近所の特権・ー入河沢城は天正の何時ー | えいきの修学旅行(令和編)

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 眠っている山城は、夏は藪に埋もれ、突入・観察は難しく、また、この地域は冬は冬で雪に埋まってしまいます。降雪初期か、雪消え直前のタイミングで踏む込むのが絶好のチャンスです。
 事情が有って、遠征控えていますが、近所の特権を利用して、絶好のタイミングで旧吉川町入河沢城に行ってきました。山を間違えたうえに雪と急傾斜による艱難の末の到達でしたが、驚きの城郭構造の実見に、辛苦は吹っ飛びました。記事は9日東濃久々利城前編が公開なのですが、入河沢城記事作成が随分先になりそうなのでホットな感動を伝えておきます記事末にH29作成記事アドレス貼付)。
 
 入河沢城は天正6年、御館の乱の際し、景虎方に付いて攻め落とされた城と伝わる
 
               違う山に間違えて登って下山、その後に遭遇
 
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                         間違いなく戦国の堀切
 
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            いちばんの驚きは、町田、茶臼山城には無い、虎口の存在。
            一人山中で感嘆。
 天正10年、織田勢の越後侵入に備えた鳥坂城、本能寺の変後、北信に打って出た景勝勢による改修が考えられる野尻新城、若槻山城、鴨ヶ岳城、竹の城、鞍骨城などに見いだすことができる逆四角錐台形ではないか。
 この構造について、実はかなり確信をもって温めていた自説がある。
 しかし、溶けてしまった…。
 逆四角錐台形に掘り込んだ虎口は、景勝軍の動向にマッチするのだが、天正壬午の乱を経て北信に復帰した旧信濃国人の城には無いのである(高梨は鴨ヶ岳城ではなく安源寺城に入った)。同時代の同勢力による築城(改修)でも、城によって有無の差があるわけで、私は、景勝自身が在城(在陣)する城にのみ構築された虎口構造と考えていた。春日山からの行程にも合い、上杉当主の格式を示す構造と…。
 しかし、その私が温めていた説は、入河沢城に在るという事実によって、溶けつつある。
 
 もうひとつ、遠藤公洋が(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」と(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」のなかで、緩斜面の設けられた塹壕状遺構(2009は土塁を伴う浅い堀)と背後の切岸、切岸上に設けられた土塁を伴わない削平地がセットになったプランを天正期上杉の防御施設としている構造も、天正10年頃からの上杉城郭に構築された構造と理解している。
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                   しかし、その構造も入河沢城に在った
 
  天正6年の御館の乱時に、格のそう高くない侍が、このような構造を築く主体であったとすると、私の天正期上杉築城技術の年代観、主体者を改めなければならない。
 
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                            主郭の虎口
 
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                  低位郭への接続にも虎口を用いている
 
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堀切に竪土塁を沿わす工夫
 
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                    畝型阻塞も群から単に洗練されたのか
 
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                         架橋台による接続
 
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                        土塁の運用も高度ではないか
 
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カモシカ君の毛色もグレードが高い
 
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入河沢城、ほぼくまなく歩き撮影することができました。
 
今回は感動をホットに伝えるための記事です。
いずれ機会をあらためて、どどどどっと公開します。お楽しみに。
 
H29.4入河沢城作成しました。

★自説に固執 逆四角錐台形にほりこまれた虎口https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496902312.html