中尾砦(岐阜県恵那市長島町久須見中尾) | えいきの修学旅行(令和編)

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 平成30年新春シリーズで北信濃海津城周辺も残すところ古城城山のみとなっているのですが、先日ここ2年ほどの悲願であった東濃中尾砦に至ることができました。
 北信濃連載の途中ですが、東濃の砦を割り込みます。
 
                                                                 中尾砦

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その砦は木曽川からの比高140mの岩峰上に築かれている

 

   対岸は織田圏であり、美濃に食い込んだ武田の最前線砦と想定される天王山砦の約2km上流に位置する
天王山砦:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496888039.html

   こ の中尾砦も、天王山砦同様に武田の最前線砦であった可能性がある。

時期は岩村城が武田の拠点となった元亀3年から天正3年で、私がハマった作手と同時期の話である。

 
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流側から
岩峰突端が郭4で、木曽川の監視にあたったことであろう。
  記事中、堀・郭名は宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版に準拠し、測値も同書に拠る。
 
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対岸真正面から見るとこう見える
 
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接近
岩…。
岩壁上に物見郭4。
 
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岩壁上 堀ア東の郭4
砦中枢とは堀アで隔てられた木曽川の物見台である。
城側堀ア面以外は岩壁で寄せ付けない。
 
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郭4にある大岩
岩上にあがることができるよう足を掛ける段が加工されている。
 
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大岩上から岩壁を見下ろす
この凄まじき要害は、武田の対織田最前線の砦に相応しい。
 
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郭南西(城内側)堀ア
この左方(南)に登路が入った(ようだ)。
 
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堀ア南方
ここに登路が入る…。私もここから入った。
 
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登路…
危険である。
私はヘルメットをかぶり、掴まることが可能な木を見極めつつ、慎重にルートを選んで登ることができた。登り口後述。
 

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この登路を見張るように岩上に二段ある

 
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下の段と登路竪堀
 

   
堀ア西城内
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城内にピンクリボンが散見される
調査が入っているのであろうか
 

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尾根上、階段状に防御構造を設けている

 
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露岩も利用し、関門も設けている
露岩の上の段が郭3。
 

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南下、帯郭状の通路

横堀としていないのは、斜面が急なため塁を盛る必要がないということであろうか。
あるいは土質が盛るに適さないか。
 
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郭3
 

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郭3を西から

 

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郭3からは中枢郭1・2北下を後背の大堀切イに至る通路が派生する

 

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側面頭上監視を受ける堀イへの通路

 

 
中枢郭2・1
 
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段差も石垣様に堅固
食い違うように南北から一段配された上に郭2。
 

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郭2

 
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郭2前面(下方)
食い違うように配された前衛段。
 

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郭2上に郭1

後背(写真奥)は大堀切イ、前面は郭2、南北(写真左右)両側に帯郭を付し備えている。
導線は南(左)まわりで郭1南西に入ったようだ。
 

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北の帯郭

これは先ほどのイに至る北通路の監視も役割であったことであろう。
 

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北通路を頭上監視

 
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郭1南西への導線と考えた通路
大堀切イ際でカーブし郭1南西のやや低い区画に入る。
 

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土塁というほど盛られていないが、造作があり、ここに入ったと考える

 

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導線を堀イ際からみる

郭1がやや高く、優位に横矢を掛け監視ができる。
 
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これが中尾砦郭1
20×6mほどの長方形。
 

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郭1後背

やや低い区画の西に大堀切イが厳重に警戒。
 

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堀イ

上幅13m。
中央に土橋があり、後背山側から山道が入る。
 

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イ南方掘り下げ

下方に沢。
 

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底中央土橋

 

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イ北方掘り下げ

 

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北方掘り下げを城外から

寄せ付けない。
 しかし、郭の後背にあたる西尾根は堀イで厳重警戒しているが、その西尾根から堀イ越しに郭1内を見通すことができてしまう。
 
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西尾根から堀イ越しに郭1
後背に遮蔽意図の土塁が欲しいところであるが、なぜ盛らなかったのか。
 れは、前面木曽川側が敵勢力圏、後背山側が味方勢力圏で、後背の山側が味方連絡路であったからであろう。私は武田勢力圏最前線を裏付ける解釈をした。
 

  まとめ
 
  中尾砦は、木曽川に臨む岩峰という険しい地形のためか、格別の武田普請が施された様子は見えなかったが、露岩、岩壁を巧妙かつ丁寧に造作し、堅固な砦として作り上げられている。
 私はそれを天正初期の対織田武田圏最前線砦の気配と濃厚に感じた。
 
 私は作手が武田圏であった時期と同時期の武田最前線の城に興味があり、この東濃中尾砦をかねてから狙っていた。昨年、作手繋がりの恵那のMさんに登り口を案内いただいたが、その時は私が足を痛めていて、登り口の確認にとどめておいた。今春、足も回復したので、草が猛る前にと単独行で挑んできた。険難は覚悟していたが、想像通りの険しい登りを克服し、城内に到達、撮影に成功した。五郎小屋砦、天王山砦と東濃戦国砦の稀少なネット記事初出にあずかり、光栄である。
 
 もし、私のブログ経由で挑む人が出るようであれば、険しいことを承知の上、無理と感じれば断念する勇気をもって行かれてください。
 最後になりましたが、登り口まで誘導いただいたMさんに感謝申し上げます。
 
 

 登り口

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この沢が目印
 恵那北小のほうから舗装林道が通っている。沢の脇を攀じ登ってもいいが険しい。50m程西に行きすぎて取り付くと登りやすい。小さい車なら駐車可能スペースもある。

 

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岩壁東下(4枚目写真再掲)を南の沢側(写真左)に回り込み
 
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可能な限り進む

 

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岩が終わったあたりから取り付く…

岩と、しっかりした木を確認しつつ、慎重に登りました。
無理だと感じれば、断念すべきです。
   もちろん、下りも危険です。
 
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このように
(10枚目再掲)
 

参考文献 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、p76