(前回は>>>こちら 。)
もうお一人、今までとは別の視点で、“幸福かどうか”を決めるものがあることを示してくださったパネリストが、映画「降りてゆく生き方」のプロデューサーで、弁護士でもある森田貴英氏です。それは何か?というと、
“他人と比較している人は幸福にならない”というものです。
この意見、皆さんはどう思いますか?
ここからは私の考えですが、
ブータンの回の時にインターネットで他国などの情報を得ているような状況下においては幸福度が下がっている、ということを書きました。あれは、自国と他国の状況を比較していることになります。
自分以外の誰かと比較して、“ああだ、こうだ”言っている人はあまり幸福を感じられない、ということなんですね。
例を挙げると、今は格差社会と言われて、裕福な家庭とそうでない家庭との差が激しく、子育てや将来の不安などから幸福感を感じられない時代であると言われています。
また、格差が広がったことを嘆くのは、過去の日本が「一億総中流」と言われるように、格差が非常に少ない社会だったことを経験しているからだと思います。
前者は裕福な家庭と自分とを比較して、後者は過去の日本と現在とを比較しています。
どちらも、何かと比較して現在の自分を悲観している、という図式になっていますね。
比較せずに、今ある状態をただ受け止められれば不幸だという感情がわいてこない、ということでしょうか。
こうしてみると、森田氏の一言は本質を突いているのかな、と思います。
でも、待てよ。
こんな疑問が沸いてきました。
「反対に、人が“幸福と感じる”ためには、やはり誰かと比較するのではないか?」
日本の高度成長期の頃に国民が幸福だと思っていたのは、戦後間もない貧しい時代と比較して今の生活が良いから、と感じているからなのではないか。あるいは「一億総中流」の頃は、相手も自分と同じような生活水準である、と思っていたから安心していたのではないか。
もしかして、ブータンの人たちも昔の生活と比較して今の生活の方がいいと思うから幸福と感じるのではないか。
「幸福だと思う気持ち」、「不幸だと思う気持ち」、どちらも何かと比較して思う気持ちなのではないか、と。
だから、森田貴英氏の言われた“他人と比較している人は幸福にならない”という言葉は、一面ではそうかもしれませんが、反対に“他人と比較しないと幸福を感じることができない”ということだと思ったのです。
やっぱり、人は誰かと比較して生きていくことが宿命なのかもしれません。
そして、比較してどう思うか、ということです。
つまり、他人と比較しても妬んだり、ひがんだり、羨ましがったり、落ち込んだり、そういうマイナスな比較はなるべくしないようにしたらどうか、ということです。自分もそうなりたい、という前向きなモチベーションに転換すれば不幸な気持ちを変えることができる、ということです。
家のローンが20年残っています。隣の家は払い終わっています。
「いいなあ、うちもローンがなかったら、もう少し良い暮らしができるのになあ…」と思うか、「ようし、頑張って10年で払い終えるぞ!」と思うか。
今の格差社会だってそうです。
過去の日本と比較して悲観的になるか、日本より格差の激しい他国と比較して楽観視するか。
相田みつを氏のこんな書が思い出されました。
(終わり。)
結局そういうことかな?^^
