わたしの過去をシリーズで綴っています。
ぜひ①から順にお読みくださいね。
いじめられっ子の私がアイドルと呼ばれ応援されるようになるまで
①~不幸の手紙~
②~「一生恨むから」~
③~舞台上のいじめ~
④〜居場所〜
⑤~ひとつだけ~ ★イマココ
***
杉並区の端、川沿いの学生会館。
ベッド、クローゼット、学習机が備え付けられた6畳間で、わたしの東京生活が始まりました。
18歳の春のことです。
お風呂、トイレ、洗濯機、洗面所は共同。
お風呂に入れるのは21時まで。その後はコインシャワー。
洗面所の蛇口は水しか出ず、朝は冷水で顔を洗いました。
この水がものすごく臭くて、歯磨きが辛かったのを覚えています。
個室は、Pタイルの床と、石膏ボードの天井。グレーのパイプベッド。故障した旧式の縦型エアコン。
病院のような無機質な雰囲気でした。
北海道から持ってきたカラフルな雑貨をめいっぱい並べましたが、引っ越しを手伝ってくれた両親と妹が北海道へ帰ってしまうと、
6畳しかないはずの部屋はやけにガランとしているように感じました。
この学生会館で唯一好きだったのは、食堂の隣にあった小さな中庭です。
あまり手入れはされていないようでしたが、少しだけ花が咲いていました。
食事をとりながらぼんやり眺めるのが好きでした。
残念ながら、食事そのものはかなりまずかったです…。
それでも、初めて親元を離れて、憧れの東京での生活です。
入学式で着る服を探しに原宿へ出かけたり、新宿のカフェでフレンチトーストを食べたり。
近所のスーパーで牛乳を買って帰るのすら、新鮮でした。
これからどんな日々が始まるんだろう。
目の前のすべてが輝いているようで、わたしの胸は期待とやる気でいっぱいでした。
恵比寿にあった芸能系専門学校は、とにかく刺激にあふれていました。
ずらっと並んだリングピアスで耳がルーズリーフみたいになっている人。
金髪でモヒカンの人。
切れ長の目に高い鼻、ゲームに出てくる王子様のような超絶美青年の先輩!
北海道の地方都市では絶対お目にかかれない人たちばかり。
わたしは地元では派手なほうでしたが、この学校ではかなり地味なほうでした。
そして肝心の授業は、
舞台演技、映像演技、インプロ、声楽、バレエ、日本舞踊、ジャズダンス、ヒップホップ、パントマイム、CM制作…
個性的な科目ばかり。
そう、まさにこういうのをやりたかったのです!
しかも講師は役者さん、アナウンサーさん、プロデューサーさん、ダンサーさん、芸能やメディアの世界で生計を立てている方たち。
どんな人なんだろう。
どんな話が聞けるんだろう。
初めて出会う「芸能界のひとたち」です。
シラバスと呼ぶには簡素な資料を手に、わたしはドキドキが止まりません。
あれもやりたい、これもやりたい。
学内劇団にも入りたい。
絶対にプロの役者になる。
なんとかなる。なんとかする。
そんな根拠のない自信を頼りに上京したわたしは、興味のある授業を月曜から土曜までびっしり選択し、放課後は学内劇団で活動することにしました。
奈良出身だという関西弁のかわいい女の子や、一度就職してから入学したというしっかりものの女の子と仲よくなり、毎日毎日、朝から晩まで、表現の勉強をしていました。
怖い先生もいたし、失敗も多かったけれど、友だちと笑いながら挑戦し続けることができました。
新しい発見に満ちた、とても充実した日々でした。
なんとかする。
だから、全力でがんばる。
そう思っていました。
丸ノ内線に乗り、新宿で山手線に乗り換えての通学。
朝夕は通勤ラッシュ、または終電で満員。
学生会館の味気ない食事か、学校近くの定食屋さんの食事か。
お昼はコンビニのパン。
毎日なにかしらダンス系の授業があり、常に筋肉痛。特にバレエの翌日は全身バキバキ。
5月の連休は都内のスーパーで試食販売のバイト。
そんな日々を過ごしていたら、あっという間に夏がやってきました。
北海道で生まれ育ったわたしにとって、初めて経験する、東京の夏。
熱帯夜が続きました。
個室の旧式エアコンは壊れたまま。
部屋は寝るためだけの場所でしたが、その寝ることができなくなりました。
わたしはあっさり体調を崩してしまいました。
頭痛が止まず、薬も効かず、毎日詰め込んだ授業に出るどころか、室温35℃を超える部屋のベッドから動くことができなくなってしまいました。
這うようにして食堂へ行き、水分とわずかな食事をとるのが精いっぱいでした。
がんばらなきゃ、がんばらなきゃ、
そう思っても身体が動きません。
気づくとボロボロ涙がこぼれて、自分が情けなくて、後ろ向きなことばかり考えていました。
こんな状態でやっていけるんだろうか。
みんなは変わらず授業に出てるのに。
…わたしには向いてなかったのかも。
もともとなんの根拠もなかった自信は、気づけば消えてなくなっていました。
夏休みまでには少しずつ回復し、授業にも出られるようになっていましたが、
わたしはもう入学したころのような気持ちではいられませんでした。
夏休みに実家に帰り、母親の食事を食べ、友だちと会い、おだやかに時間を過ごしました。
8月の終わりに東京へ戻りましたが、
わたしはもう、東京での学生生活を続けることができなくなってしまいました。
わたしは学生会館の個室で、以前から好きだったJUDY AND MARYのCDをよく聞いていました。
当時、2000年の夏、リリースされたばかりの「ひとつだけ」を聞いていました。
おさえめのメロディから、シンプルで力強いサビへ。
少ない言葉をのびやかに歌い上げるYUKIちゃんの声。
YUKIちゃんが書いた「ひとつだけ」という歌詞がなにを表しているのかはわかりませんが、
わたしには、夢とか、やりたいこととか、そういうものに聞こえました。
そしてその「ひとつだけ」を、自分はもう掴めない。
バカなことを考えてると、自分を笑い飛ばすこともできないまま、わたしは北海道に帰りました。
引っ越しの日、学生会館のスタッフの方に最後の挨拶をすると、こんなことを言われました。
あなた、初めて来たとき、中庭のお花がきれいですねって言ったでしょ。
そんなこと言ってくれる人初めてだったよ。
あなたみたいな人は、東京じゃなくて、北海道の自然の中のほうが合ってるのよ。
気遣ってくれているのがわかりました。
でも、そのときのわたしは、はい、と小さく返すのがせいいっぱいでした。
無理を言って上京し入学した専門学校に通ったのは、わずか半年ほどでした。
両親が出してくれた学費、生活費、いったいいくらドブに捨てることになってしまったのかはわかりません。
それでも、父も母も、「帰ってきてくれてよかった」とだけ言ってくれました。
小学校、中学校と、つらいことはいろいろあったけれど、
このときは誰に何をされたわけでもなく、すべて自分が招いたこと、自分が諦めたこと、自分で自分の首を絞めたことでした。
わたしは、よくいえば感受性が強い、悪くいえば感傷に飲み込まれやすい性質です。
たったひとつのものを失った。
挫折した。
自分はやっぱりこの程度なのか。
暗い気持ちが常に胸にはりついているようでした。
そんなわたしを気遣ったのか、単に演劇がやりたかっただけなのか。
1人の友人が声をかけてくれました。
「ねえ、一緒にお芝居やろうよ!」
彼女の一言が、そして、やっぱり演劇が、わたしを突き動かしました。
彼女とわたしは北海道で劇団を立ち上げました。
そしてわたしは今度こそ表現を仕事にするために動き出したのです。
続きます!