入河沢城3
3では、切所となる北尾根堀エラインと西尾根のトラバースルート(緑ライン)から西尾根へ出、私が特記したいⅢ構造・搦手ルート(緑ライン)を辿ります。
西尾根
郭
①´西斜面は高く急傾斜の壁面で、城中枢主郭①・①´と西尾根郭⑦・郭③との接続は無理である。
西尾根と城中枢主郭との考えられる接続ルートは、北尾根堀エラインから竪堀カ上端を架橋するトラバースルートであろう。そこは頭上郭①´に監視された切所で、侵入者にとっては通過は厳しい。敵が郭⑦に迫れば、竪堀カの架橋は撤去されているであろう。
また西尾根から城内郭③へ至るルートは、私が特記するⅢ構造で、南尾根を大手ルートとすれば城の搦手ルートであろう。
Ⅲ構造は、堀ク底を縫い通り、郭③頭上側面監視下に堀切キ西付近に至るルートである。郭③にはルートに沿って土塁が設けられ、ルートに対する防御・迎撃力が強化されている。西尾根から堀ク底に入る時、堀クに沿って郭⑨西端に設けられた土塁が郭⑨西部への進入を拒む。その土塁は、郭⑨西部内から迎撃する城兵の防御・迎撃力を増す。突破は厳しいであろう。
突破し、城内に入ったところで、切所の竪堀カ架橋が撤去されていれば、郭①´西壁下に立ち往生する。頭上郭①´から浴びる矢・銃弾は熾烈であろう。
下位郭である⑧へも、虎口により接続する。郭⑨には畝型阻塞のような土塁が一基設けられている。 ケ付近は水場と思われる。
堀エラインから西尾根へとトラバースルート(2掲載写真再掲)
竪堀カ上端を西尾根郭⑦と架橋(緑線)接続
ここが切所となろう。
郭⑦側に土盛りがあり、そこに架けたのではないか(残雪のある土盛の左かもしれないしれない)。
左上方はこの壁
頭上には郭①´が監視している。
妨害されながらの通過は困難であろう。
郭⑦土盛りから竪堀カ架橋推定部
架橋撤去すれば、西尾根(搦手)からの城内への侵入はできなくなる。
竪堀カは容易に橋を撤去・設置できる堀幅である。
郭⑦南方
主郭①・①´西下斜面は急壁で寄せ付けない。
写真奥、南尾根へのトラーバス接続を試みた。
無理でした
郭⑦南端から郭⑦
郭①´西壁を削り、造りだしていたとすれば、相当な大規模普請である。
土豪が独力で独自にできる普請ではないように思える。
郭①´西壁
竪堀カ架橋が撤去されていれば、寄せ手は郭⑦から先の城内へは侵入できず、この壁下で行き止まる。そこを、この壁の上から矢を射掛けられ、あるいは投石を受け、多大な犠牲を強いられることになろう(鉄砲は無いか、有っても僅かと考える)。
西、郭③へ向かいます。
西尾根は堀キで郭⑦と③で区画される
左(南)下方には郭⑧、⑨が巡る。
堀キの西、右(北)に、私が特記するⅢ構造・西尾根ルートが出入りする。
堀キ
南下方郭⑧、⑨
郭⑧へは郭③から虎口で接続する(後掲)。
郭③周辺・Ⅲ構造
堀キの西、郭③東部北に私が特記するⅢ構造・西尾根ルートが出入りする。
このルートは郭③北下ー堀ク底を縫い、西尾根に至る。このルートは、南尾根を城の大手とすれば、搦手道にあたるであろう。
以下再掲
Ⅲ構造は、堀ク底を縫い通り、郭③頭上側面監視下に堀切キ西付近に至るルートである。郭③にはルートに沿って土塁が設けられ、ルートに対する防御・迎撃力が強化されている。西尾根から堀ク底に入る時、堀クに沿って郭⑨西端に設けられた土塁が郭⑨西部への進入を拒む。その土塁は、郭⑨西部内から迎撃する城兵の防御・迎撃力を増す。突破は厳しいであろう。
下位郭である⑧へも、虎口により接続する。郭⑨には畝型阻塞のような土塁が一基設けられている。ケ付近は水場と思われる。
堀キの西、郭③東部北に私が特記するⅢ構造・搦手道が出入する
搦手道は、土塁の沿った郭③下を堀ク底に入り、郭③西端下を縫い通る。
南下方の郭⑧へも虎口によって接続している。
郭③内から南下方郭に接続する虎口
このような下位郭接続にも虎口が用いられている。
ケ付近
積雪時は確認できなかったが、6月整備時に地表面を観察したところ、炭焼窯が現出。
横井戸かと思ったが、炭焼窯の跡だそうだ。
郭⑨中部
郭⑨を中・西部を仕切る土塁
私は単で施設された畝型阻塞と観た。
直上郭③から
ちょうどコーナーでもあり、郭⑨西部(城外側)から中部(城内側)を見通すことができない。
郭③北面
搦手道に沿って土塁が設けられている。
土塁下を通る搦手道
西端
直下が堀クで、西尾根を南北に縫い通る。
縫い通る堀ク
郭③東部から搦手道へ出る
左頭上を郭③に監視されたルート
堀ク底で西尾根を南北に縫う。
右下方は、近代の林業作業に伴う造作のようだ。
堀ク底が西尾根を縫う
掘ク
南に抜けると、左(東)城内側に土塁が沿い、城内への進入を拒む
土塁内、郭⑨西部
城外側から見る搦手ルート城域出入口
土塁が侵入を拒み、郭③西端監視下の堀ク底を進むことになる。
土塁内、郭⑨西部に拠る城兵による迎撃も熾烈であろう。
城内突入は困難である。
犠牲を強いられながら、堀ク底を抜け、城内に侵入できたとしても、切所の竪堀カが撤去されていれば、主郭①´①城壁下の郭⑦から先の城内へは進むことができない。
郭⑦で停滞した寄せ手は、正面城壁上(主郭①´①)から、矢と投石を浴び、多大な犠牲を強いられることになろう。
下記まとめにかえては、記事作成時のもので、入河沢城のまとめ~地表面監察・整備活動から~を7/17に別記事にて作成しました。
まとめにかえて
近所の特権で、雪消え直前の絶好のタイミングで入河沢城の遺構を撮影することができた。
写真を駆使し、入河沢城の現況を詳細に伝えることができたと自負している。
町史では格別な記述はないが、私は入河沢城から格別な衝撃を受けた。
それは以下のⅠ~Ⅲの構造によってである。
Ⅰ 逆四角錐台形虎口に類する虎口。
Ⅱ 前面に土塁を備えた浅い堀。
Ⅲ 土塁付郭下を縫う堀底通路の設定。
私は、天正期の上杉圏(能登・越中・越後・北信濃)の城を歩き、これら構造は、景勝政権が天正10年以降を目安に構築した諸城に構築されていると認識し、これら構造がその時期での上杉政権中枢の管轄下にある城郭構造の普請能力(水準)を示していると考えていた。
天正6年御館の乱に際し、景虎方近隣土豪が拠ったと伝わる入河沢城に、これら構造が構築されていたとすると、私の認識していた天正期上杉の城郭構造の普請能力、構築主体の比定は改めなければならない。
御館の乱以前に、すでにⅠ・Ⅱ・Ⅲ構造が入河沢城に在ったと考えるべきか、または御館の乱勃発を契機に、景虎方近隣土豪が改修強化したと考えるべきか。
しかし、私の観察・評価では、吉川の著名な山城である顕法寺城のマッタリとした縄張りに比べ、入河沢の縄張はシャープで無駄がなく、顕法寺は戦国初期(天文以前)の、入河沢はより新しい時期(天正期)の縄張構想と考える。また景勝政権下において慶長近くまで機能したと考えられる町田城と比べても、城郭・構造の規模は、圧倒的に町田のほうが大きいが、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ構造などのパーツのテクニカル度においては、町田よりも入河沢のほうに新しい技術が用いられているように思える。城郭・構造の規模は、主体が地域での最大最高位である大名権力と、その下位階級との差と捉え、パーツの先進性は、山上要害町田よりも丘陵行政センター茶臼山城との機能分担を考えれば、御館の乱後の普請の配分と捉えることもできよう。
自説に固執すれば、御館の乱時に奪取した景勝方が、中枢に近い者を入河沢城に入れて改修、乱後も、激戦地帯であった周辺地域の安定のための武装鎮台として一定期間使用したのではないか、という説を唱えたい。
周辺には転輪寺や尾神などの高級かつ大きな宗教勢力も所在する。政権と繋がったそれらの関与も考えられよう。
城主と伝わる吉井について、近在の吉井に由来する土豪の他に、上杉憲政本拠上野平井城近くの吉井町(現高崎市吉井町)に由来する憲政家臣の可能性を文献・吉井町聞き取りで調べてみたが、確認できなかった。
今年、奇遇にも「入河沢城を中心とした歴史と里山文化のまちづくり事業」が地域活動支援事業として認可され、6月から上吉川歴史と里山文化のまちづくり研究会によって整備活動が始まった。
好運にも私も関わることを許された。
地元の方々に加え、金井、佐藤ら頸城郡城郭研究の先覚者も参加する。在地伝承ならびに金井・佐藤等の知見も織り交ぜ、さらに入河沢城についての検討が成されよう。築城時期、主体はもちろんであるが、私が疑問とした堀オをからの退避経路、また堀オが迎撃陣地と成り得るかについても検証を願いたい。
登り口は、整備事業により安全な道が設けられた時点で本ブログにも追記したい。
整備事業、楽しみである。
入河沢城には、十字尾根の立地のためと思われるが、横矢掛け・折れ歪み構造は見られない。
それらは、家ノ浦城(旧浦川原村・こちらも近所の特権で撮影)で、お楽しみください。
最後に城の南西麓東田中から望む尾神岳
霊神座す