竹山城(長野市松代町竹山) | えいきの修学旅行(令和編)

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竹山城(西から)
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海津城1km内の至近、西条と清野の間に張出す尾根上に築かれている。
宮坂武男『信濃の山城と館2』(以下宮坂2・郭堀名・測値は同書に準拠)によると誰の手による城かはっきりしないが、立地からして清野氏の一族西条氏の要害城として築かれ、やがて武田氏の治下で海津城防衛網の一環として大改修をうけたものと推定している。
 
 私のこの城に対する捉え(まとめ)も冒頭に記しておきたい。
 
 西条氏の武田帰属は弘治2年1224日以前(池上 2012,p.204であり、天正103月の武田滅亡時まで武田麾下に在ったが、武田滅亡直後海津城に入った森長可より同年410日に当知行安堵の判物(信濃史料15202)を受けている。森は本能寺の変をうけて618日には海津城を退去するが、その間、西条氏は織田圏下に当地に在ったことを特記しておきたい。
 西条氏は森退去後はこの地に進出した上杉景勝から6月本領安堵・嶋立給与の朱印状(上越市史別編2434)を受け、上杉に帰属した。天正14年信濃衆軍役帳では鑓十六丁、鉄砲五丁、馬上四騎、弓四張、小籏三本の32人(自分放して)を務め、同年の景勝の上洛に付き従った(池上 2012,pp.233-4)。文禄三年定納員数目録では878石で海津城留守役・在番を勤め、慶長5年会津分限では2100石となっている。
 
  竹山城が西条氏の城であるとすれば、中世から近世(弘治~慶長年間)へと移り行く戦国北信濃において、西条氏の持城として武田-織田―上杉圏下を通じて上位権力の意と時代の技術をも受けながら改修・維持された城とみることができよう。
 
 特に主郭南西隅虎口は、上杉圏下には珍しい、織豊の影響を受けた虎口の可能性を感じた。
 しかし、完全な近世城郭への変貌を遂げ得なかったことも、まさにそういった背景と一致していると捉えている。
上写真裏側の西から竹山城
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宮坂2では南麓表組あたりに西条氏の館を推定し、南東か南西の尾根を初期の登城路と想像している。
主郭周辺は石垣で固められているが、特に白囲い部の南斜面には石垣で2段から3段に造作された曲輪が配されている。
 
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南東尾根の下段曲輪から主郭を見上げる
石垣による3段の曲輪と屈曲登路が設定されている。
中段には東斜面を通り郭2、表組・西条登山路と接続する。
 
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下段郭に石垣
これは崩れた石垣の集積かもしれない。
写真奥の竹林中に見事な石垣が残存するが、南西尾根からは進入ができない。南西尾根からの撮影写真を後掲する。
 
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石垣による屈曲登路
 
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主郭への最終導線部付近
 
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石壁に当たり折れるというよりは、屈曲を造作といった用途か
 
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主郭壁と屈曲導線
 
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主郭への入り
屈曲設定も上杉圏としては古くもない
が、堀込みや枡形などの各段の造作はなく、南東の角へ入る。
 
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主郭入りから南東尾根3段郭を監視
 
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主郭南壁上段石垣
 
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登路造作ではなく堅固な石壁面である
 

 
主郭
 
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北下の郭から
造山神社の神苑としての石碑と基壇、放送施設がある。
この北からの入りが主要路であろうが、改変を考慮しなればならない
 
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主郭内から北の入り
堀込みの虎口と虎口前の馬出ととっていいものか。
 
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基壇
城にまつわる構造ではない。
写真右後方に南西虎口。
 
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主郭南西隅
この虎口、私は織豊の虎口と観た。
説明用の主郭内開口南西脇をA、北東脇をBとした。導線はA下を登坂、B隅に当たり、折れ入る。
A・Bにより導線、虎口とも横矢監視が可能。
 
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明確な張出櫓台とまでは言い得ないが、私には上杉圏構造ではなく、織豊の虎口に思えた。
 
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森長可の居城美濃金山城
曲輪搦手虎口
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登坂状況 
B石壁にあたって右折れし虎口へ入る、と私は捉えた。上杉圏では異。武田圏でも異であろう。
 
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素を提供
線なし。
 
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当たり折れ入ると捉えてよいか、微妙な設定である。
 
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西面石垣はセットバックされている
しかし、前は帯・通路ほどの幅は持たない。
 なぜ、南ほどの壁面としなかったのか。
 
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虎口へ
狭まり方も粋である。
 
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南西虎口導線下方 南西尾根
 
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下方から南西虎口導線下部
 
 

 
   
南西尾根
 
 
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南西尾根左の主郭南面斜面には三段の曲輪が配され、先掲の南東虎口・南西虎口・両導線に施設された石垣よりも高い石垣が設けられている。
また右の西斜面には上段曲輪線に岩を割った竪堀が一本掘られ、西への回り込みを阻止している。
 
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段曲輪線西斜面竪堀
この竪堀は一本(畝状・連続ではない)だが、岩を割り、西斜面回り込みを強く阻止する意志を放つ。
 
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岩を割る竪堀
強固な意志。
上端を西斜面を郭2に至る通路が接続する。
 
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上段曲輪
主郭側壁面基部は石積は見られない。
しかし、尾根筋側と下方壁面には石垣が巡らされている。
 
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上段曲輪南西隅石垣
これは…、鞍骨、寺尾、霞とは異なる技法ではないか(宮坂2では石の積み方は鞍骨城とよく似ていると記述されているので、私の感じた違いは石の形状かもしれない)。
南は高い。
 
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中段曲輪
竹って、短いのが首や股に刺さると死ぬ可能性があり、やっかいである。
 
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中段曲輪南西尾根筋側石垣
 
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南面石垣壁と下段曲輪
 
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下段曲輪側南面石垣
 
              曲輪線下方南西尾根イメージ 31
岩場を降り80mほどで一旦小山があり、その先に二重堀切・関門、さらに約65mでもう一本堀切・関門が設置されている。
 
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旦小山
 
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二重堀切
乗り越し可であったようだ。
堀切処理は織豊ではなく、在来の構造か。
 
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その先63mでもう一本堀切 
 

 
北尾根
主郭への入りは先述したが、改変を受けている。
 
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北入口前の郭より屈曲導線
 
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この導線付近の石垣は威容がある
後期の主要登城路か。
 
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北入口前郭を下方から見上げる
崩れてはいるが威容只ならぬ。
 
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郭2後背石碑上の舌状区画に降りる
後期大手重要関門に思えるが、改変もあるやもしれない。
 
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主郭方向
 
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郭2南詰石碑
 
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60×20の長大な郭
城内随一の軍勢の収容な可能なスペースである。
西(左))に2本、東(右)に1本竪堀を放つ。

西の南詰の一本は、回り込み阻止に加え、通路を狭め通行箇所限定の意図もあろう。

 
写真奥北端に象山神社近くからの登山路が、右看板に表組・西条登山路が入る。
 
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郭2から主郭方向
関門様構造は改変の可能性があり、掲載しない。
 
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西の南詰の竪堀
通路を狭め通行箇所限定の意図もあろう。
 
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郭2北部6×7の櫓台
 
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櫓台北下
北尾根に道が掘り込まれた虎口状箇所に入る。その入りを高所から監視できる。
 
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掘り込まれた虎口か
約45m急に下り北限の堀ア。
 
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堀ア
 

 

 

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象山登り口
郭2まで13分。
 
眺望も優れるが、ブログの写真容量が危ういため省いた。現地で堪能ください。
 
 まとめは冒頭にて書きました。
 

 
参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版
 
        池上裕子(2012)『日本中近世移行期論』、校倉書房
 
         上越市史別編