知的障がい者への虐待が新聞紙面をにぎわしているのを見て、いけないことだけれど、「こういう施設も出てくるよなー」と思ってしまいます。

 

福祉にかかわる人の賃金が安いと、ずっと言われているのに全然といっていいほど変わらないですよね

 

これって、「福祉の仕事の価値はい低いんだよ」といわれているようなもの。

 

「立派な仕事をしたらたくさんの給料をもらえる」

「素晴らしい仕事には、それだけのご価値がある」

「誰にもまねできない、あなたにしかできないことは評価される」

「本人の能力や、達成した仕事に見合うだけの報酬がないといけない」

「世の中のみんなが求める需要が多くて、供給が少なければ給料は上がる」

 

こういう教育を受けながら、皆大人になってきてるんですよね

 

ということはですよ?

福祉の仕事に対する給料が安いのには、それだけの訳があるってことになりません?

 

さっきのを裏返せば、世の中の人が思っていることがわかります

「給料が安いのは、立派な仕事じゃないから」

「大した仕事じゃないから、それほどの価値がない」

「誰にでもできることで、あなたでなくてもいいから、それほど評価されない」

「たとえ仕事を達成しても、仕事に見合う給料自体が安い」

今、福祉に携わる人の賃金を上げなければいけないって言ってますけど、根底には「大した仕事じゃない」っていう気持ちがあるから、全然改善されないんだと思います。

価値を見出せないものに、人はお金を使わないものです。

 

現実として、福祉の仕事に対する世の中の判断はこんなものってことになります。

福祉の仕事に携わる人が、こういう風に思われるのは、あまりいい気がしないでしょう。

僕だってそうです。

どんなに頑張っても、そんなに評価されないとき、人はどうすると思います?

 

一般的には、仕事に対して手を抜くんですよ。

「世の中の人が期待している程度の仕事ぶりで十分だろう」って

そして、「もっと評価してくれるところへ行こう」ってなります。

なりたがる人がいないし、転職していくんだから、人手不足は当たり前です。

 

やりがいや達成感で仕事をする人はいますけど、生活が懸かっているからみんな賃金を気にします。

福祉の仕事に就いたものの、実際の労働と賃金の評価が違ってるなーと思ったら

「この程度の賃金ならば、このくらいの仕事ぶりでちょうどいい」なんてことを考える人だって出てきます。

「賃金以上の仕事を求められてもしたくない」んだから、実際に、それ以上の仕事が出てきたら嫌なんです

「どうして、こんなことまでしなくちゃいけないんだよ」と

 

手のかかる重度の知的障がい者の支援をするとき、多くの支援員はこう思っているはずです。

「誰にも面倒を見てもらえないから、こんな施設に追いやられてきたんだ。見てればわかる。これでは、社会生活は無理だ。」と。

幸せになるために、入所施設に入りたがる知的障がい者はいません。

たいてい、周りの人が面倒を見切れなくなって、入所施設に入れる。

どんなきれいごとで飾ったって、みんな思っています。

あまりに手がかかって周りの人の負担になってしまう知的障がい者は、「捨てられて、入所する」んですよ。

それほど大変な知的障がい者を支援するのに、仕事への評価が低いとなったらどっかにしわ寄せが行きます。その一つとして、虐待が現れたりするんだと思います。

 

大事なのは、誇りなんだと思うのです。

その仕事をすることで、自尊心が満たされる。

胸を張って、職業を語れる。

それを、よのなかのみんなが思って、あこがれるような仕事になれば、いいのだと思います。

 

目標としては、小学生のなりたい職業ランキングの上位に、福祉の仕事が出てくることを当面の目標にしたら、かなり変わると思います。もちろん、医療従事者とは別枠のカウントですよ?

福祉職員が、知的障がい者にどんな支援ができるのだろうってことでした。

いろんなことに興味関心をもって、生き生きと活動していけるような、余暇活動に対する支援ですね。

 

ぶっちゃけ、私生活にまで口出しはしない方がいいと思っています。

身体に悪いと思っていても、酒を飲むし、たばこを吸う。

夜のラーメンだってやめられないし、ついついお菓子を買って後悔しちゃう。

皆したいことをしたいようにしてて、人に迷惑をかけない限り好きに生きてるんだから、知的障がい者にだけ、生き方や休日の使い方にあれこれ口出しするのは変に思うのですよ。

 

もちろん、情報提供はするし、「こんなことがあるよ」と提案はする。

何か始めるならば、手助けだってする。

けど、最終的に決めるのは本人でなくっちゃいけないと思う。

 

誰だって「老化防止のために、この趣味をしろ」なんて押し付けられて、「ありがとう」とは言えないと思う。

「余計なお世話だ 馬鹿野郎」と怒るんじゃないかな

 

「知的障がい者だから助けてやらないといけない」なんてこともよく言われるのだけれど、それって、「できないんだから、してやらなくっちゃいけない」っていう、押し付けだと思うのですよ。

大事なのは、本人がいろいろなことに挑戦できるように周りの人が促したり、手助けして、いろんなものに意欲を持った人間に育てることです。

「それができないから知的障がい者なんだよ」という意見がある一方、「育て方次第で何でもできるよ」と言う人がいる。

どっちが正しいとかじゃあなくって、本人が幸せなのは、「自分のしたいことを自分で決めて生きていける」なんだから、そのように周りは動かなくっちゃいけない。

 

けど、僕の実感だけれど、知的障がい者は、「今すぐの欲望」が満たされることにはお金を使うけれど、それ以外にはお金を使いたがらない傾向があるように感じている。すぐにはうれしさや楽しさや充実感などを得られないことに、及び腰だ。

新しく何かを始めるにしても、お金がかかる。楽しいばかりじゃないし、苦しいこともある。

本人の意思を尊重しすぎると、「お金がかかって、すぐに心が満たされないことはしない」ってことにもなりかねないから難しい。

 

そして、老化防止のために何かをするのは、ある程度の年になった人です。

そういう人の性格や生き方は、もうあらかた決まっちゃってる。

40超えて、大きく変わる人って珍しいし、本人がかなり頑張らないと難しい。

今まで「お金がかかって、すぐに心が満たされないことはしない」で生きてきた人が、急に生き方を変えろと言われても、簡単にできるわけがないのだ。

 

だから、福祉サービスだからしてもらわなくっちゃ困るとか、支援が必要というけれど、現場の人からしてみれば、

「教育のつけを、他の人に押し付けるなよ」ってことになるのだと思う。

 

どうしたもんかと思いつつ、素敵な支援員に恋でもすれば若々しく生きていけるのかもしれない、なんてことも思ってしまう。

それがいいか悪いかはわからないけれど、笑顔で魅力的な人たちが生き生きと働く支援員がいるのは、間違いなくプラスになる。

素敵だなって思う人が一人いるだけで、その職場はいい方向に動いていく。

その素敵な人が頑張りすぎないように、フォローするのもまた大事なことだとも思うけど。

 

結局のところ、人の人生にあれこれ口出しするのは野暮だけれど、きっかけになることをさりげなく行うくらいしかできないんだろうと思う。

 

って、早く老いるのが悪いって感じで書いてしまったけれど、僕は老いが悪いとは思ていません。年相応も美しさがあると思うので、若さにしがみつくのは、むしろ見苦しいとさえ思います。

幸せに年を取って、やりたいことが笑顔でできればいいのだと思います。

それは知的障がい者もいわゆる健常者も変わらず、

「ああ、いい人生だったなぁ」と、満足して笑って息を引き取れればいいのだと思います。

 

 

人は新しいことへの意欲がなくなると、老けていくという

 

心のありかたが肉体に現れる顕著な例だと思うが、ドキドキ、わくわく、など気持ちを刺激することや、難しいことや今まで経験のないことを新しくするという知的な活動が影響を与えるのだと思う。

 

恋をしている人は、いくつになっても若々しいっていうのはそういうことだと思う

恋愛って、めっちゃ知的な行為でもあるんですね

ということは、恋愛弱者は、知的な弱者でもある?どうなんだろう?

 

さて、ルーティンワークしかしない人の方が早く老けるんだったら、元大リーガーのイチロー選手はルーティンを崩さなかったから早く老けるのかといたらそうではないですよね。

心と体を、意識して動かして課題を見つけ、常に新しい自分に更新していくことが大事で、ルーティンワークというよりも、維持するための挑戦といった方がいいかもしれない。

 

じゃあ、老ける原因が何なのかといったら、心にも体にも何の刺激ももたらさない行動、惰性の生活が人を老けさせるのだろうね

 

では、知的障がい者はどうか?

 

多くの場合、知的障がい者は新しいことに挑戦することがないんです。

自分の気持ちに正直だということもできるけれど、未来に対する投資といった感覚を持っている者があまりいないんですよね

今の自分の欲望を満たす方向に動いて、我慢をしにくい

 

お菓子やジュースをいっぱい買ってしまうとか

財布が空になるまで好きなものを買うとか

 

哲学の格言っぽくいえば、、「いままここにいる私がいかに幸福であるか」ということに重点を置いている傾向にあるようなんですよ

 

現在・過去・未来といった時間的な把握が難しいみたいで、

現在我慢して未来のために頑張るということを、具体的な実感をもってとらえることが難しいようなのである。

また、新しいことや、変化があることに対応するのが非常に難しいため、挑戦する意欲に乏しくなってしまうのだろう。

 

ルーティンワークが得意といわれる知的障がい者のなかには

「言われたことはちゃんとやるけれど、何のためにかはよくわかっていない」のではないかと思うものもいる。

 

知的障がい者は、いわゆる健常者に比べて15歳ほど老化が早いといわれるのは、この辺りに理由があるのだろう。

 

とするならば、福祉職員はどんな支援を行うべきなのだろうか?

 

続く

 

誰かを好きになって、恋愛をして、結婚する。

そうして、二人の子供を産み育てていく。

 

現在、まだ一般的には、ロマンチックラブイデオロギーに基づいた恋愛観というか人生観によって、婚姻がなされるといっていいと思います。

結婚に至る過程は様々ですが、結婚してこどもができて、幸せな家庭を作って、自分が受け取ってきたものを次の世代に伝えていくことが幸せの形とされています。

 

婚姻するかどうかとか、婚姻の形は様々になっており、恋愛をした結果、二人の愛の形がどのようなものになるかは、二人の考え方にもよるのでしょうけれど、とても素敵なことだと思います。

制度の問題はいろいろあるものの、信じられる人と一緒にいられるのは素敵なことだと、思います。

 

 

今回は、知的障がい者同士が恋をして結婚することになる場合を考ええてみたいと思います。

 

多くの場合、知的障がいを持つ者同士は、そんなに深く考えているわけじゃあない。考えるほどの条件がないと言い換えた方がいいかもしれない。普段の社会生活を見てみれば、彼ら知的障がい者が、社会とかかわっている部分は非常に限定されているからだ。

実際に、結婚したいと相談してきた利用者がいて、「好きだから一緒になりたい。」とのことであったが、それ以上の何かを希望しているわけではなかった。

 

結婚は本人の自由というものの、家と家とがつながることで、何の接点もなかった家同士が親戚になってしまう。

本人たちの意思がどうあれ、親戚同士になった家はそれなりの交流をすることになる。

交流することがなくたって、相続の問題や、冠婚葬祭など、することはたくさんあるのだ。

そして、親族同士の話し合いで、どちらの親も思うわけです「こんなやつに、うちの子供は任せられない。」

それはそうでしょう。一般的に考えて、支援を受けなければ生きていくのが難しい人に、大事な人を任せるのって、なかなかできない。

できれば、ちゃんと守ってくれる頼りがいのある人に任せたいと思うのが親心だ。

 

それは、結婚する以上、必ずついて回る問題です。

一般的には、結婚したら独立し、新しい住処で暮らしていくことになりますよね。

自立したものが結婚し、夫婦となったら、誰かを支えたり守ったりする側に回るというのが、想定されている生き方です。

 

知的障がい者はどうでしょう?

誰かを支えたり守ったりする側に回るのは難しいと思います。精神や身体の障がいを持っていたりしたら、なおさらです。

本人たちは幸せかもしれないけれど、支援する側は、何かが起こるたびに振り回されることになる。

 

まずは結婚に至るまでのもろもろの問題があるし、結婚式の問題があるし、新婚旅行だって考えるだろう。親族との連絡調整や行政手続き、新居で生活する場合の問題解決、引っ越しや福祉サービスとの調整、妊娠でもしようものなら、つきっきりにならなければならなくなったりする。

 

親が亡くなった後も大変だ。

結婚してしまったら伴侶のことも考えなければならなくなる。財産はどうするのか、相続はどうするのか、離婚したらどうするのか、子供ができたら?離婚して子供を引き取ることになったら?お墓だってどうなるかわからない。それに、親がいなくなるってことは、頼ったり相談したりできる相手がいなくなるってことでもあるのだ。

 

いわゆる健常者だって、いろんなことから身を守りながら生きていくのは大変なのだから、社会的弱者である知的障がい者が生きていくのはなおさら大変だと思う。

 

結婚はしようと思えば誰だってできるし、手続きそのものは簡単なものだ。けれど、その意味は重く、責任も重い。

 

知的障がい者同士が結婚するのは、喜ばしいことだと思うのだけれど、関わる(あるいは巻き込まれる)人間の負担や不安や不満がものすごく大きいのだ。

 

僕だって、自分の子供が知的障がいを持っていて、知的障がい者と結婚したいといってきたら反対する。

色々なことをしたいと思うのは自由だし、活動するのはいいことだけれど、責任が取れる範囲にするべきだと思っている。

そうでなければただのわがままになってしまう。

 

自分で自分のケツをふくっていうのは、最低限必要な人としての在り方だと思う。

それができない奴は、他人の人生を背負うべきではないし、支えあうこともできないだろう。

知的障がい者同士の結婚もそうあるべきだし、そうでなければ、幸せになることはできないのだと思う。

 

共に幸せになるためには、それだけの力が必要になってくるのだから

生活に困窮している人がいて、食べるものに困っている人がいる。食べられることなく、廃棄される食品も多い。

だから、フードバンクを利用しよう。

みんな幸せになるんだから・・・

 

違うでしょ。

フードバンクがいらないような世の中を作らなくっちゃいけないんですよ。

本当なら、フードバンクがなくても、皆がおなか一杯食べられて、幸せに生きられる世の中じゃないといけないのだ

 

企業や個人の寄付はいいことだし、助け合いの精神も大切なことだ。

けれど、食事にすら困る前に、何とかならなかったのだろうか?

 

自己責任という言葉は、「自分のことは自分で決められる」という側面と、「自分で決めたんだから責任は自分でとれよ」という側面がある。

 

これは一見正しいし、個人の権利なんてものを出されたら、横からしゃしゃり出ることはむずかしい。本人が望んでいないことだってあるだろう。

 

だけど、これって、「わかっている人」の話だと思うのですよ。

例えば、若者の場合。

高校を卒業して就職して、右も左もわからない若者に「自己責任だ」っていうのは無理がある。決まりも方法も何もわからないままで「自由だから好きにしていいよ」って言われても、何をしたらいいのかわからないし、どんな問題が起こるのかだってわからない。

 

若者には未来があるというけれど、夢を見せたり、背中で語ったり、育てたり、導いたり、叱ったり、ほめたりする大人がいなければ、どんな風に進んでいったらいいのかわからないのだ。

 

フードバンクを利用するのは社会的弱者というけれど、なりたくてなったわけじゃあないし、誰もが苦しい生活から抜け出ししたいだろう。

でも、なぜそうなったのかなんて誰も教えてくれないし、抜け出す方法も教えてくれない。「どうすればいいの?」って立ち往生したままま、時が過ぎていく状況なのだと思う。

 

教育が必要というのは、こういう部分なのだと思う。

困った時に助けてくれる仕組みはもちろん大事だけれど、困ったことにならないように先に手を打っておかなければならないのだ

そこには、大人や社会が努力する部分はもちろん、子供や若者が頑張らなければならない部分もたくさんある。

努力しても報われないことだってあるし、運がなくってあきらめることだってある。どんなに努力しても才能がないこともあるし、自分よりもできる他人に勝てないこともある。

それでも、みんな幸せになろうと頑張るのだ。

 

こういうのって、教育内容や、教え方の問題じゃあないんですよ。

知的障がい者に触れているとよくわかります。

幸せに生きていくのに必要なのは、知識や知能ではないんです

 

彼らは、知識や知能といった部分では、健常者に大きく劣ります。その中で幸せな人とそうでない人がいるのはなぜでしょう?

かかわる人との関係が、お互いに心地よけければ、うまくいく。

 

その人の生き方、人間性が大事になるんですよ。

嘘をつかない

約束を守る

家族を大事にする

目上の人は敬う

きれいな言葉を使う

きれいなマナーで食事をする

人の嫌がることをしない

挨拶や返事をきちんとする

身だしなみに気を遣い清潔にする

 

こういう当たり前のことがちゃんとできる人は、大切にされます。

幸せに生きられます。

「誰にも恥じることなく、まっすぐ生きる」

こういう部分が、ちゃんとしていれば、いいのだと思います。

 

「ぼろを着てても心は錦」という言葉があります

貧しさは、不幸の条件ではありますが、絶対ではないんです

 

「どんな生き方をしても自由だから自己責任な。困ったらフードバンクでも利用したらいいじゃないか」

こんな、世の中では救いがない。愛がない。

 

「「誰にも恥じることなく、まっすぐ生きられる」人間になりなさい。そのうえで、自由に生きていきなさい。そうすれば、困った時にもいろいろな人が手を差し伸べてくれるから。」

 

こんな風に、お互いにいい気持で助け合っていける世の中である方がよっぽど気持ちがいい。

 

これからは哲学の時代といわれて、もう何十年になるだろうか

 

「誰にも恥じることなく、まっすぐ生きる」

 

こんな当たり前の哲学を、大人が子供に語らなくなってしまったのかもしれないな

ブログのタイトルは ライトノベルみたいに「○○な感覚を引き起こしてくれるだろう○○な○○」などと、特定の感情を期待させるようなものである方がいいのだろうか?

それとも、体言止めで「○○な訳」「○○の言葉」「○○な発言」「○○な行動」などと、興味をひくものでなければならないのだろうか

タイトルをざっと見てみれば、「それってなんだろう?」と興味がひかれるものの、期待ほどの情報が無かったりすることもあるから、読み終わってみれば「僕は一体、何を得たんだろう?」と時間を無駄にした感覚になってしまあったりもする。

エンターテイメントならばいいのだろうけれど、僕みたいにちょっぴりせっかちな人間や、時間を大切にする人から見たらイラっとする部分もあるのですよ。

 

「結論を先に言え」と。

また、興味を引くだけ引いておいて、中身が無かったりすると時間を無駄にしたと感じてしまいます。

僕なんかは、「貴重な時間を使って読んでくれるのだから、何かしら役に立つことや、新しい視点の参考になるものを書かないといけないな」なんて思っているので、適当にだらだらとい続いていく文章に腹が立ったりするのです。

 

まぁ、僕も文章も相当に回りくどいので、あまり人のことは言えませんが。

 

 

明佑会では、サービルを利用してくれる知的障がい者と話をするときに、まず結論を言うように指導しています。

 

というのも、知的障がい者の特性なのか、話しているうちに着地点を見失ったり、何を話しているのかわからなくなったり、言いたいことを忘れてしまうことがあるようなのです。

 

だから、まずは自分の一番言いたいことをはじめに言うように指導しています。

 

一番言いたいことをうまく言えないこともよくあるのですが、それをうまく引き出すのが我々の仕事だったりするのです。

 

ブログなどの話に戻れば、

時短だのタイパだの言う割には、無駄な行動を促すタイトルも多いわけで

 

テクニックとしては効果的だと理解できるのだけれど、じゃあ、そのテクニックを使われることを、皆が望んでいるかといえばそうではないだろう。

 

ブログのタイトルの隣に、「ネタバレボタン」みたいなのがあって、記事全文を読まなくても内容がわかるような、結論や要約にあたるものを見られる機能があればと思うのだ。

 

福祉の現場においては、行動や思考を任意の方向に誘導するのはあまり褒められたやり方ではなくって、なるべくストレスがなくなる仕組みを作ることが望まれている。

 

このような福祉的視点に立てば、インスタグラムやTIKTOK、このブログもそうだけれど、無駄に時間を使わせる、ストレスになるような仕組みはなくしていった方がいいはずなんだけれど

 

その動画や写真、記事を見てもらうための努力や技術は、利用者の立場に立って設定してほしいものである。

 

だって、うちの利用者の中には、一日中でもスマホ眺めちゃう人がいたりするんだもん。

ブログを書き始めてしばらくたつけれど、更新頻度はどうしたらいいのだろうか?

 

出張やトラブルがなければ、仕事がある日は毎日できるとは思う

 

もともと、私たち社会福祉法人明佑会で働く人の考え方や気持ちを知ってもらう場がないなと思って始めたことなので、そんなにたくさん書く必要はないのだろうけれど

もともと書くのは好きなので、それほど苦になっていなかったりする

 

内容には、ある程度の偏りを持たさなければならないと思うので、福祉に関するものだったり、障害者に対するものであったりになるのだけれど

 

たまにはK-POPを語ったりした方がいいのだろうか?

 

 

それはともかく、会社の風土や、どんな人が上に立っているのかはなかなかわからないものだ。企業のウェブサイトを見る機会が何となくあると思うのだけれど、それでその会社のことがどの程度分かるかといえば、店で商品を手に取ったのと同じ程度ではないだろうか?

 

格好のいい標語が並んでいて「うさんくせー」なんて思ったこともあるだろう。

 

公式の場で、建前の文章はよく見るだろうけれど、それ以外の本音めいた、感情が乗っているような文章はあまり目にしないだろう。

けど、そういう人間臭さとか感情ってすごく大事で、

雑多な物事に対する考え方を知ることで、「ああ、この人はこんな人なんだ」と分かっていくものなのだ

 

ここしばらくは、AIが作った文章が氾濫するはずだから、AIが対応する前に人間らしさを感じられるものを記録として残しておくのは大事なのだと思う

AIが感情的な文章まで書けるようになった後だと、「それって、ほんとにあなたが書いたの~?」って思われちゃうだろうし

気持ちや考えをまとめて、誰もが見える形にしておく最後の機会なんだろうなって思う。

 

自分の気持ちや考えに、AIじゃない保証などがなければ信じてもらえない世の中が来つつあるんだろうけど。

 

データとしては私が私であるっていうことを証明してくれてたAIが、今では、表現内容では私が私であることを否定するようになってしまって、早く何とかしないと、人が生きていく土台が根本的に失われていくんだろうな

 

福祉現場においては、知的障がい者や精神障がい者と意思疎通が円滑にできるAIが出てくることを願っています。

 

福祉分野には、わけのわからんカタカナ語が氾濫している。

いつの間にか、「知っていて当然」みたいな形でしれっと使われているから困ってしまう。

そんな新しい言葉を、ろくに調べることもせずに使っている人が多いようなのだ。というか調べてもよくわからない説明しかなされていないから仕方がないのかもしれないが。

説明を受ける側だけでなく、説明をする方もわけがわかっていないのによくやるものだと思う。

私はうまく使いこなせないので、なるべくかかわらないようにしています。

できる限り、自分の言葉で説明するようにはしているのだけれど、どこまで伝わっているのやら。

 

ケア

マネジメント

アドボカシー

インクルージョン

ダイバーシティ

カウンセリング

ストレス

アセスメント

などなど

 

私は、立場上、知的障がいを持つ利用者にいろいろなことを説明しなければならないから、行政の説明会でも資料を求めてしまう。

 

「知的障がいをもつ利用者は、なじみのない外来語をなかなか理解できません。

彼らにとってわかりやすい日本語の資料をいただけますか?」

「ありません」

 

期待はたいてい裏切られる。

 

 

さて、私のじいさんは口が達者で、わからないことを分かるまで聞く性格だったから、福祉サービスが入る際もいろんなことを聞いていた。

 

わからないことを聞くのは当たり前のことだと思うのだけれど、支援員もわかっていなくって、随分と手間取っていた。

 

「アセスメントってなんや。言われても忘れるわ。日本語に直して書いてこい。わからんだら、なんべんでも聞くぞ。」

 

こういわれた時の、支援員の困った顔が印象的だった。

爺さんは、ケアプランだの、ストレングスだのニーズだの、いちいち全部聞く。

わからないのだから聞くのだけれど、支援員はうまく答えられない。

だから、爺さんは怒る

 

「わしをなめとんのか?商品説明もようせんのに、よう来たな。」って

 

きわめて普通のことだと思う。

 

支援員は困ってしまって、

「後でスマホなど調べてください」

っていったもんだから、

「お前は何しに来とんじゃ!プロやろが!」って、怒鳴られてた。

 

どんな仕事であれ、プロがお客様から説明求められて

「自分で調べてください」

なんて言ったら、怒られて当然だろう。

どうして平気で「自分で調べてくれ」なんて言えるんだろう?

外国の概念で、うまく日本語に訳せないからカタカナのまま表記しているといわれるが、本当だろうか?

 

江戸時代や明治時代に、外来語を日本語に訳したり、

第二次世界大戦期に、敵国の言葉を日本語に直したりした歴史はあって、

やろうと思えば、なんでもできるはずなのだ

それうまい訳かは別として

 

個人的には「フィロソフィー」を「哲学」と表したのが好きです。

「経済」や「銀行」も素晴らしいと思っています

 

 

新しい言葉を考えるのは面倒くさいだろうし、いろんな批判を受けるのも嫌なんだろう。

だからといって、そのしりぬぐいを福祉の現場や利用者に押し付けるのはあかんことだと思う

 

そのうち、あらゆる説明書に「わからない言葉は、検索してください」みたいな一文が入るかもしれないのだけれど、

それだと、成年後見人や相談支援員の手間が増えるのかもしれない。

 

いっそ、みんなで厚労省や市町村の福祉課なんかに、質問の電話やメールをしまくったら、民意を反映して わかりやすくしてくれるかもしれないな。

とはいえ、そういう一つ一つの説明みたいな面倒なことはしたがらないだろうし、AIの活用という方向になりそうだ

AIが、新しい概念を作ることは、まだ難しいんだろうけれど

 

仕事をしていると、国会答弁をじっくり聞くことは難しいですよね

せいぜい、ラジオから聞こえてくる声を聴くくらいかもしれません

 

あれって、しっかり聞いていないと何を言っているのかわかんなくなるし、しっかりきいても何を言いたいのかわかんないこともある。

真面目に聞いているのがばからしくなるくらい、中身がないことだってある。

あの国会答弁って、知的障がい者は理解できるのだろうか?

 

明確じゃないし、論理が破綻しているときもあるし、誰もがわかる形になっていないし。

合理的配慮が義務付けられたんだから、国会答弁やお役所の回答にも合理的配慮を義務付けてほしい

 

「明快な答弁をお願いします」

といわれても、全然明快じゃない応えかたをするし

あれだと、国会応酬ですよ

答弁っていう割には答えてなくって、応えるだけなんだから

 

誰にでもわかるようにしていこうっていうのだから、

知的障がい者が、一回聞いたらわかるくらいの明快さがなければいけないと思うのですよ。

 

それだけの能力がないとは思えないし、できるはずなんだけれど、なぜかやらない。

わかりやすいのはそんなに困るのだろうか?

困るんだろうね

 

「「はい」か「いいえ」でこたえてください」とか

「明快にお願いします」とか

わざわざ言われるのが恥ずかしいと思ってもらいたいものです

 

国会に、知的障がい者の判定員をつけてさ

判定員が明快に理解できなければ、資格なしと判断して政治家は解雇されるみたいな仕組みがあれば、めっちゃわかりやすい国会になると思うんだけどなー

 

自分だけ優しくされたい人も多いと思いますけど、できれば皆に優しい世の中になってほしいと思います

 

 

 

そういや、福祉施設でパーディー開いて、キックバックみたいなことしても今なら合法だったりする?(笑)しないけど。(笑)

知的障害者にはどんなイメージを持ってます?

って聞いたのだけれど、これって、健常者にどんなイメージを持ってます?って聞くのと同じくらい難しい

 

私は、いろいろな物事を、身近なことに置き換えて考える習慣がありまして、だから、世の中で起こっているいろいろな問題もサザエさんで説明しちゃったりします。

 

それはともかく、知的障がい者のイメージですよね

このイメージの良い悪いを言い出すのって、誰なんでしょうね

 

 

さてさて、表記をどうするかって問題は、現在その人たちに対するイメージがどうかっていう問題が大きいと思っています。イメージアップというわけでもないんだけれど、言葉狩りみたいな方向に進むんじゃあなくって、そのように表現される人たちが、笑顔で幸せでみんなから憧れや称賛を向けられるようになればいいんです。

 

障がい者を「チャレンジド」とい変えたところであまり意味はない。ヲタクをマニアと言い換えたところであまり意味がなかったのと同じ。

大変であっても、社会に対して変わっていかなければ、認めてもらえないのだ。

 

ヲタクはどん底のイメージの中から這い上がって、今では誇りをもって語られるような存在にまでなっている。そこには、日陰者になった者たちの涙ぐましい努力があったし、それを支える周りの人たちもいた。

それに、何より、ヲタクは金になると気付いた人たちがいたっていうのも大きい。

 

もし、知的障がい者が同じようにイメージの転換をはかろうとするなら、知的障碍者自身のひたむきな努力が必要で、それを支える周りの人たちも頑張らなくっちゃいけなくって、何より、知的障害者がは金にならなくっちゃいけない。

 

イメージが悪くなったら、表現を変えるっていう方法じゃあなくって、イメージが悪くなったら、いいイメージに変えるっていう方法をとらなくちゃいけないんだと思う。

 

とはいえ、知的障がい者のみんなが、そろってものすごく情動を持っているわけじゃあないし、打ち込んでいる何かがあるわけでもない。

 

絵を描いたり、物を作ったり、芸術活動を行っている人もいるのだけれど、「障がい者です」っていいながら作品を発表するのって、「障がい者だって言わないと売れないんですよ」って言ってるようなものでしょ。

作品で勝負しろよとか思っちゃう。

作品以外の価値が欲しいなら、日展とかに出して、箔をつければいいのに。

 

そういう、負け犬根性みたいなものがある限りは、なかなかイメージを変えるのは難しいのだろう。

 

知的障がい者のイメージ戦略は、ヲタクを見本にして行っていけば、すごくいいものになるのかもしれないのに、なぜか、頑張って変わっていこうっていう方向にはならないのがもどかしくもある。