(ひとしずく・⑥II.艱難期の始まり 第3部A)‐背教の語源‐ | sarah‐mercy

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 来たる艱難期 第3部A パート6

 

艱難期の始まり  (ヨハネの黙示録8章1節~11章14節 )

                    

                       ロバート・D・ルギンビル博士著より

 

<「ひとしずく 「背教について」の再配信>

b.背教の語源

英語の「アポスタシー apostasy」はギリシャ語のアポシタシアapostasia

(Āποστασία; 第二テサロニケ2章3節参照)の音訳で、

語源的には「離れて立つ(apo = "away(離れる)"; stasia ="standing(立つ)")

または何かから「離れる」ことを意味します。

 

誰かや何かから故意に背を向ける、見捨てる、「反抗する」という行為は、

古代ギリシャ語全体を通して、この語の最も一般的な用法です。

(参照:使徒行伝21章21節:KJVとNASBでは "forsake(捨てる)"、

 NIVでは "turnaway(背を向ける) "と訳されています。<日本語の口語訳では「そむく」>)

 

旧約聖書と類似している点では、アポスタシア<名詞>は

同族の動詞アフィステミaphistemi 使徒行伝5章37節参照)と共に、

神から離れるという同じ概念を表しますが、これに類似した、

多くの旧約聖書のヘブル語の表現があります。

例えば、ヘブル語では、名詞メシュバto(משבה;「後戻り」または背教)

同族の動詞シュブ(שוב;「後戻りする」または背教する)

よく使われる名詞と動詞の一組です。

 

どちらの言語でも、この概念を表す用語は数多くありますが、

ギリシャ語とヘブル語の対応している語彙からわかる主要なことは、

「アポスタシー」とは、紛れもなく、神から離れること、神を見捨てること、

神に反逆すること、つまり、信仰者が神の権威を完全に拒絶すること、

神に対して「背を向け」、代わりにこの世に「戻っていく」ことにほかなりません。

(参照:ヨハネ15章1-7節ローマ11章17-23節[1] 

 

 石地にまかれたものというのは、

 御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。

 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、

 御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

(スカンダリゼタイ;すなわち、背教するのです)

                        (マタイ13章20-21節) 

 

 同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。

 御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、 自分の中に[信仰の]根がないので、

 しばらく続くだけ[の信者]である。

 そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

(スカンダリゾンタイ:棄教する)

                  (マルコ4章16-17節) 

 

 [信仰の種が]岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、

 [信仰の]根が無いので、しばらくは信じていても、

 試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。

(アフィスタンタイ:止める、棄てる)

                    (ルカ8章13節) 

 

アポスタシー(背教)の根底にあるのは信仰の死であり、

一度は信じた者が、救い主である私たちの主イエス・キリストを拒絶することです。

上記の福音の種まきのたとえの箇所から明らかなように、

多くの場合、「艱難」「迫害」、つまり弟子となるための代価が、

その時点で楽だと思われる道を選んで、

かつての信仰者に信仰を捨てさせる決定的な要因となります。

(参照:「艱難」「迫害」は、

 それぞれ大背教と大迫害における艱難期前半と艱難期後半に特徴的なものです)。 

 

 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、

 この世の汚れからのがれた後、

 またそれに巻き込まれて(霊的に)征服されるならば、

 彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。

 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒め(キリストを信じること)

 にそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。

 ことわざに、

 「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、

  また、どろの中にころがって行く」とあるが、

 彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

                       (第二ペテロ2章20-22節) 

 


[1] この他にも、ヘブル語旧約聖書とギリシャ語新約聖書には、

背教の概念を表す言葉がたくさんあります。

例えば、アナカンプト(ἀνακάμπτω 「引き返す」;第二ペテロ2章21節参照)

スカンダリゾ(σκανδαλίζω 「つまずかせる」;マタイ24 章10節参照)、

ペシャ(פשע「反逆」、ダニエル9章24節参照)、

シュール(סור「背教」、イザヤ1章5節参照)、

マラド(מרד「そむく」、民数記14章9節参照)、

およびこれらの同族の言葉を挙げるときりがありません。 

 

--パート7に続く下差し

 

 

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イエスは彼らに言われた。

「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。

やみがあなたがたを襲うことのないように、

あなたがたは、光がある間に歩きなさい。

やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

(ヨハネ12:35)

 

感謝します

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今朝は朝露で屋根が濡れていましたキラキラ

爽やかなお天気になりそうです

 

毎日ウォーキングしていると、いろんなお花が咲いていて

写真が追い付かないほどです

暑くなって夜ウォーキングに切り替えたら、昼間の写真が撮れなくなりますね

夜空を見上げるのも楽しいですが、

その前に、夕方ウォーキングして、夕空を見ることにしようかなぁ・・・夜の街

何事も、楽しみながら続けることが大切ですね

大変なお仕事の中でも、行き帰りにでも、

病の床で外に出ることをすらできない状態でも、

何か楽しいこと、ほっとすることを見つけることができますように

 

お祈りしていますお願い

 

 

 

               

 

 

 

 

 

           エゴノキ

           

 

 

うつむいて咲いてるお花、恥ずかしがり屋さんなのかな

 

 

      下から覗いてみよっとキラキラ  こんにちは~ピンク音符

      

             *:..。o○☆゚・:,。*

 

 

 

 

あ、ここにも覗いている子がいるねブルー音符

 

 

 

          ロジャー君、こんにちは~音符

         また来るねバイバイ

       

            今日もありがとう~ラブラブ