霞城3では搦手となる南東尾根、壊れた記事の補足、郭4以北の北尾根へ至る登り口、まとめを掲載します。
霞城縄張図
(主郭設置説明縄張図を引用し、ブログ説明用に郭・堀・地点名を加筆)
郭2南東下方
石積段差下に郭6が配される。
郭2-6段差石積
郭6下方南東尾根
石積で造作された屈曲路が敷設される。
石積で造作された屈曲路
これは城構造か?
果樹園作業路?
路最下段
下方郭に接続する。やはり城構造か。
搦手からの路は大岩にあたり折れている
その大岩
大岩へのあたり
郭8南東は石積段差で区切られ、一段下に9が付く
郭8-9石積
郭9南東石積
積み方が異なるところもあるのではないか
古墳と城の差であろうか(千年以上違う…)
搦手の土橋
土橋とはしたが、石で補強され、石橋といえようか
南東尾根搦手と1で掲載した西石門間の城南は、現況では壁険しく崩落もあり接続していない
崩落もあるだろうが壁厳しい
岩場も険しい
通行不可能。
注:攀じ登ろうとすれば可能なところはある。
南
尼巌城。
西
鳥打峠と金井山城。
その向こうが海津城(松代)。
登り口
大室公民館近く、永福寺跡脇に登り口
駐車可能なスペースはあるが、ここまでの路地が狭い。普通車は困難なのではないか。
岩信仰の聖地感いっぱい
予感的中
この山は信仰の場である。
また、岩壁急で普請は要さない。
朱塗りという行為は、高価な篤い行為のようだ
遠藤先生は、小県地域の特色とも話しておられた(2018.2上田市西部公民館講演)。
稜線到達
堀ア
永福寺から6分。
堀ア―イ間に石門に至るルートと看板がある。
石門まで看板から3分(急ぎ)。
記事が途中で壊れしまい、混乱しましたが、完了しました。
まとめ
霞城の近世城城郭を思わせる広い郭のとり方と、美しい石積に、私はすっかり魅了されました。
郭の屈曲を用いた辺縁ラインは直線が多く、丸の武田感が私には感じられなかった。
近世風普請は、最初は森の影響下が最も考えやすいと思ったのだが、虎口形状や石の積み方は織豊の技法ではないのではないだろうか。
全域の石積・郭の削平の状況、にわか作り(森影響下2ヶ月)の普請では無理であろう。
私は、霞城の海津城側に呼応するように築かれた近世城郭風の郭どりと石積構造は、景勝圏下の姿だと感じている。
参考文献 現地説明板
宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版
池上裕子(2012)『日本中近世移行期論』、校倉書房
上越市史別編