このブログは
2012年8月4日に記憶喪失になった弟に関しての色々を
姉である私の視点で綴っています
自分用覚え書きですので超マイペース更新


もしも、ある日突然
あなたの大切な人が
すべての記憶を失ったなら

あなたを忘れ
自分自身を忘れ
好きな食べ物も
思い出の土地も
何もかもなかったことになったら…


有り得ないこと
そう言って笑いますか?
私もそう思っていました
むしろ考えたこともなかった
こんなこと起こるはずがない
テレビ、映画、小説
その中でだけ起きるはずのこと
けれど“有り得ない”は目の前で起こりました

『明日がある』
そんな安逸に溺れることなく
あなたとあなたの大切な人が幸せであり続けますように

そして
『今しかない』
それを思い知った私と私の大切な者達が
ここから幸せを掴み取れますように
水曜日(10日)から今日まで弟は沖縄に修学旅行へ
いやー準備が大変だった
時間ばっかりかかって全然終わらないw

担任は
「家で家族といるのと違って民宿はストレス溜まるかもしれないぞ」
なんて心配してくれたみたいだけれど
家族と思えない家族と、自宅と思えない自宅にいるより
同い年のクラスメートと沖縄の民宿
の方が絶対気楽だろうっていう(笑)

私も2ヶ月余りが経ち、その間に色々とあり、色々と考え
3日間とはいえ少し離れていられる時間を持てるのは
正直有り難かったり


そして、弟不在の間
結構母に甘やかされた気がする
やっぱり多少なりと追いつめられてるの分かられてしまってるのかなぁ…
母自身だって辛いだろうに申し訳ない
このご恩は必ずお返しします母上(`・ω・´)ゞ
死んだ
消えた
変わった

どれも正しいようで、どれも少しズレてる
命がなくなった訳ではないし
弟という人間が消えた訳でもない
人格がガラッと変わった訳でもない
むしろまったく変わっていない
弟は弟のまま
同じ人格
ただ以前のままであることを
弟自身がまったく分からないというだけのこと

記憶喪失というものに関しても
どう表現すれば良いのか迷うことが多々ある
精神疾患の一つであることを
否定しようとは思わないけれど
『患った』『治る』という言葉をそのままには使えない

患った→記憶を失ったこと?
治る→記憶が戻ること?

どうしてもそうは思えない
では、今の弟はなんだというの?

どんなに難病でも
『こうなったら完治ですよ』
というものがあるのならそれに向かって頑張れるのだと思う
そこに辿りつける可能性が例え1%未満であったとしても
光がそこにあることは分かる
でも、目指すべき確かな場所が分からないとしたら…

まず、その場所を定めるところから始めなくてはならない
それを病院やお医者様は教えてくれない
弟自身、そして私達周りが定めるしかない
そしてまだ私達は、確固たる光を定められていない

ただ一つ言えることは、もう弟が
家族について悩むことはない
自分の子供時代について悩むこともない
記憶を失い、実感を失った
幾ら物語として聞いたとしても自らのお話ではない
それはある種の解放で
『完治』ではなくても安定ではあるのだと思う


出来ることなら
ご家族や恋人や親しい友人が
記憶喪失になった方に実際のお話を伺いたい
勿論ご本人であれば弟にとって最も幸いだけれど
けれど症例があまりに少ないからそれは無理な願いなのかもしれない
諦めるしかないのだろうか
午後、弟の習い事の発表へ

今の弟は実質1ヶ月半しかやっていないのだけれど
ある意味、前の弟と今の弟の合作に泣いたり笑ったり

追い込まれた状況になりながらも消える直前までそれをやり通そうとした前の弟
(倒れたのもこの習い事に行く支度をしている時でした)
自分が決めた事でも、自分が始めたことでもないのに
前の弟が遺したものを形にした今の弟
どちらも凄いと思う
強いと思う

私事になるけれど
私もかつてその道を目指したことがある
もう7年も前のこと
結局私には表現すること、創ることは向いていないと分かり一観衆に戻ったけれど
私は、見巧者にはなれたとしても表現者にはけしてなれない

今日の発表を見て、身内贔屓ではなく思った
弟は表現者であるべき人間だと
今日で一段落なので、もしかしたらこの習い事はやめるかもしれない
もしかしたら今度は自分で決めたこととして新しく始めるかもしれない
どちらにしても、彼には表現者であることが似合うなと思う
だから、強制したりは絶対しないけれど
また彼の表現が見られたら幸せだなと一観衆な私は思う

本当にお疲れ様!
食べ物に関しても
“自分が食べた記憶”を失った弟は
未だに沢山の“食べたことのないもの”がある
この1ヶ月半、
私や母が、以前の弟が好きだったものを教えたり
弟自身が何となく惹かれるものを買って食べてみたりして
幾つかの好物が発見された

でも「美味しいけれどあんまり好きじゃない」とか
「好きではない。普通。必要があったら食べる」みたいなものをその後も結構食べていたりする

それを見て私は思う
「どうせなら好きなもの食べればいいのに」
そして再度聞いてみる
「好きなの?」
「そうでもない。普通」

頻繁に繰り返されたこの会話
でもある時、不意に気付いた
「私は食べてるもの全部好きだろうか?」
答えはノー

主食なんて最たるもので、お米やパンやコーンフレーク
本当に好きだから食べている人なんてどれほどいるだろう
おかずやお菓子も“好きだから”食べているものなんて極少数
「なんとなく」「習慣」「手近にあったから」
そんなところ

人間、好きなものだけで生きている訳でも生きていける訳でもなく
多くの“普通”に少しの“好き”が挟まってこその日常なのだなと思います