ケアマネの正しい歩き方  ~ケアマネタマゴに贈るケアマネ道!~

秋も深まり、食べ物がおいしい季節ですね。

先日、友人の家を訪問し、新米をいただきました。

新米はおいしいですね。

私、3年くらい前から

その友人から米をいただいているんです。



友人の奥さんの実家は、お米農家です。

実家のある地域は、有数の米どころです。

奥さんのお父さんが毎年毎年、心を込めてお米を作っています。

米どころですから、その地域には昔から地酒製造が盛んで、

お父さんは夏は農業、冬になると地酒の工場で杜氏として働いているそうです。



春から夏、夏から秋と田んぼで大事に育てられたお米は、

ご飯として食卓に上ったり、日本酒になってお酒を楽しまれる方に渡っていきます。



毎年毎年、心を込めて、毎年毎年、同じ作業をくり返し…。



しかし、今年、当然のように行われるはずだったその作業が行われなくなりました。



今年の8月に、お父さんは病気で亡くなったのです。



少し前から体調が悪いことは友人から聞いていました。リハビリや介護保険の相談も受けていました。

でも、お父さんはそういうところには行かないだろう、ということで、

以前のように、田んぼに出て稲や水の様子を見に行っていたと言います。



一本の稲、一本の稲の穂、そして一粒一粒の米。

その小さな小さな一粒の米の中には、お父さんのまごころがいっぱい詰まり、食卓に上るときは、そのまごころがふっくらと艶のあるご飯にするのでしょう。



そうやって大事に育てられたお米は、お父さんが亡くなってからは、友人やその奥さんや奥さんの姉妹夫婦にバトンタッチされました。



お父さんが手がけたお米が食べられるのは今から一年間のあいだ。

お父さんが亡くなってからも、1年間だけはそのまごころに触れることができます。



お父さんがお米に込めた心は私の命に変わります。

一粒一粒、大事に大切にいただきたいと思います。



ケアマネの正しい歩き方  ~ケアマネタマゴに贈るケアマネ道!~

正しいケアマネの歩き方  ~ケアマネタマゴが贈るケアマネ道!~-ブログランキング

前回は>>>こちら 。)


もうお一人、今までとは別の視点で、“幸福かどうか”を決めるものがあることを示してくださったパネリストが、映画「降りてゆく生き方」のプロデューサーで、弁護士でもある森田貴英氏です。それは何か?というと、



“他人と比較している人は幸福にならない”というものです。



この意見、皆さんはどう思いますか?



ここからは私の考えですが、



ブータンの回の時にインターネットで他国などの情報を得ているような状況下においては幸福度が下がっている、ということを書きました。あれは、自国と他国の状況を比較していることになります。

自分以外の誰かと比較して、“ああだ、こうだ”言っている人はあまり幸福を感じられない、ということなんですね。



例を挙げると、今は格差社会と言われて、裕福な家庭とそうでない家庭との差が激しく、子育てや将来の不安などから幸福感を感じられない時代であると言われています。



また、格差が広がったことを嘆くのは、過去の日本が「一億総中流」と言われるように、格差が非常に少ない社会だったことを経験しているからだと思います。



前者は裕福な家庭と自分とを比較して、後者は過去の日本と現在とを比較しています。

どちらも、何かと比較して現在の自分を悲観している、という図式になっていますね。



比較せずに、今ある状態をただ受け止められれば不幸だという感情がわいてこない、ということでしょうか。



こうしてみると、森田氏の一言は本質を突いているのかな、と思います。





でも、待てよ。

こんな疑問が沸いてきました。



「反対に、人が“幸福と感じる”ためには、やはり誰かと比較するのではないか?」



日本の高度成長期の頃に国民が幸福だと思っていたのは、戦後間もない貧しい時代と比較して今の生活が良いから、と感じているからなのではないか。あるいは「一億総中流」の頃は、相手も自分と同じような生活水準である、と思っていたから安心していたのではないか。



もしかして、ブータンの人たちも昔の生活と比較して今の生活の方がいいと思うから幸福と感じるのではないか。



「幸福だと思う気持ち」、「不幸だと思う気持ち」、どちらも何かと比較して思う気持ちなのではないか、と。



だから、森田貴英氏の言われた“他人と比較している人は幸福にならない”という言葉は、一面ではそうかもしれませんが、反対に“他人と比較しないと幸福を感じることができない”ということだと思ったのです。



やっぱり、人は誰かと比較して生きていくことが宿命なのかもしれません。

そして、比較してどう思うか、ということです。



つまり、他人と比較しても妬んだり、ひがんだり、羨ましがったり、落ち込んだり、そういうマイナスな比較はなるべくしないようにしたらどうか、ということです。自分もそうなりたい、という前向きなモチベーションに転換すれば不幸な気持ちを変えることができる、ということです。



家のローンが20年残っています。隣の家は払い終わっています。

「いいなあ、うちもローンがなかったら、もう少し良い暮らしができるのになあ…」と思うか、「ようし、頑張って10年で払い終えるぞ!」と思うか。



今の格差社会だってそうです。

過去の日本と比較して悲観的になるか、日本より格差の激しい他国と比較して楽観視するか。



相田みつを氏のこんな書が思い出されました。



ケアマネの正しい歩き方  ~ケアマネタマゴに贈るケアマネ道!~


(終わり。)




結局そういうことかな?^^

   ↓↓↓
正しいケアマネの歩き方  ~ケアマネタマゴが贈るケアマネ道!~-ブログランキング

前回は>>>こちら 。)


さて、ブータンのお話が終わったところで、いよいよ「人間にとって幸せとは何か?」の答えを述べたいと思います。



…なんてえらそうに言っても、それを特定することはムリだよ^^;



なにしろ、幸福度調査でも「あなたは幸せですか?」→“はい”or“いいえ”ですから、「幸せかどうか」というのは、誰かに決められるというものではなく、自分の考えひとつなんですね。



ただ、「それでおしまい」では、今まで記事を読んでくださって人に申し訳ないので、このシンポジウムにパネリストとして登壇された関西大学教授の草郷孝好氏のお話を基に考えていきましょう。

草郷氏の研究されているテーマは「人がもとめる“豊かさ”」で、そのひとつとしてGNH、ブータンの研究をされているそうです。



先生の話された結論では「経済」、「健康」、「良い人間関係」であるということでした。そして、「良い人間関係」の中身は社会の中に役割があること、と話されました。



これを私なりに解釈していきます。まずは「経済」。

経済的に不自由のない程度の経済力は必要でしょう。そういう意味では、戦後、何もない状態から経済を中心に人々の生活の豊かさを求めて歩んできたことは間違いではなかったと思います。

ただ、経済的に豊かになることと人々の幸せとは、ずっと比例するものではなかった、ということです。その証拠が1984年を境に、経済は成長しても幸福感は下がっていった、という事実です。



次に「健康」。生物の本能の部分にあたるでしょうか、「生きる」ということは。その欲求を満たすため「健康」であること、それによって「寿命が延びること」、このことは生物としての望みなのでしょう。

しかし、これについても、誤解が生じないようにしなければなりません。「健康」=「寿命・命」ではない、ということです。

現在では、健康でなくても命を延ばす方法がいくつかあります。そして、このことが決して人々を幸福にしているわけではないことは、介護の職業に就いている人やお家で介護をしていらっしゃるご家族の中で実感されている方もいらっしゃると思います。



また、身体的に健康な状態であっても、精神的に病んでいる人たちが決して幸福ではないことは簡単に想像できることでしょう。

そして、精神的に病んでいる人たちの多くは、社会的な関係に影響されているのではないか、ということです。これが「良い人間関係」の部分です。



例えば、過重労働でうつになった、いじめにあって不登校になった、などは、周りの環境によって引き起こされるものです。

また精神的な病とまでいかなくても、リストラで会社をクビになった、家族といっても冷え切った関係、育児の方法が分からず放置・虐待、近所と孤立して孤独死した、など、不幸だな、と感じる事例の多くに「社会との関係」というものが大きく影響しています。



ただ、草郷氏の意見はブータンの研究者でいらっしゃるだけに、ブータン国民が幸福を感じている理由をブータン人の生活を基に分析してみたらこうだった、というだけのような気がします。


もう1人のパネリストは、また違った視点で”幸福であるためにどうしたら良いか”示唆してくださいました。



続く 。)


「記事、よかった!」という方、クリックを。

   ↓↓↓
正しいケアマネの歩き方  ~ケアマネタマゴが贈るケアマネ道!~-ブログランキング