自説に固執(逆四角錐台形に掘り込まれた虎口) | えいきの修学旅行(令和編)

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  逆四角錐台形虎口が、景勝在陣のための施設という自説を温めていたが、吉川の入河沢城に在るという事実に、衝撃を受け、この私の説は崩壊した。
                          かに思った。
 
 二年前に信濃の国のディーラーで購入した車の修理に、先日高速を使わずに下道最短距離で行ってきた。
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赤線がそのルート。
 
 まさに逆四角錐台形に掘り込まれた虎口を備えた城を次々と縫って行くではないか(鳥坂と若槻山は竪堀上端の虎口)。
 しかも、ほぼ等間隔(千曲川右岸も、野尻ー鴨ヶ岳ー竹の城ー鞍骨と繋いで考えることができる)。
 しかも、信濃国衆が復帰した城ではなく、景勝派遣軍が拠点とした岩井城、若宮城にもない。
 しかも、善光寺平への出口は、枡形城、若槻山城が並び固めている。
 しかも、私の目的地は、善光寺をかすめ、犀川を丹波島の渡しで越えた川中島で、さらにその先は鞍骨城に至る。
 しかもが連発しました。
 
 これら城々は、天正10年、本能寺の変を機に北信濃へ打って出た景勝勢の戦略上重要拠点であり、景勝本軍の移動、在陣を考慮した城だと、私はどうしても考えてしまう。
 四角錐台形に掘り込まれた虎口は、景勝在陣時の上杉当主の格式を示す玄関としての構造だという想いを捨てることができない。
 
 しかも、春日山ー鳥坂の距離と、春日山ー入河沢城の距離もこれら間隔とほぼ同じではないか。
 
 6月来、入河沢城の整備活動をお手伝いさせていただいている。
 
 一度は崩壊した、入河沢城は景勝政権中枢に近い城なのではないかという想いが、沸々とまた、湧いてきている。
 
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入河沢城の逆四角錐台形に掘り込まれた虎口
 
 小境城記事作成での達成感があり、また入河沢城の整備、二科目試験(通しでしょう)、家庭の事情などもあり、しばし記事作成を休んでいました。
 8月26日に茶臼山城の説明会を仰せつかり、その資料作成もありますが、ぼちぼち再開しようと思っています。