いじめられっ子の私がアイドルと呼ばれ応援されるようになるまで⑥~夢を捨てて~ | 伝え方コンサルタント・三木恵の「心を動かす話し方」

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\「あなたに会いたかった」と言われる話し方レッスン/
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●元ラジオ局アナウンサー
●即興アクター(インプロ、プレイバックシアター)
●話し方・コミュニケーション指導1500人
●大学・企業研修

 

わたしの過去をシリーズで綴っています。
ぜひ①から順にお読みくださいね。

いじめられっ子の私がアイドルと呼ばれ応援されるようになるまで
①~不幸の手紙~
②~「一生恨むから」~
③~舞台上のいじめ~
④~居場所~
⑤~ひとつだけ~
⑥~夢を捨てて~ ★イマココ



***



スクールカースト、学校内での立ち位置の序列において、わたしが所属していた演劇部は最下層でした。


ある雨の日、校舎内で走り込みをしていると(演劇は体力が必要なので走ります)、
同じく走っていた野球部員たちと廊下ですれ違いました。

野球部男子から見れば、狭い廊下でちんたら走っている(ように見える)演劇部は邪魔だったのでしょう。

露骨にイヤな顔をされ、

エンゲキ部うぜえ!殲滅すっぞ!!

とすごまれたのでした。
(殲滅って \(^o^)/ )


野球部はスクールカーストのてっぺんにいますから、最下層に対してはそんな扱いです。


周囲に聞いた限りでは、だいたいどこの学校の演劇部もこんな感じだとか!

高校時代から、わたしやわたしに「劇団をやろう」と誘った友人は、この現象がとても不満でした。


みんなドラマも映画も好きだよね。
俳優さんや女優さんに憧れるよね。

同じお芝居なのに、なんでドラマや映画は好まれて、舞台は興味すらもたれないの?
同じ役者なのに、なんでテレビに出てると憧れられて、演劇部員はさげすまれるの?



高校生のときは、なんでさ!とプンプンするだけでしたが、19、20歳のわたしたちはちょっと大人になっていました。


答えはかんたん。

ドラマや映画やそれに出演する役者さんはかっこいいけど、演劇部の芝居や演劇部の役者はかっこよくないから。

重要なのは「芝居」という共通点ではなくて、アウトプットがかっこいいか、かっこ悪いかです。




それならば、わたしたちはかっこいいお芝居をしよう。



東京での生活に挫折し実家に戻ったわたしは、友人に誘われ、劇団を立ち上げました。

その劇団の上演コンセプトは「おしゃれな演劇」

演劇のかっこ悪いイメージを覆したい。
演劇に興味のないひとにも観て楽しんでもらいたい。

賛同してくれる仲間を集め、すぐに脚本を作り、稽古を始め、どんどん公演をしていきました。



ドラマのように身近な題材から物語をつくって、衣装は「あれ着たい」と思えるファッション、舞台装置はアートっぽく、音楽もセンスよく。

チラシは手にしただけでわくわくするようなデザイン、受付の接客レベルにこだわり、会場の物販はケーキやアクセサリーなどテンションの上がるものにして。


演劇関係者からは「邪道だ」「こんなの演劇じゃない」と言われることもありましたが、わたしたちはわたしたちのやり方で真剣に演劇をしました。

舞台上から見るお客さまの笑顔、涙、幕が降りたときの拍手、そして、

「演劇がこんなにおもしろいなんて知らなかった」
「この劇団に影響を受けてお芝居を始めました」


そんな感想をいただくのがうれしくて、わたしたちは劇団の活動にのめりこんでいました。







1時間、2時間の物語をお客さまの前でノンストップで演じ切るには、膨大な練習と準備が必要です。

わたしは仲間と一緒に来る日も来る日も演劇のことばかり考え続け、とにかく動き、とにかく演じ、小道具を制作し、宣伝に歩き、チケットを売り、


そのうちに、自分の東京での挫折のことをあまり考えなくなっていきました。


それよりも、今、目の前にやりたいことがある。やるべきことがある。

演劇を志して直面した挫折は、演劇によってどんどん過去のものになっていきました。



今のわたしが思うのは、

 

過ぎたことにうじうじと悩んでしまうのは「ヒマだから」だということです。

もう変えようのないことにぐだぐだするのは、結局ぐだぐだしていたいだけなんです。


新しいことを始める。
動く。動く。動く。

前に進む方法はそれだけですよね。



ですが、演劇への熱意で動き続けた結果、わたしは予想していなかった方向へ進むことになります…。







わたしは劇団の活動とは別に生計のためのアルバイトをしており、主にはパソコン教室の先生としてWordやExcelを教えていました。


講師業はおもしろかったですが、どうせならもっと「表現」という感じの仕事がしたい。

そう思っていた頃、劇団の友人から、役者さんは舞台の他に司会やナレーターの仕事をして食べてる人が多いという話を聞きます。


それだ!!
それ、すごくおもしろそう。

演劇経験も活きるだろうし、司会の経験を演劇に活かすこともできそう。

劇団をしながら話す仕事ができたら最高なんじゃない?!


東京でプロの役者になることはできなかったけれど、北海道で役者として生きていく道が見えたように思いました。



わたしはすぐ、札幌市内の放送タレント事務所に付属する養成所に通い始めました。

発声、演技、ニュース読み、朗読、フリートーク、模擬ラジオ番組の収録、司会の基本、

様々な「話すこと」をここで学びました。



演劇で培ったものは確かに役立ちましたが、新しく知ることも多かったですし、「わたしはずっと演劇やってるから」という傲慢さを見抜かれこっぴどく叱られたこともありました。

優秀なクラスメイトと自分を比較し、できない自分が悔しくて、涙を流しながら帰ったこともありました。


それでも、根気よく指導してくれる先生と、一目置いてかわいがってくれる先輩に恵まれて、わたしは入所半年で初めての「話す仕事」を得ることができました。

19歳の終わりのことです。

後から知ったのですが、半年で仕事を依頼されるというのは、この養成所では異例の早さだったようです。


中古車オークション会場で車種や金額を淡々とアナウンスする、決して複雑ではない現場でしたが、最初はやはりものすごく緊張しました。

付き添ってくれた先輩がずっとわたしの後ろに立って肩に手を置いてくれていたこと、
現場が終わった後は駅のマックでコーヒーをご馳走してくれたこと、
いつかあなたも後輩を支えられる存在になってねと言っていたこと、

今でも思い出すと温かい気持ちになります。







その後、わたしは少しずつ他の現場の仕事もするようになりました。

ヒーローショーのお姉さん、携帯電話のキャンペーンMC、夏祭りの司会、スポーツ大会の司会、企業展示会のMC、学会の司会、ラジオリポーター、TVリポーター、CMナレーション…

やらせていただけることはなんでもやりました。


期待に応えられなかったことや失敗してしまったこともありますが、挽回するために食らいつき、必死で取り返して次につなげていました。


生計を立てるため、それももちろんありますが、

 

話す仕事にのめりこんでいたのです。



劇団だけでは食べていけないけど、普通のバイトをするのは物足りないから、どうせなら話す仕事をしたい。

そんなきっかけで目指した仕事でしたが、初めてのギャラをいただいたときにはすでに気持ちは変わっていたのかもしれません。


話す仕事っておもしろい。


わたしの声と言葉で人の心が前向きに動くことが、うれしくてたまらない。




…そして同時に、わたしの人生の居場所であり原動力でもあった演劇に対する思いも変化していました。



プロの役者にはならなくていい。


ただ、自分が志す演劇を、ずっとずっと、続けていきたい。


間があいたり、規模が小さくなったりするかもしれない。それでもずっと「やりたい演劇」を続けていければいい。そういう関わり方をしたい。


明確なきっかけやタイミングがあったわけではありませんが、結果的にわたしは夢を捨てました。


演劇は、「プロになる」という夢ではなく、「プロでもそうでなくても関係ない。わたしがいいと思うものを妥協せず表現し続ける」という、身体の一部のようなものになったのです。



あれから10年以上経った今も、わたしは形を変えながら、演劇とともに生きています。







話す仕事をするようになって4年。

季節で変動はあるにしても、同年代の大卒会社員を上回る収入を得られるようになったころ、またも転機が訪れました。


「力を貸してくれ。助けてほしい」


かつて通っていた養成所の先輩からの連絡でした。

養成所を卒業した後も同じ現場で仕事をすることが多く、特にかわいがってくれている先輩です。


先輩はそのとき、小さなラジオ局の職員として働いていました。


ラジオ局の経営体制が変わったことで人手が足りなくなってしまった。
すぐに番組を担当できるアナウンサーがほしい。
司会やリポーターの仕事が軌道にのってきたのは知っているし、給料は安くなるかもしれないが、うちに来てくれないか。



話す仕事をするようになってから、わたしはずっと仕事を選ばずに進んできました。

でもデビューから4年が経つと、だんだん自分の得意なことや好むものが見えてきていました。


ライブであること。
受け手との距離が近いこと。



演劇にも通ずるこの2点がわたしにとって大切でした。

司会やラジオの仕事がまさにこれに当てはまり、逆にテレビの旅レポなどの仕事はかなり背伸びをしていました。


そんなことに気づき始めたところへ、誰よりもお世話になっている先輩からの誘い。

断る理由はありませんでした。



こうして、わたしはラジオ局のアナウンサーになったのです。



続きます。