入河沢城のまとめ~地表面監察・整備活動から~ | えいきの修学旅行(令和編)

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入河沢城は、この5月まで、人々に忘れられ、埋もれ、眠っていた城である。
 吉川町史に伝承とわずかな記述があり、その町史の記述が、いわば通説である。
 その通説を、吉川町史P568より引用する。
     
     上杉謙信の臣吉井喜四郎(小四郎)が在城したという言い伝えがある。天正6年(1578)の御館の乱のさい、上杉景虎に味方したため、上杉景勝軍に攻められ落城したという。ところが吉井という武将は、謙信の家臣にはいない。入河沢城の北東方1.5キロメートルに吉井集落がある。この吉井を本拠地とした武将であったのであろうか。
 
この通説を予備知識に、私は今春、入河沢城に踏み込み、以下のの構造が存在することに衝撃を受けた
 
  逆四角錐台形虎口に類する虎口。
  前面に土塁を備えた浅い堀。 
  土塁付郭下を縫う堀底通路の設定。
 
 私は、天正期の上杉圏(能登・越中・越後・北信濃)の城を歩き、これら構造は、景勝政権が天正10年以降を目安に構築した諸城に構築されていると認識し、これら構造がその時期での上杉政権中枢の管轄下にある城郭構造の普請能力(水準)を示していると考えていたからである。
 逆四角錐台形虎口:付録特集https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496902312.html?frm=theme

 

 それが、天正6年御館の乱に際し、景虎方近隣土豪が拠ったと伝わる入河沢城に構築されていたとすると、私の認識していた天正期上杉の城郭構造の普請能力、構築主体の比定は改めなければならない。
 御館の乱以前に、すでに構造が入河沢城に在ったと考えるべきか、または御館の乱勃発を契機に、景虎方近隣土豪が改修強化したと考えるべきか。
 

 

 

 しかし、私は自説に固執したい。

 

 
Ⅱ構造は、退避経路がないことから、陣地利用ではなく、ただ掘って前に盛っただけかもしれないが、ⅠとⅢは、ルートに設定に伴う構造である。
入河沢城は西尾根と南尾根は堀切で城域を区切っているが、土塁の運用と出入口があり、ルートが接続する。特に大手と考える南尾根には逆四角錐台形に掘り込まれた虎口を構える。
城域全域の壁、堀は、人工的に削り出した鋭い壁面を示す。
それら構造は、景勝期上杉の城郭普請である。
逆四角錐台形に掘り込まれた虎口は、政権中枢に近い主体による構築と考えている。
 
城主を吉井喜四郎とする伝承の根拠は、町史資料第一集に収載されている村明細帳の記述であろう。
 
欠年(天明期カ)天林寺村明細帳(P254
字あと塚
一 古城跡壱ヶ所
    是者春日山上杉景勝公御時代吉井喜四郎様古城之由申伝候得共、年代其外分明ニ相
   知不申、尤当村柴山之内有之候
欠年(文化期カ)天林寺村明細帳(P258)にも同様の記載有
寛政八年八月 入河沢村明細帳(P300
  一 古城跡壱ヶ所
      是者春日山上杉兼(ママ)信公御家人吉井喜四郎殿と申御人御在城之由申伝候
 
謙信、景勝の家臣に吉井喜四郎という人物は存在せず、また上杉憲政の本拠平井城近隣の旧吉井町に戦国期吉井姓の武士の存在を調べたが、続日本紀の天平神護二年(766)吉井連の姓は現吉井の名と明確な関係ははっきりせず、また現吉井町は、小田原役後に菅沼定利が飯吉村に城館を構え、町割りを行い、吉井村と改めたことによるため、憲政周辺の吉井という武士の存在は確認できなかった(1)
 
入河沢城の整備を一緒に行っている、江村、佐藤との意見交換の際、吉井喜四郎は、吉江喜四郎ではないか、という推論が生じた。

 

 

吉江喜四郎信景は、元亀3年10月に直江景綱・河隅忠清・飯田長家連署状(上越市史別編1128)以降、謙信の傍近くで活動が確認できる側近で、謙信への報告を求められたり、謙信の文書とセットになる副状を出したりしている(2)

 

謙信が死んだ天正6313日直後の324日、景勝が越中の領主小嶋職鎮へ謙信の死去と景勝の春日山城実城入りを知らせ、主従関係の継続を求めた書状(上越市史別編1478)に、喜四郎の副状があることが記されている。
 
上杉景勝書状
態様一書候、爰元之儀可心元候、去十三日、謙信不慮之虫気不被執直遠行、力落令察候、因茲、遺言之由候而、実城へ可移之由、各強而理候条、任其意候、然而、信・関諸堺無異儀候、可心易候、扨亦、吾分事、謙信在世中別而懇意、不可有忘失儀、肝要候、当代取分可加意之条、其心得尤ニ候、猶喜四郎可申候、穴賢〱、
追啓、謙信為遺言、刀一腰次吉作秘蔵尤候、以上、
三月廿四日   景勝(花押a
小嶋六郎左衛門とのへ
 
そのことから、謙信側近であった喜四郎は、謙信の死直後、すぐに景勝の側近として政権中枢にあったことがわかる(3)。また、景勝にとっては、喜四郎の副状を添えることができたということは、謙信の跡目と政権中枢を継承したことを内外に示すことになったであろう。
 
吉江喜四郎は、謙信晩年から景勝が掌握するまでの間、間違いなく政権中枢にあった者である。
  喜四郎は、9年に織田勢迫る越中戦線魚津城に派遣され、そこで吉江一族の宗信(4)、景資、長秀、中条景泰とともに、織田の猛攻に立ち向かう。魚津城内から景泰が国元に送った書状に「喜四郎殿とのおはしめ、いつれも〱おもひあい、なに事も〱おや・こものさしすしたいにて候間、あしき事すこしも〱御さなく候、」(2345)と城内での様子も今に伝わる。しかし、同1063日、喜四郎は宗信等吉江一族とともに魚津城内で自刃し、その生涯を終える。
吉江喜四郎の景勝奏者として文書は多数確認でき、景勝近くに在ったことは間違いない。しかし、入河沢での活動は現時点では確認できない。
入河沢の今に見る構造は、私は、景勝期上杉の城郭普請であり、逆四角錐台形に掘り込まれた虎口は、政権中枢に近い主体による構築と考えている。
吉井喜四郎を、町史の近隣吉井集落を本拠とする武将ではなく、私は、謙信晩年から景勝期の側近として政権中枢にあった吉江喜四郎信景と考える説を提起したい。
 

 
景勝、景虎方に分かれ争った御館の乱における周辺状況
 
イメージ 1
上郡(頸城地方)には景勝が春日山城を、春日山城を出た景虎は御館を本拠とし、対峙した。中郡(米山以北阿賀野川まで)の北条(柏崎市)、三条、栃尾が景虎方の一大根拠地であり、御館と北条・三条・北条を繋ぐルートの維持、遮断は、景虎、景勝方双方にとって重要な戦略であった。そのルートは、米山の北を回る陸路と海路、米山の南東中腹の小村峠を越えるルート、そして尾神岳の南の桜坂峠を越えるルートが基幹であった。米山の北は旗持城、雁海城、小村峠は猿毛城、桜坂峠の頸城側出口は入河沢城と国田城が扼していた。これら城の掌握が、双方にとって死命を制する戦略的重要な意味を持ったことであろう。
 
隣接する柿崎家中では、謙信死(天正63月)の直後、当主柿崎晴家が死に、柿崎家中分かれての戦闘が始まる。柿崎家中の戦闘は、同年6月に景虎方猿毛城が上野九兵衛尉によって攻略、家中は景勝方となり(上154446)一応終結するが、吉川の町田城は翌7年3月に上野が攻略する(上1790)まで景虎方である。入河沢周辺は、謙信死の直後(63月)から景虎切腹(73月)まで,予断を許さない激戦地帯であった。
景虎切腹後も、中郡は騒乱が続いており、上郡と中群をつなぐルートを押さえる入河沢城は、景勝方にとっては、上郡防衛の戦略上重要な拠点として、あるいは中郡へ軍を進める景勝本軍の在陣をも考慮される城として、機能したことであろう。
入河沢城は、景勝が、激戦地帯であった入河沢周辺地帯の武装鎮台として、また越後統治への重要な拠点として、政権中枢に参画した吉江喜四郎を派遣し、政権の城として改修、維持したことは十分に考えられよう。
 
以上のように、入河沢城の伝承と周辺状況を検証し、遺構の現況を景勝期上杉の城郭普請、しかも逆四角錐台形に掘り込まれた虎口の存在を政権中枢に近い主体による構築とする私の評価とを突き合わせ検討すれば、通説とは異なる説となる。

 

入河沢城は、御館の乱時に奪取した景勝方が、景勝側近(政権中枢)にあった吉江喜四郎信景を入河沢城に入れて改修、乱後も、激戦地帯であった周辺地域の安定のための武装鎮台として、また越後統治のための戦略上重要拠点として一定期間使用した城であるという説を唱えたい。
 周辺には転輪寺や尾神などの高級かつ大きな宗教勢力も所在する。政権と繋がったそれらの関与も考えられよう。
    
また、頸城郡四郷絵図には、文禄から慶長にかけての中世頸城郡380町村が描かれている。そこには、村ごとの村名・等級・知行人・本納高・縄高・家数・人数が記載されている。しかし、それら事項が記されていない町村が16在る。絵図該当エリア内で逆四角錐台形虎口を構える城館である入河沢城と米山寺城近くの入河沢村と米山寺村は、記載が無い(米山寺は本納・縄ノ高が記載なし7/23修正)。
逆四角錐台形虎口の存在が、頸城四郡絵図における、それら事項の記載がない理由を解明する鍵になるのではないだろうか。今後の課題としたい。
 
 
   

 

 

 

(1)古城武司(1995)『まんが吉井町の歴史』、(株)上毛新聞社 ・吉井郷土資料館中島学芸員の教示による。
(2)(3)米沢市上杉博物館(2010)『特別展上杉家家臣団』、川島印刷p.61
(4)宗信は天正5年から越中西部の上杉最重要拠点増山城の城代を務め、謙信死後も同9年まで同城を維持する。しかし、織田の攻勢の前に上杉圏は魚津―松倉の線に後退、宗信は魚津城将を命じられる(上越市史別編2214)。