の尻拭い役をする方がおられるものであるという事にも目を向けなければなりません。
例えばですが、ポイ捨てされたゴミを掃除して回っておられる方々はまさにそういう方々ですね。
自分のすべき後始末を頭から他の方に丸投げという、その甘ったれた自己チューな行いを為すところにある心は、神たるグレートスピリットや高級霊達の心と相反する位置にあります。
私達は、自分の在り方が神仏の在り方と遠く離れたものになればなるほど苦しみが多くなっていくものです。
もっとも、夫婦や家族あるいは特別に近しい相手との間においては、甘えて良い範囲で甘える分にはむしろ円満や円滑を生むという場合もあるものなんですけれども、いずれにしても度が過ぎた甘えは自らにロクな事を招きません。
甘えて良い範囲のところまで甘えないというほどまでに厳しくするのは、これはこれで偏りであるゆえに正しくありませんので、甘えて良い範囲は素直に甘えて良いんです。
まあ要するに「程よいところ」即ち『中道』から逸脱しない範囲で自分に厳しくあることが正しいということになります。
そうは言っても、自らの在る所を『中道』に保つという事は、またこれはこれで自らに対するシッカリとした厳しさがないと出来ないものです。
そういった様なわけで、常に自分を厳しく見つめて生きていく事が大切であり、必要であるのです。
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