霞城1概略・石門(長野市松代町大室) | えいきの修学旅行(令和編)

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            霞城(北東から)
 イメージ 1大室氏の城とされる
 
 
 
 
 








 
 
 大室左衛門は、武田滅亡直後海津城に入った森長可より同年48日に当知行安堵の判物(信濃史料15202)を受けている。森は、本能寺の変をうけて618日には海津城を退去するが、その間、大室氏は先の竹山城西条氏同様に織田圏下に当地に在った。それ以前の大室氏の武田・上杉への帰属を示す史料は私の手元にはない。しかし、武田滅亡直後当地に居たのであれば武田に帰属していたと考える。
 
 森退去後は代わって進出してきた上杉景勝より621日に本領安堵・忠信次第の新恩之儀朱印状を受け(上越市史別編2422)、景勝に帰属した。同年87日の荒砥番帳(同前2521)に、7丁、武主一人宛差副て、対北条上杉最前線の在番をした。同11年5月、景勝は大室源次郎からの詫言を容れ、本領安堵の朱印状(同前2784)を出している。宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』では屋代の謀反加担を疑われたためとしている。天正14年信濃衆軍役帳では鑓九丁、鉄砲五丁、馬上三騎、弓一張、小籏三本を務め、同年の景勝の上洛に付き従った(池上 2012,pp.233-4)。文禄三年定納員数目録では522石で海津城留守役・在番、慶長5年会津分限では1500(1000)(1)となっている。
 註 (1)  上杉家中の知行はおよそ文禄3年定納員数目録から慶長5年会津分限は2倍に、慶長12年米沢時点には会津期の三分の一に推移している。
 
 
霞城縄張図(主郭設置より引用、ブログ説明のため郭・堀・地点名を加筆)
 イメージ 21
霞城は書き綴ってきた一連の海津城周辺の各城の中では、郭の配置が異様で、まるで近世城郭を思わせる。虎口によって接続する郭と郭は、一連の山城よりも圧倒的に広いスペースが確保されている。
 
しかし、近世城郭としては、虎口構造が上杉圏に後ろ髪を引かれる感を受けた。
   
上写真は左図右の大室側から撮影したもので、下は左図左の海津城側から撮影した写真である。海津城側には石門と呼ばれる石積み城門構造がある。
 
 1では概略と石門、2では中枢郭1・2・3と4、3では搦手南東尾根と北東麓登り口から北尾根を辿ります(途中で記事が壊れてしまい、可能な修正をしつつ構成を変えましたので、進行が不自然なところがありますがご容赦ください)。




イメージ 2
 白囲い部が石門付近















 
イメージ 3石門下部
 
 
 
 
枡形内で折れる構造ではない。
 
 
 







イメージ 4枡形を真っ直ぐ上がると、正面の石壁に当たる前に左斜めに進む

正面の石壁にあたり、左に折れる導線設定ではない。









イメージ 17石門下部付近の導線を南石垣上高所から


枡形の上に横矢が掛かるが、石壁は導線を造ってはいない。
斜め坂を登り石門上部へ至る



 




イメージ 5下部から上部への導線途中から


 












 


イメージ 6石門上部への斜め坂導線

枡形の張出に当たり折れ入る構造ではなく、枡形に斜めに入る導線である。

右ななめ石塁上から監視を受ける。



 



イメージ 7石門上部


城へ向かって開口左(北)がやや張出しているが、当てるための張出ではないようだ。

開口右(南)は折れて張り出している。

技巧的なようで奇妙なような印象を受けた



イメージ 8開口左
張出して出構える。

櫓台となるほどの強度はなさそうで、意図は回り込み阻止と、出入の喰い違いを造作か。








イメージ 13開口右は、折れ歪んで張出す















イメージ 9張出

開口部前に横矢が可能。












イメージ 10西石壁線

下部から上部への導線を監視。












イメージ 11西張出上から開口部前を俯瞰

やはり開口左の張出しは、織豊技法としては不自然ではないか。









イメージ 12もう一枚

















イメージ 20石門上部桝形を場内側から



枡形内は南が短く、北が長い(深い)。ということは、枡形内で南に折れる構造と考えることができる。とすると、石門上部桝形はコの字ターンという織豊の技法ということになる。
          
                   しかし、


イメージ 15白線のように南に折れても、じつは壁険しく、現状では南回りで城内に至ることができない…


下部から上部への導線を監視していた石壁上の城兵も、城内に撤収することができない…。
とすると黄線のように枡形を抜けてから北へ折れて、現散策路のように堀ア-イ間へ至るコースが城内へのルートということになる。
 
 この石門構造は、織豊の影響下の普請ではないのではないか。
 (もっとも、搦手南東尾根へ接続可能であれば、白ターンが活きて、それがルートになる)

イメージ 14直上壁上から監視をうける














イメージ 16しかし、その壁は険しく南回りで城内へ入ることはできない(危険を冒してよじ登ることはできる)











 
イメージ 18壁上
石門を見張る郭。
















イメージ 19壁上から石門・導線を俯瞰

参考文献 現地設置説明板 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版 池上裕子(2012)『日本中近世移行期論』、校倉書房
 上越市史別編