今年も防災訓練をしていまして、無事、終えることができました

 

訓練内容としては、以下のものです

 

1 地震が起き、火災が発生したと仮定して 避難する

2 消火器の仕様訓練

3 通報訓練

 

1の避難はなんとかできるんです

非常ベルを合図にするんですけど、大抵は誤作動を疑ってしまいますよね

やっぱり、「壊れたんじゃないですか?」

とか「誤作動かな?」

っていうのが先に来ます

 

なので、メガホンで、「避難訓練です」と言いながら行動を促します

 

 

消火器の訓練は

消防署で水消火器をかかりてきます

薬剤の代わりに水が入っているものです

 

実際に消火器を使うことはまれでしょうけど、体験しておいて損はないと思います

いざ災害に巻き込まれたら、逃げることを優先するよう言ってますけど

 

 

通報訓練は緊張しますね

消防の担当者も緊迫感があります

毎日のように通報訓練の電話を受けているのかもしれません

いつもありがとうございます

 

電話で伝えることは分かっているものの、とっさに出てこないことも多いですよね

職場の住所や電話番号って、「調べたらわかる」っていうことも多いと思います

 

今はスマホに情報を入れている人も多いから、覚えなくちゃいけないってこともないわけで

なかなかことがが出てこないこともあります

 

こういう体験をすることで、いざというときに行動できるようになっていければいいなと思います

 

 

 

 

 

熱中症対策で、塩分をとれって言われますよね

 

それ以前は、高血圧対策で、塩分を控えろって言われてましたよね

 

結局 どれだけとればいいのか よくわかっていません

 

厚生労働省推奨食塩摂取目標量として、

塩分は 1日男性8g 女性7g以下にするよう書かれていましたけど

これって、ほんとだろうか?

 

福祉法人として、利用者を預かっている以上、健康管理は必須です。

今は熱中症対策を、いろんな方法で実践していますけど、今一つ塩分に関してはよくわからないのです

 

塩タブレットや塩飴は、一つ当たり塩分が0.1~0.2グラムだそうです

 

僕個人の話ですけど、草刈りをして汗をかいたときなど、一つまみくらいの塩を食べてしまいます

一つまみで約1グラムです

足りないなーと思ったら、もう少し食べてしまいます

 

スイカに塩をかけるとき、パラパラっとふったら0.5グラムくらいにはなってしまいます

 

ぬか漬けだったら50グラムも食べたら、塩分は1グラムくらいです

梅干しは一個で1~2グラムくらいだそうです

 

厚生労働省が推奨しているよりもはるかに多くの塩分をとっても何の問題もなく、むしろ、厚生労働省が推奨するのだと足りません。多分、1.5倍から2倍くらいとっているかもしれません。

 

汗は1リットルかくと、3グラムくらいの塩分が失われるとのことです

 

「室温約29℃で約8時間睡眠した場合、汗などで失われる水分量は約500ml」(神戸新聞NEXT 2024 8 5 特集記事より)とのことなので、普通に寝ているだけで1.5グラムの塩分が失われるんですよね

 

夏場に動いていたら、もっと多くなるわけで。

適正量は難しいけれど、思っているよりももっと塩分はとっていいのかもしれません

 

というより、厚生労働省の推奨食塩摂取目標量は、いったいどんな環境で生活している人を対象にしたものなのだろうか?

 

google検索では

「夏の炎天下では、10分歩くと約100mLの汗をかくそうです。 夏の室内で活動すると、一日の汗の量は約3000mLとなり、高温環境の工場で8時間働くと、汗の量は約12Lにも達するそうです。2017/07/23」

という検索結果も出てきました。

 

こういうものを見ると、減塩にはあまり意味がないように思ってしまいます

バランスのとれた食事をとって、適度な運動をしていたら、塩分はそんなに気にしなくってもいいのかもしれませんね

足りない栄養素があると、体がそれを求めるところもあるのだし、なるようになっていくのかもしれません

 

朝しっかり食べて、お昼ご飯をしっかりとったら、仕事中に、そうそう塩分不足にはならないんだろうなって思います。

 

こうやって何となくでも、塩分摂取の目安ができるのはありがたいものです

昨年までは、

 

「毎年電気が足りなくなるから節電をするように!」

 

とお達しがあったように記憶していますが

 

今年はそんなことを聞きませんね

 

むしろ、熱中症になる前にエアコンをガンガンにつけろ!

 

みたいなことを言われているのだけれど、電力は大丈夫なのだろうか?

 

毎年、節電といわれてきたのに、(熱中症対策で)電気をじゃぶじゃぶ使えと言われても、不安になってしまいます

 

「原子力発電所を稼働しないと、電力が足りなくなる~」

 

って、毎年のように聞いた覚えがあります

 

むしろ、エアコンなどで電力の使用量は増えているはずだと思うのだけれど・・・・

 

これまでは、なんだったんだろう?

 

 

 

仕事で言えば、「電気が止まるかもしれない」と心配しながら仕事をする必要がなくなったので、ありがたい話です

事務所のクーラーの温度も、少し低めにしています

 

 

クーラーの温度を28度にしましょうっていうのも、今年は聞かないな

 

夏の日差しや猛暑で

明佑会の利用者の通勤が心配ですが、仕事終わりにみんなでアイスを食べたりして

暑さを乗り切っていこうと思います

 

 

皆様もご自愛を

 

毎日暑くって 冷たいものがおいしいですね

 

等といっていられないくらい危険な暑さなので、水分と塩分はちゃんと取りたいものです

 

ところで、塩分をとりなさいと言われるものの、どんな塩分がいいかってことはあまり言われないですよね

 

スポーツドリンクがいいとか、塩タブレットがいいとか言われますけど、なんか詳しいことはよくわかりません

 

高血圧対策で、塩の取りすぎはよくないといわれているからなのか、塩を積極的にとるよう勧めてはいないように感じます

 

「汗をかいたときは、ナトリウムとカリウムはこれくらいの割合で摂りなさいよ」

 

なんて目安があれば、もっといいのかもしれないですけど

 

 

けど、僕自身はそんなこと関係なく、海水の塩を舐めたりしています

 

江戸時代の農村など、玄米ご飯に漬物と味噌、ご飯にしょうゆをかけて食べたりもしていたと聞きます

 

明治時代にもご飯にしょうゆをかけて食べるのは当たり前のことで、あまりにも塩分をとりすぎてたから

減塩ということが言われたとも聞いたことがあります

 

多分、今は、塩をとらなさすぎなのだと、個人的には思います

 

「マルーシカの塩」という童話がありましたけど、

やっぱり塩は大切で、もう少し意識してとってもいいように思います

 

 

明佑会の職場はクリーニング工場ですから、乾燥機の排熱でどうしても暑くなるところがあります

 

体調管理はきっちりとして、体に気を付けたいものですね

 

笑顔で元気に、暑さを乗り切りましょう

 

明佑会はリネンサプライ業を営んでおりまして、

 

タオルやおむつ

シーツや包布

布団などを

 

たくさんのお客様に使用いただいております

 

毎日使うものですから、当然生地は傷んでいきます

破れてしまったり

洗っても落ちないほど汚れてしまうものもあります

 

そういう商品は、お客様には出せなくなってしまうので、廃棄することになります

 

けど、ただ捨てるだけなのはもったいないし、まだまだ使い道はあるので

ウエスとして販売しています

 

ウエスと聞いてもなじみがない人は多いと思います

ホームセンターでも売っているんですけど、いわゆる「ぼろ布」ですね

汚れを拭きとったりするのが主な用途です

 

機械の部品を作るところなどでは、油汚れをふき取るのに使用していますね

ペットショップなどでは 床に敷いて汚れないようにしたりもしますね

 

本当は災害地に寄付したいとも思ってるんですけど、ウエスの寄付を申し出たら断られたことがあります

使用したものだと、病気や虫の心配があるし、ゴミを持ち込む人がいるので受け入れできませんとのことでした。

理屈は分かるのですけど、ウエスってようするにぼろ布のことです。

 

新品のぼろ布って何よ?

 

東日本大震災の時からなので、もうだいぶたちますね

 

復興のための掃除には、汚れをふき取るものがいると思います

掃除のための資材はいくらあっても困らないと思うんですよ

 

商品としては寿命を迎えた布団も、まだまだ使用に耐えるものがありまして、

避難所等で気がねなく使用して、使い終わったら処分してもいいようなものもあるんですよ

 

寄付をするにしても、善意をそのまま受け取ってもらえないのは心苦しくあります

けど、行政機関も、そんな心配をしなくちゃいけないほど、困ったことをする人がいるってことなのでしょう

現場の判断では対処できないってことなんでしょうね

 

ウエスの販売ですけど、福祉法人として、社会貢献の一環みたいなところもあるので

かなりお安く提供していると思います

他の福祉施設での加工販売の材料にしていただいたりもしています

 

もし興味がありましたら、お問い合わせいただければと思います

よろしくお願いします

 

 

 

 

先日、NHKで知的障がい者の結婚についての番組がありました。

 

幸せになりたいという思いはみんなが持っているのだし、

色々な制度を利用する権利もあるのだから、

想いは遂げられなければならない、

といった考えが根底にあるように感じました。

 

障がいを理由に、

したいことができないのはおかしいよねって。

 

それは僕も同意しますし、

みんなが幸せになっていけるのはすごくいいと思います。

 

けれど、結婚についての考え方というのが なんとなくしっくりこない

結婚するに際して、

 

そもそも結婚とはどういうもので、

結婚したらどうなって、

それからずっと続いていく結婚生活はどういうもので、

子供ができた時にどうするのか、

結婚式に対する考え方や、

友達付き合いや家族との関係、

宗教観や金銭感覚などもある。

 

他にも、浮気や不倫をした場合、

離婚することになったら、

再婚する時は、

子供の親権は、

子供の成長の機会をどのように確保するのか、

子供をヤングケアラーにしないためにはどうするのか、

収入はちゃんとあるのか、

生まれた子供が障がい者だったらどうするのか、

妊娠した時の検査で異常が発覚した場合どうするのか

重い病気を患った場合どうするのか

なども想像はしておかなくったいけないだろう。

 

ざっと思いつくだけだから、他にもいろいろなことを考えると思う

 

みんな、いろんなことを考えて、

葛藤を乗り越えて、

結婚を選択する。

 

中には結婚をせずに暮らしいてく人もいる。

 

個人同士のつながりであれば

「勝手にしたらいいじゃん」で終わるのだけれど、

多くの場合、結婚で問題になってくるのは、

「家同士の結びつきができてしまう」という点なんですよ。

 

以前にも書いたけれど、

他人が親族になるというのはものすごく大きなことですよね。

 

だから、結婚前には興信所を使ったりしてどんな家の人なんだろうって、

「家柄」などを調べる人もいるわけです。

この家柄の問題は大きくて、

いまだに被差別部落を気にする人もいたりするわけです。

 

その人の生まれや育ちといったものは案外重要で、

人として合う合わないの大きな部分を占めたりするからです。

いい悪いの話じゃあなくって、

色々な情報を、

それぞれが選別に利用するところはある。

暴力団の息子に、娘を嫁にやりたくない とかね

 

なので、結婚をするとなると、家柄だけでなく、

・人との接しかた

・本人の学歴や職歴

・お金の使い方

・人付き合いやマナー

・何に対して怒るのか

・資産運用の方法

・本人や親族の学歴や仕事

・人脈などの人とのつながり

なども考慮するわけです。

様々な目に見えない財産や、

脈々と受け継がれてきた、

「その家にとっての常識」とも、

折り合いをつけなければならなくなる。

 

昔は、結婚は家同士のもので、

どちらか、もう一方の家に入る形であったから、

「その家にとっての常識」は一つでしかなかったんですけど、

今は双方の「その家にとっての常識」をすり合わせるようになていると思います。

核家族化すると、家柄の継承が困難になっていきますから。

 

昔からいろいろな問題があるんですけど、

「その家にとっての常識」が、相いれない場合は大変です。

 

また、セクハラや、カスハラをするような人がいる家とは親族になりたくないと思いますし、

反社会的勢力の方々や、

特定の宗教を信じている人と親族になりたくないなと思う人も多いと思います。

 

色々書きまして、「割れ鍋に綴じ蓋」じゃないですけど、

家同士も、やっぱりそれなりに釣り合う格というものがあるんです。

というよりも、自然とそういう風になっちゃうことが多い。

この人たちとなら、

親戚になってもやっていけるって、

それぞれの家が思えないと大変なんですよ。

 

だから、結婚は個人の権利だからっていう人がいますけど、

僕はそう思わないんです。

 

知的障がい者の結婚に関して、

僕は基本的には賛成しています。

様々な支援が必要で、

そういうサービスがあるのも理解します。

 

けれど、知的障がい者同士の結婚というとき、

見ず知らずの他人が親族になってしまうことに、

あまりにも無頓着にも感じます。

というよりも、意識から外しているようにも思います

 

「個人の権利を守ろう」というのは分かりますが、それだけじゃないから

「娘さんを下さい」と、彼氏は彼女の父親に殴られに行ったりするわけです

感情では割り切れない部分があるから、色々な手続き(結納とか)をして心に折り合いをつけるんです

 

願わくば皆が幸せな人生を、

と思いますが、

家と家が結びつくということを

もう一度よく考えてみた方がいいと思うのです。

 

結婚をするすべての人が幸せになることを祈っていますけどね

障がい者にしろ、LGBTQ+にしろ、

コミュニケーションをとるとなると

 

「いわゆる健常者の社会に合わせろ」

 

といった立場で物事が語られることが多いですよね

 

 

多数派のいわゆる健常者とされる人たちが、

わかりやすい形でなければ受け入れられないというような

 

いわゆる健常者で、初対面で「あなたの性癖は?」って聞かれることはないですよね

「あなたのできることとできないことを教えてください」とか

「身分証明(療育手帳など)を見せてください」なんて言われることもないと思います

それが、LGBTQ+や障がい者だと当たり前のようになされている

 

僕はそれが普通だとは思いません

僕が普段

「あなたの性癖は?」

なんて聞いたらただのセクハラです

 

けど、例えばゲイに対して

 

「どうして男が好きなの?」

 

とか平気で聞いちゃう人がいて、

それは許されちゃったりする

 

「あなたはどうして異性が好きなの?」

って初対面で聞かれたらどう思う?

 

 

ブルース・リーの映画「燃えよドラゴン」の中で、

ジークンドーという拳法の稽古をつけるシーンについての有名なセリフがあります

 

「考えるな 感じろ」

 

LGBTQ+や障がい者と関わるとき、

みんな人付き合いを頭で考えすぎなんですよ

頭の中で理屈をこねくり回して関わろうとするから、

おかしなことになっていく

 

 

小学校以前の友達付き合いってすごく単純です

 

「好きな奴は好き 嫌いな奴は嫌い」

 

って、めっちゃ単純明快で明け透けなんですよね

 

それが、小学生にもなると、周りのことが見えてきて、

適切な距離感を学ぶことになるし、

嫌いな相手ともうまくやっていく方法を覚えていく

 

嫌いな相手ともうまく付き合えるというのは、

別に友達になることでもなんでもなくって、

トラブルを起こさないっていう意味ですね

 

一般社会に出たら、嫌な奴はたくさんいる

 

訳の分からない行動をするものだっているし、

色々な意味で近づきたくない人だっている

 

様々な人がいる中で、

なんとなくうまくやっていく方法を探して、

それなりに何とかこなして言っているのが現状だと思います

 

そんな中で、

異質な者、なじみのないものと関わる場合、

まぁ、距離を置きますよね

 

見ず知らずの人から話しかけられたら、

身構えるじゃないですか

 

付き合っていかなくちゃいけない人だったら、

「本当に大丈夫かな」

って心配しながら、

コミュニケーションとりますよね

 

「どんな人かわからないから、少しずつ知っていこう」


っていうのが基本です

人付き合いって、

こういうものだと思います

 

 

ところが、

知的障がい者やLGBTQ+の場合、

無茶苦茶詳しく自己紹介をすることが求められるんですよ

 

よくわからないから、

レッテルや肩書や社会的評価を参考にしようっていうのはよくあることです。

面接のときの履歴書の確認なんか、

まさにそれですよね

 

けど、単なる知り合いに、

「履歴書もってこい」はないですよね

 

友達に履歴書や戸籍謄本、

求めたことってないでしょう?

 

知的障がい者だったら、

障がい特性を聞かれたり、

過去にどんなことをしたのかだったり、

人生の目標だったり、

友達付き合いだったり趣味だったり、

色々なことを客観的な証拠を求められたりします

 

LGBTQ+もそう、

性自認がなにで、

どんな性を好きになって、

性表現は何か、

いちいち説明を求められたりする

 

いわゆる健常者の方に選択権があって、

関わるかどうかが決められるところがあるんですよね

 

違うでしょ

人と人との付き合いなんだから、

基本的には対等じゃないといけないと思います

 

関わった結果、

それ以上関わらないことも出てくるだろうけれど、

それは仕方がないことだったりする

 

「知的障がい者と関わるときには」とか、

「LGBTQ+と関わるときには」っていう身構え方をするのが、

そもそもおかしいのであって、

 

その人を目の前にして、

「考えるな、感じろ」でいいのだと思う

 

もっといえば、

 

「慣れろ」

 

特別な意識を持たず、

身構えることなく、

そこにその人がいて、

それ以上のことはない。

 

そんな風に接する世の中になっていけばいいのだと思います

 

接した結果が

どんなものになるのかは

また別の話ですけど

誰かとのつながりが欲しいというけれど、

つながって何をするというのだろう

 

誰かに尽くしたいっていう人はあまりいなくて、

どちらかというと「自分の望みをかなえてくれ」という方向でものを考えることが多い

 

いつだったか、

バラエティ番組で男性ゲストが

「デートの時にノープランで来る女が嫌い」

なんてことを言っていました

 

「「私を楽しませて当然」みたいな感覚で来る奴は、ない」そうです

 

男女の問題はいろいろあるだろうから、

セクハラめいた発言になるのも嫌だし何も言いませんけど、

やっぱり人間関係は支えあって助け合って、

育んでいくものだと思います

 

どちらか一方だけが負担を抱えるのは、

あまりいい関係じゃあないと思います。

 

誰かとつながりたいと思う人の多くは、

何かが足りないから、

つながりたいわけです。

 

よく「寂しさ」なんて言われますけど、

それなら居酒屋で知らない人と話してもいいわけです。

 

老人ホームへ行けば、

誰かは話相手になってくれるでしょう。

けど、そういう風にはしない。

 

求めているのは、

「自分が大事にされているっていう実感」だからです。

 

その実感を与えてくれるのは、なるべく素敵な人がいいと思うのも当然です。

 

子供に甘い乳母や、

優しくしてくれる親戚のおばちゃんといった

相手を求めるんですよ。

 

メイドといった方がしっくりくるかもしれませんね。

 

 

異世界ファンタジーがはやるのも、

主人公と行動を共にする登場人物が、

主人公をものすごく大切に思っているというのが根底にあるんだと思います。

 

信用のできる相手が、

主人公のために甲斐甲斐しく尽くす。

共に成長し、支えあい、笑いあい、

運命を共にしていくわけです。

 

主人公にとって果てしなく都合のいい相手です。

どんな苦境に陥っても、

どんなにつらいことがあっても、

主人公のことを信じ続ける。

 

そんな相手って、現実にいないですよね

みんな、自分が大事で、

自分が幸せになりたいなって思うんですから。

 

そういう相手がいてくれたらいいなっていうのが、

物語の根底にあるように、僕は思います

 

 

逆に言えば、

大切にされていないなと実感している人は、

大切にしてくれるような人を求めてしまうんです。

人は、満たされていないことにはかなり敏感ですから。

 

知的障がい者は、

そのような寂しさを、

いわゆる健常者よりも感じる機会が多いと思います。

 

大切にされたいなと思ったら、

自分も相手を大切にしなければならないのだけれど、

障がいがコミュニケーションの妨げになってしまう。

 

思いやりや気遣いというのは、

相当に知的な高度で、

だから、対等な友達も作りにくい。

 

けれど、

それだけに、大切にしてくれる人には心をひらきます。

それは、純粋な行為となって現れたり、

気持ちや考えをすべて伝えるということにもつながります。

 

知的障がいを持つ人にとって、

自分のことを大切にしてくれる人には、

なかなか巡り合えないっていうのがあるんです。

 

長くなったので、今日はこの辺りで 続きます

 

 

以前、何の予備知識もなく海外に行って生活することになったら、

知的障がい者の気持ちがわかるんじゃないか、という記事を書いた。

 

そこまで極端じゃあなくても、

実感することはできると思うので、

その方法を考えてみようと思う。

 

条件としては、

「みんなはそれを理解しているけれど、自分はそれを理解できていない。

そして、それを知っていなければならない状況にある」

といったところだろうか。

 

これって、学校の勉強に当てはまるのではないだろうか?

 

どんな教科でもいいのだけれど、

みんなはどんどん問題を解いていくのに、

自分は何をしているのかわからない

といった感覚になったことは、ないだろうか?

 

僕は高校数学の3Cにもなると、

理解するまで時間がかかるものもあって、

得意な奴らに交じって問題を解くのが

ちょっと恥ずかしかったりもした覚えがある。

 

英語もそうだろう。

周りのみんなはどんどん読み進めていって翻訳するのに、

自分は何をしているのか

さっぱりわからないといったことはあっただろう。

 

勉学ならば、

時間をかければ理解できるのならばいいけれど、

知的障がい者の場合はそうじゃない。

 

知的な障がいを有しているがために、

理解することができない場合がある。

 

だからこそ、障がいなのだ。

 

どんなに努力しても、

どんなに頑張っても、

理解することができないことがあるっていうのは、恐怖だ。

 

しかも、周りのみんなは当たり前のようにそれを理解し、

「できないことが理解できない」

といった感じだ。

 

「わかって当たり前」

「できて当たり前」だから、

理解できるものからしたら、できていないものを見ると

 

「どうしてできないのか」

「なぜしないのか」

「サボってるんじゃあないのか」

「馬鹿にしてるのか」などの反応をしてしまう。

 

それは、子供がふざけて「なんで?」と言い続けるようなものだから、

事情を知らなければ、言われた方は不快になってしまう。

 

チコちゃんじゃあないけれど

四六時中「ぼーっと生きてんじゃねーよ」

といわれ続けるような生活は息苦しい。

 

わからないこと、知らないこと、できないことが理解されないのだから当然なのだけれど、

知的障がい者がこんな状況におかれていることを、

少しは分かってもらえたらいいなと思う。

 

明佑会は、それなりに自然豊かな場所にありますので、

様々な野生動物がやってきます。

 

ウサギや猫はまだかわいいのだけれど、

サルやシカになると困ったことになりますね

 

その中間あたりのたぬきやイタチなんかもいるので、

ちょっとした動物園です。

 

先日は明佑会にたぬきがやってきまして、

じっとこちらを見ていました。

写真の中央右なんですけど、わかるかな

うまく撮ることができませんでした。

 

見ている分にはかわいいんですけど、

とびかかってきたら怖い

映画の「平成狸合戦ぽんぽこ」みたいに、

楽しく付き合えたらいいんだけれど、

そういうのはファンタジーです

 

逆に、人間が動物の生活に入っていく方が、

いいような気もしますね

 

さて、野生動物とは、ちょうどいい距離感をもって付き合っていきたいと思ってまして、

駆除したりは考えてないんですよ

 

周りの農家さんは、

作物の被害があるから、

色々としているみたいです

 

明佑会も、仕事場やグループホームに被害が出たら

何とかしなくちゃいけないと思いますけど、

安全にいなくなってくれる方法はないのかな

 

超音波がいいとか、

犬笛みたいな人間には聞こえない音で追い払うとか、

柵で囲うやら、

音や光やらいろいろとあるみたいですけど、

根本的な解決にはならないですね

 

人間は、生き物の住処を奪って生活圏を拡大してきたんだから、

行き場を失った動物が、またも戻ってくるのは仕方がないことでしょう。

 

動物だって、

人間と同じように生活圏を広げようとしているだけなのだから

 

話し合いで解決できなければ武力を使うのは、

人間の世界では当たり前ですし、

最終的には駆除するしかないのかもしれません。

 

歴史に学ぶといいながら、

最終的には暴力しかないなんて、

人類の知恵ってどこまで役に立つんでしょうね

 

そういえば、三重県の狩猟免許の結果が公表されました

受験番号を見てみたら、

60を超えていて、

結構な人数が受験してました

 

明佑会の周りでもシカを見る機会が増えてきましたし、

そろそろ自己防衛の手段を持っておいた方がいいのかな