入河沢城1(上越市吉川区入河沢) | えいきの修学旅行(令和編)

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えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

 2017.4月記事公開後、6月に「入河沢城を中心とした歴史と里山文化のまちづくり事業」が、地域活動支援事業として認可され、整備活動が始まりました。雪が消え、草を刈って、3月撮影時には見えなかった地表面の観察ができるようになりました。そのうえで得た新たな知見を、写真加え、必要に応じて加筆・修正・改稿しています。
                                
   はじめに
 
 入河沢城(いりこうぞうじょう)は上越市吉川区(旧吉川町)入河沢に在る山城である。
                   ここ http://yahoo.jp/-q6qGQ
 旧吉川町は、私の勤務するほたる調剤薬局が在る旧頸城村の隣町で、ほたる調剤薬局には日々吉川の方々も多く来局される。20年来のおつきあいで、親しくさせていただいている方も多い。
 そんなご縁と近所の特権を利用し、吉川の町田城、顕法寺城、国田城と吉川の城を過去にブログにしてきた。
 そして、今回、入河沢城を書く。
 
 この城は、私にとって、衝撃的な城であった。
 吉川町史では、御館の乱の伝承を伝え、城主を吉井喜四郎(小四郎)とし、御館の乱では景虎方に付き、景勝方に攻められ落城したという。別段、この頸城地方の中世の小規模山城として格別の記述はない。
 なにが、衝撃だったかというと、
 
 Ⅰ 逆四角錐台形虎口に類する虎口の存在。
 Ⅱ 前面に土塁を備えた浅い堀の存在。 
 Ⅲ 土塁付郭下を縫う堀底通路の設定。である。
 
 本ブログでは、吉川町史掲載花ヶ前盛明先生作図入河沢城跡実測図をブログ説明用に引用加筆し用いる。 遺構の読み解きは、えいきの私説です。
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入河沢城城跡実測図にⅠ、Ⅱ、Ⅲ構造(地点)を橙マーク、郭名を茶で付した
 
 Ⅰ逆四角錐台形虎口は、遠藤公洋の命名で、『長野の山城ベスト50を歩く』「鞍骨城」(p79)と「鴨ヶ岳城」(p.36)で、上杉勢力下の越後・信濃にその構造を見出し、北信では、鞍骨城、野尻城、鴨ヶ岳城での構築例を明記している。
 Ⅱは、遠藤が(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」と(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」のなかで、緩斜面の設けられた塹壕状遺構(2009は土塁を伴う浅い堀)と背後の切岸、切岸上に設けられた土塁を伴わない削平地がセットになったプランを天正期上杉の防御施設としている構造の類型と考えた。
 Ⅲの縫い通る設定を、北信竹の城、月生城を類型に考えている。
 
 Ⅰ、Ⅱ構造の構築時期は、遠藤の種々の研究論文では天正6年~10年頃に出現としている。
 しかし、能登、越中、越後、北信濃と天正期上杉の城郭構造をテーマにインターネット記事を綴ってきた私は、能登の上杉方城郭(https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496899804.html

)にⅠ、Ⅱ構造は見いだせず、能登を越後上杉が勢力圏としたのは天正4年12月から天正7年9月に限定できること、また中野以南の北信濃を越後上杉が勢力圏としたのは第三次川中島合戦が起きた弘治3年以前と、本能寺の変以が起きた天正10年以降に限定できることから、天正10年頃を目安に出現し、本能寺の変後北信に進出していく過程や、新発田重家の乱鎮圧を経て越後の領域支配を進める過程で上杉圏に構築された構造と捉えていた。

 
 これらの構造の構築主体は、築城主体が景勝政権中枢を担う高級直臣(上田衆)や、景勝により編成された派遣軍など、景勝に近い主体によって構築された城郭にみることができる構造であり、土豪階層(吉井)が主体となって独自に構築する構造ではないとも捉えていた。
 
 それが、天正6年の御館の乱での土豪層の戦闘を伝えるこの入河沢城に構築されているということが、私にとって大きな衝撃であった。
 その近所の特権を利用し、残雪が程よく残る絶好のタイミングで撮影し得た入河沢城の衝撃の構造を(私だけかも…)、衝撃のままにえいきの修学旅行に綴ることにより、入河沢城周辺に戦乱が想起した情勢、築城主体を愚考し、私の思い込みを検討仕直す転換点としたい。
 
 入河沢城は、大城郭ではないが、近所の思い入れがあり、以下の三部構成で詳細に綴る。    
 1では、南尾根からⅠ構造、郭②を経て主郭①へと辿る。
 2で、主郭から東尾根、次いで主郭①・①´周辺、さらに北尾根の私が特記したいⅡ構造を辿る。
 3では、切所となる北尾根堀エラインと西尾根のトラバースルートから西尾根へ出、西尾根と私が特記したいⅢ構造・搦手ルートを辿る。
 
入河沢城
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スタート
 
主郭➀南下方、南尾根郭②
 
堀、虎口、郭名をブログ説明用に命名し加筆
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郭②は、南尾根方向を堀切アで遮断警戒し、南東隅には土塁を備えている。
西向きに逆四角錐台形の桝形を開口し、虎口Ⅰが構えられている。
 虎口Ⅰが大手虎口で、堀ア西端付近で架橋?、あるいはア堀底を東西に郭②下を縫い、東端平場で南尾根に接続し、南麓の城主館跡横と伝わる光善寺(吉川町史)至るルートと南東麓集会所に至る尾根筋を迎えたものと考えるが、堀切アの南尾根遮断機能を優先すれば、あるいは西下方に城の沢に城道があったのかもしれない。いずれも現状では確認できない。
 主郭➀方向には、北西隅高まりを橋台として主郭➀に一段低く付随する➀´へ至るスロープ南端に架橋接続していたと考える。
 西下に、虎口Ⅰ、堀イ、ウ下端に接し帯郭が巡る。
 
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堀切イを背に郭②南方
 
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南東隅の土塁
虎口前に備えたものではない。
東の細い尾根筋、堀ア底東端下平場に備えたものか。
 
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東の細い尾根筋
備えなくてもよさそうだが。
いや、回り込みを阻止する竪土塁か。
 
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 土塁は郭②南面全てに構築されたわけではなく、南東隅のみであり、南尾根に厳重に備えたわけでもなさそうである。
 
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堀ア
深さ3m、幅2m、長さ25m。
遮断堀切。
 
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堀ア底東端下平場
 ここに南尾根からの道を迎えていれば、郭下を縫う構造になり、また南東隅土塁もルートに備えた機能を見出せる。
 
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本記事の特記事項、虎口Ⅰ
逆四角錐台形の桝形が郭②側面、南に開口。
 虎口入ると、正面に尾神岳を拝むことができる。尾神信仰との関係も考慮できようか。現在、雑木で眺望効かず。整備次第、写真追補します。
 
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もう一枚
 
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虎口下は帯郭に接続
 
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 帯郭北方は、堀イ、ウ西下端に接するが、鳴海図記載の主郭への導線は確認できない。また郭③への接続は西斜面の傾斜が厳しく、現状では困難である。
 
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西下方城の沢方向への城道は確認できず
 
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堀ア西端付近で(架橋?)南尾根に接続か
 
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堀ア
南尾根を遮断する。
あるいは、写真奥、東端と繋がる通路としていたか。
 
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東端
先に平場があり、城道を迎えていたか。
 
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南尾根から入河沢城
 
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完全に遮断
南東隅土塁が意味深。
 
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堀アを南東から
この時期、箱掘も出現するが、箱堀ではない。
 
では本記事の特記事項虎口Ⅰへの導線を辿り、主郭方向へ向かいます。
 
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虎口Ⅰへの導線は、張出に当る構造ではなく、帯郭から折れて、平入りで桝形に入る構造のようだ。
織豊虎口のような進化ではなく、あるいは山内上杉の比企型虎口にルーツを求めることができるだろうか。
 
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直下から虎口Ⅰ
 
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逆四角錐台形の桝形
 私は、信濃で見るこの構造を、景勝在陣時の表玄関的構造と考えていたが、この入河沢城に在るので、私の説は崩れてしまった。
 
※逆四角錐台形コレクション https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496901715.html

                 


 

 
郭②北部主郭方向
 
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堀イ、ウが、郭を区画するように堀切る。
堀ウ南には架橋台と考える高所があり、①´へ繋がるスロープへ架橋し、主郭へと至る。
緑線で加筆した架橋ースロープ通路をルートと考えている。
 
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細長く伸び、郭を区切るよう堀イ、ウで堀切る
イ、ウ間の一郭は、頭直上主郭から弓矢を浴びる。
 
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堀イは、両岸の高さが同じで、架橋であろう。
 また、6月整備中、笹を刈り地表面を観察したところ、主郭に向かって右(東)端から堀底に降り、底を左(西)に縫い通り、あがるルートを確認できた。

 

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6月草刈り後の写真
 
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堀イ
深さ2m、幅2m、長さ10m
会長の立つあたりに、ルートがあがる。
 
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堀底西端は帯郭に接する
 
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西下帯郭
横堀陣地ではないが、城の沢方向の西斜面を守るテラス構造であろうか。
 
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堀イとウに区切られた一郭
 北西隅に高所があり、堀ウ(深さ6m、幅2m、長さ13m)を高低差のあるスロープ南端へ架橋接続可能な傾斜とする架橋台であろう。
 戦時、架橋撤去すれば、主郭へは至れず、堀ウ以南で停止する敵に、直上主郭から弓矢を浴びる。
 
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架橋台
 
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堀ウ架橋部
現在は獣道がスロープ南端より低い位置につく
 
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スロープ南端付近
 
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架橋イメージ
高低差があり、架橋可能な傾斜とするため、架橋台を設けたのであろう。
 

 
入河沢城の中枢へ
 
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最高所主郭①に西に一段低く①´が付随する。
主郭①への導線は、スロープ通路で郭①へ繋ぎ、①´から主郭①虎口へ至る。
東尾根には険しく接続する。
 
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スロープ状通路
 
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カーブし①´へ
 
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左前下方には郭③
急傾斜壁で接続はありません。
 
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上、帯郭状に西から南に付随する郭①´を貫くと主郭①虎口
 
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郭①´
 
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主郭①虎口か
さきの虎口Ⅰ程明瞭ではないが、掘り込まれた虎口があったのではないか。
 
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主郭①内から
虎口空間の堀込みは不明瞭
 
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虎口入って右、郭①南部
 
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南端から眼下に辿ってきた南尾根郭②を完全監視
 
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南端から郭①
幅12m、長さ20m。
○右、東尾根は細く急に降り、尾根筋に2本堀切を入れて約120m先に郭④を設置し、備えている。
○左(西)下から奥(南)下に郭①´が付随し巡る。
○左①´急壁下に西尾根郭③が配されるが、接続していない。西尾根郭③、東尾根には奥北の①´から北尾根の堀エに降りて、トラバース接続していたと考える。
 
それらは、続編で。
 

参考文献
 吉川町史
 川西克造・三島正之・中井均編(2013)『長野の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版
 遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」
 遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」、『市誌研究ながの』、第16号