『ジョーカー』考察 | -YMarlowe's blog Noir-

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観る前より、観た後の方が圧倒的に考えてる時間が多い、そんな映画だった『ジョーカー』。何日も考えたりと、考察の幅も拡がった。それだけ、面白かったということ。

そんな映画『ジョーカー』の内容を、自分なりに考察してみた。

この考察は、すべて自分の妄想的考察のため、信憑性に欠ける。

また、ネタバレするため、まだご覧になってない方は、今から記載する内容をご覧にならないことをオススメする。

早速だが、自分の考察では、今回のジョーカーは、あのバットマンの最大のライバルであり、アメコミ最大のヴィランでもある、皆が知っているあの"ジョーカー"ではない。

全くの別人説を唱えたい。

 

今作では、ホアキン・フェニックス演じるアーサー・フレックが、ジョーカーになるまでを描いているが、あの"ジョーカー"誕生の話ではないように思えた。

予備知識なく、あの"ジョーカー"の誕生話に興味があって観に行ったから、正直面食らってしまった。

なぜ、そういう結論に至ったのかを、今から述べていきたい。

 
この作品自体が、現実かアーサーの妄想か曖昧なまま進むため、観終わってそういう結論には至りやすい。
例えば、劇中でも語られてもいるが、同じアパートに住むソフィーとの関係がそうだったように。
しかし、作中で明らかに妄想と分かるシーンは一部のため、一部がアーサーの妄想とも捉えられる。
しかし、いろいろ考えると、アーサーと"ジョーカー"はやはり別人のように思われる。
 
まず、全くの別人じゃないかと疑念を抱いた発端について述べたい。
疑念の発端は、作中で描かれるウェイン家の執事であるアルフレッドとブルース・ウェイン(後のバットマン)の父親であるトーマス・ウェインの描かれ方だった。
アルフレッドといえば、他の作品でも知られている通り、ブルースが生まれた頃からウェイン家に仕える従順な執事である。
非常に温厚で真面目な性格なため、今作みたいに、無闇に他人に手出しするような性格ではない。
また、大富豪のトーマス・ウェインも、人間的にもできている名家ウェイン家の御曹司として、アーサーのような人間を毛嫌いし、差別的に扱うとは到底思えない。
 
アーサーが嫉妬深くて、妄想気味な性格であることを全編通して描いていたから、尚更疑念を抱いた。
 
ここからは、アーサーの妄想だと思ったシーンと理由を述べていく。
 
スタンダップコメディアンを目指している(あくまで劇中で)アーサーは、周りから自身が称賛される、そして名声を得ることに強く、執着し渇望していた。ように作中で描かれていた。(マレー・フランクリンのトークショーの観覧シーン、トークライブで自身が紹介されるシーン、事故に遭ってパトカーから担ぎ出されて、群衆に求められるシーンなど)
※そもそも、事故に遭ってピンピンしていられるわけがない。

だから、自分ではない人物が称賛を浴び、名声を得ていることに強烈に嫉妬していた。(マレー・フランクリンやトーマス・ウェイン)

しかし、彼らに到底及ばず、実際には手出しできないため、せめて彼の妄想の中で葬り去った。

また、自分をコケにした人物たちも、妄想の中で葬り去った。(マレーやピエロの同僚であるランドルなど)

しかし、自分に優しくした人物は(妄想の中でも)生かすなど、良心的な判断も見受けられる。(本物のアナーキーなジョーカーであれば、見境なく手出しし、楽しんでいる可能性がある。)

 

アーサーが、"ジョーカー"を確立したヴィジュアル面からも、違和感を覚えた。

今回のジョーカーのピエロメイクが、これまでや、よく描かれる"ジョーカー"のそれとは少し違うため、"ジョーカー"に寄せたアーサーの(妄想の中での)オリジナルのメイクのように受け取れる。鼻が赤く、赤色の眉毛があったり、青色の眉毛と涙マークがある、アーサー版のジョーカーメイク。これは、(作中で)精神病院に入院しているため、実際の"ジョーカー"の姿を見ていないがために、アーサーが創造した"ジョーカー"のメイクの可能性がある。※本物の"ジョーカー"がいたのかについては、後述する。

 

 

他の作品やゲーム、アニメで描かれる"ジョーカー"のメイクは、ある程度統一されている。

 

あと、これは完全に余談だが、ジョーカーを演じるホアキン・フェニックスは、ハリウッドでもとても変わったユニークな人物として、よく知られている。
彼が純粋に、"ジョーカー"役を演じることに快諾したとは、なぜか思えない。
一筋縄ではいかない"ジョーカー"もどきの役であるからこそ、この役を引き受けたように思う。
 
今作の監督であるドッド・フィリップスは、今作が『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』を参考にしたことを公言している。
両作品とも、妄想めいた危うい主人公の話である。
 
この作品の全編通してすべてアーサーの妄想ではなく、唯一、最後の面談シーンのみ本当で、あとは面談の場でアーサーが作りあげた話ではないかと思う。(面談の場からの回想という形で、この作品を描いた?)
なので、最初のピエロのバイトの話や母親との関係などもすべて、話の辻褄を合わせる為の作り話だと思えた。
最後、アーサーが病院で逃走するシーンがあり、血の足跡が残るが、あれもアーサーの頭の中のシーンなのではないかと、個人的には思っている。
 
以上の点から、今作のジョーカーは、アーサーが妄想の中で、自身を"ジョーカー"に投影し創り上げた偽"ジョーカー"であり、世に知られている"ジョーカー"と全く別人の"ジョーカー"であると結論付けたい。
 

さて、今作には登場しないが、あの本物の"ジョーカー"は劇中でいることになっているのかという点だが、結論としては、あの時代のゴッサムシティには、既に本物の"ジョーカー"がいたんじゃないかと思っている。

それは、ブルースの目の前でブルースの両親が銃弾に倒れるシーンが含まれていたから。(これは、バットマンの世界ではリアルな話である)
その実行犯が"ジョーカー"という訳ではないが、(バットマンの世界ではリアルな話として)トーマス・ウェインが凶弾に倒れたという事実が今作で描かれたからこそ、どこからかその話を聞いたアーサーが、妄想の中で自分を"ジョーカー"に投影したのではないか。と思っている。
※両親がブルースの前で撃たれるシーンは、ブルースがバットマン になることを意識するシーンとして、他の作品でもよく見られる。
 
因みに、今作の監督であるドッド・フィリップスが盛大なネタバレをしているネット記事を見かけたので紹介したい。
 
一部ネットでは、今作は反体制称賛映画みたいな意見もあるみたいだが、自分はそうは思わない。寧ろ反対で、『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』がそうだったように、何かをキッカケに精神を病み崩壊してしまう、人間の脆さや危うさ、それによって反体制へと傾倒していくことを危惧しているんじゃないかと思えた。
 
今作は、バットマンの世界を切り離して、普通の社会派作品としても楽しめる。監督が参考とした『タクシードライバー』と「キング・オブ・コメディ』の2作品を見て予習して観るとより楽しめるし、この2作品を見て今作を復習したくもなる。
 
観る者に解釈を委ねる作風だからこそ、いろんな捉え方ができる。他の捉え方によって考察の幅が拡がるという意味でも、今作は観る価値があると思えるし、面白い。
ネットを見ると、いろんな意見や考察、説があるので、見返して、自分なりに検証していきたいなと思う。
 
こんなにハマるとは思わなかったが、期待値を遥かに超えてきたので、やはり今作『ジョーカー』は作品として素晴らしい。アカデミー賞にも期待したい。
 
"ジョーカー"別人説を唱えてはいるが、ホアキンジョーカーも演技が素晴らしかったので、今後のバットマン作品に、今度は本物の"ジョーカー"として、再登場を願いたいところ。
 
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ではまた!