以前、何の予備知識もなく海外に行って生活することになったら、

知的障がい者の気持ちがわかるんじゃないか、という記事を書いた。

 

そこまで極端じゃあなくても、

実感することはできると思うので、

その方法を考えてみようと思う。

 

条件としては、

「みんなはそれを理解しているけれど、自分はそれを理解できていない。

そして、それを知っていなければならない状況にある」

といったところだろうか。

 

これって、学校の勉強に当てはまるのではないだろうか?

 

どんな教科でもいいのだけれど、

みんなはどんどん問題を解いていくのに、

自分は何をしているのかわからない

といった感覚になったことは、ないだろうか?

 

僕は高校数学の3Cにもなると、

理解するまで時間がかかるものもあって、

得意な奴らに交じって問題を解くのが

ちょっと恥ずかしかったりもした覚えがある。

 

英語もそうだろう。

周りのみんなはどんどん読み進めていって翻訳するのに、

自分は何をしているのか

さっぱりわからないといったことはあっただろう。

 

勉学ならば、

時間をかければ理解できるのならばいいけれど、

知的障がい者の場合はそうじゃない。

 

知的な障がいを有しているがために、

理解することができない場合がある。

 

だからこそ、障がいなのだ。

 

どんなに努力しても、

どんなに頑張っても、

理解することができないことがあるっていうのは、恐怖だ。

 

しかも、周りのみんなは当たり前のようにそれを理解し、

「できないことが理解できない」

といった感じだ。

 

「わかって当たり前」

「できて当たり前」だから、

理解できるものからしたら、できていないものを見ると

 

「どうしてできないのか」

「なぜしないのか」

「サボってるんじゃあないのか」

「馬鹿にしてるのか」などの反応をしてしまう。

 

それは、子供がふざけて「なんで?」と言い続けるようなものだから、

事情を知らなければ、言われた方は不快になってしまう。

 

チコちゃんじゃあないけれど

四六時中「ぼーっと生きてんじゃねーよ」

といわれ続けるような生活は息苦しい。

 

わからないこと、知らないこと、できないことが理解されないのだから当然なのだけれど、

知的障がい者がこんな状況におかれていることを、

少しは分かってもらえたらいいなと思う。