「ケアマネの正しい歩き方」 ~ケアマネタマゴに贈るケアマネ道!~ -99ページ目
ふだんのケアマネ業務以外の
お仕事もたくさん抱えている
私なんですが、
今度の4月にグループホームの
関係者が集まる研修会で
お話しさせていただくことになりました。
私が事務局をしている団体の
活動を紹介する、というのが
おもな趣旨なんですが、
実はそれ以外のことも
お話ししようと画策したりして(笑)
ここで言うグループホームは
介護保険のグループホーム、
認知症グループホームのことですが
(グループホームは認知症以外にも
障害制度の中にもあるのです^^)
その認知症グループホームが
置かれている立場は微妙であります。
どういうことかというと、
あまり国に認められていない
というところがあるようです。
どうしてそういうことが言えるのか、
ということですが、ひとつは
4月の介護報酬でかなり下げられた、
という事実。それと、もうひとつは
「小規模多機能連携加算」のような
誘導策がおこなわれていない、
ということもあります。
また、認知症サポーター養成とか、
初期集中支援チームとか、
認知症に関する施策が
どんどん創られているのに、
ことグループホームに関しての
新しい動きや施策はまったく聞きません。
「認知症はどんどん増えていきますよ」
「住み慣れたところで最期まで」などと
グループホームの役割を考えると
その重要性は高まっているというのに、
その処遇は無風どころか逆風のありさまです。
この実態にグループホーム関係者は
頭を悩ませているということです。
2~3回このグループホームの話題を
書いてみようと思いますが、
グループホーム関係者ではない方は
はっきりいって面白くない話かもしれません。
しかし、グループホーム関係者にとっては
まさに「目からウロコ」になるでしょう、
……………か?
気になる人は次回を楽しみに!^^
今日はひさしぶりに
ケアマネの仕事をしてて
感じたことでも書きますか?
杉浦さん(仮名)、80歳は、
脳梗塞で5年前から不自由な
生活を送っています。
始めに発症したときは
もう一人暮らしはできないだろう、
ということで福岡に住む娘さんの
ところで2人暮らしを始めました。
でも、杉浦さんはふるさとの生活が
捨てられず、戻ってきました。
利き手の右半身が動かしにくいので
サービス計画書にサインするのも
ひと苦労です。
そんな杉浦さんですが、
正月早々に脳梗塞を
再発させてしまいました。
主治医の先生は
「食生活や水分摂取に問題あり」
と言いました。
たしかに多少の自炊はするものの、
総菜を買ってくるのが主でした。
週2回のヘルパーさんの食事作りでも
不十分。
水分摂取も気をつけているというものの、
必要量にはほど遠く、
毎日晩酌を欠かさないので、
よけいおしっこになって出てしまいます。
見た目には麻痺が進行しているようには
見えませんでしたが、本人の感覚では
明らかに足に力が入らない、と。
(もう、在宅生活は無理かな…)と
本人も言うほどでしたが、
少しずつ元気になるにしたがって
自宅での生活の意欲が戻ってきました。
心配する娘さんや主治医の先生、
近所の人が取り巻く中で
杉浦さんは「在宅生活」の決意を
訴えました。
周囲の理解と協力を得ることに
こぎつけた杉浦さん、
退院したあと、自宅を訪問しました。
夕方だったけど、
もう飲んでた(笑)
「ちょっと心配だけど、
頑張りましょう、杉浦さん」
と声をかけると、酔った勢いなのか、
突然「わーわー」泣き始めました。
「この家は苦労して建てた家だけ」
と杉浦さんは言ってくれました。
途切れ途切れの話に耳を傾けると、
自分は体があまり丈夫ではなく、
定職に就けなかったと。
理容師をしていた妻に
苦労をかけてしまったこと。
妻が早くに亡くなってしまったのは
自分のせいかもしれない、と。
でも、2人の子供はちゃんと育てたいと
苦労して大学まで行かせたんだと
そう話していました。
そういう思い出のたくさん詰まった
この家は俺が守るんだ、と
杉浦さんは泣きながら言いました。
2人の子供は県外で暮らしていて
もう帰ってくることはないと知っているけど
でも、やっぱり自分にはこの家がいいから
と、そう言いました。
私はただただ話を聞いてあげることしか
できませんでした。
「早く死にたいわ」と言う杉浦さんでしたが、
少しでも長く、そして不自由なく、この家で
過ごすことができるように手伝うからね、
と私が言うと、杉浦さんは私の手をただただ
握り続けてくれました。
今週も私にとって心を揺さぶられる
エンタメニュースがありました。
まったく今年に入ってから
すごいニュースが続いています。
…というか、俺、
そういうの見過ぎ?
清原和博。今週、
覚醒剤所持の現行犯で
逮捕されました。
彼は現在48歳。
私は学年で言うと
彼のひとつ下です。
「KKコンビ」という言葉は
私の子どもたちも知っていました。
言うまでもなく、彼がPL学園で
野球をやっていたとき、彼と
チームメイトの桑田真澄の
頭文字を合わせてた呼び名です。
彼らは大スターでした。
私も野球をやってましたが
逆立ちしたってなれっこない、と
思っていました。
私が高2の時、
地元で国体が行われ、
3年生だった彼らが
やってきました。
うちの高校のグラウンドが
彼らの練習場にもなりました。
しかし、一切彼らの姿は
見られませんでした。
あまりのファンの多さに
見ることができませんでした。
試合が行われた球場で
私は交通整理をしていました。
まあ、とにかくすごかった。
すごすぎて悔しい気持ちもわかない。
雲の上の存在でした。
私は生粋の巨人ファンの私ですが、
嫌いになりそうなときが
今までに2回ありました。
1回目は、私の地元のスター、
小林繁と江川卓のトレードの時。
2回目は淸原のドラフトの時です。
淸原は西武ライオンズに入団し、
1年目から華々しい活躍をしました。
初めて巨人と闘った日本シリーズ最終戦で
最終回の守備の時に思わず涙ぐみ
チームメイトに抱えられていたシーンを
今でもはっきり思い出します。
その後、フリーエージェントで
巨人に入団するのですが、
子供のころから好きだった
ジャイアンツに一度は振られたのに
やっぱり好きが押さえられず、
夢を叶えた姿を見て
(本当に純粋な人だな)と
思いました。
普通、大人になったら
そういうのはどうでもよく
なっちゃうじゃないですか。
でも、彼は子供の時の気持ちを
大切に心にしまっていたということ
だと思うんです。
しかし、終盤はケガがちで
とうとう主要な打撃タイトルとは
無縁で引退してしまいましたが、
親分肌で兄貴分な人柄と
いつまでも野球小僧みたいな茶目っ気とで
私は言うほどファンでもないんですが、
同世代ということもあり
彼の出演するTVはかなり観ていて、
やっぱり関心がありました。
「野球に関わり続けたい」と
ずっと言っていましたから
その夢が叶えばいいな、
いつか彼のユニフォーム姿を
見ることができたら
プロ野球も盛り上がるだろうな
と思っていました。
しかし、残念なことになりました。
どうしてこんなことに
足を踏み入れてしまったんだろう。
現役を退いたあとの
セカンドキャリアって
言うほど簡単じゃない。
仕事がら、年寄りを見ててもそう思う。
定年後の暮らしをうまく過ごせない人は
やっぱり過去の栄光にすがってたり、
「やることがない」「趣味がない」って
嘆いている人が多いと思う。
サラリーマンなら65歳までは
希望すれば居られるけど、
プロ野球選手なんて、
昨年引退した山本昌が
50歳まで現役やっていたのが
「あり得ない」ということで
ニュースになるほどで、
普通、スター選手でも40歳前後、
活躍できなければ20歳代前半でも
解雇、ということもざらです。
だいたい
プロ野球選手になれる人っていうのは
たいがい小学生のころから
野球をやっているのが当たり前で
24時間365日野球のことを考えて、
やっていないとなれないくらいの
レベルの話なので、
野球以外の世界って
考えられないほうが
ふつうだという認識です。
純粋に野球が好きであればなおさら、
という感じです。
だからといって、淸原のことを擁護する気は
さらさらないわけですけど、
でかい体の番長が身を縮めて
両脇を刑事に挟まれて
うつむいて車に乗っている姿を見て
ただただ、哀れに感じてしまったわけで。

