小境城4 | えいきの修学旅行(令和編)

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小境城4ラストです。
4では、山上主要部後背の五重堀切をたっぷり堪能下さい。
(2と一部写真重複します)
 
小境城見取図(らんまる攻城戦記より引用・ブログ説明用にABを命名、橙加筆
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山上主要部の後背は、五重に堀切り、厳重に遮断する。その鋭さ執拗さは、鬼気迫るものがある。
西下は2でも扱ったが、竪堀として長大に降り下る。

 

 堀ク山上底、は幅広く、郭として利用されていた。宮坂は後方の防御拠点としている。ケーク間は土橋で接続し、後方を警戒している。主要部との接続は、堀クーキ間の高所から郭1後背高台に架橋接続したと考える。
 しかし、郭1後背の多重遮断構造は極めて熾烈で、架橋などしなければ、主郭側から到達することも存在を伺うこともできない。竪堀通路も明確に繋がっていない。あるいは、堀ク山上底は、搦手防御拠点というよりも、知る者のみぞ知る隠蔽された郭のようにも思える。天水溜もあり、城主妻子等を隠し籠らせる空間なのではないだろうか。   
 
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郭1後背土塁上平坦部から堀オ対岸架橋推定箇所(いちおう架橋架橋接続と考えて記述する)
堀オ底は、見えていない。大木の根元手前下が底。
 
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直下、堀オ底
 
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12月、降りること能わず…
 
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やや斜から

鋭さは、遮断の意図をあらわす。

 11月、木に掴まりながら慎重に降りた。登ることができるかは疑問。私は竪堀を降下したので登っていない。
 
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東端
追い落とされる…
東は五本とも同様。
 
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オ底
 
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西は竪堀として降る(2でこってり)
しかし上がってきても城内には入れない
 
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4月撮影
勲章もの。
 
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堀カ(城外)側
攀じ登ること能わず
 
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東側から乗り越す
けっこう危ない。
 
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乗り越すと堀カ、キ
 
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オーカ間
千曲川対岸、武田の平沢城と比較すると、狭い。

平沢城1:★平沢城1 https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496897118.html

上杉圏畝状空堀の類型であろう。架橋台使用は可能と見た。

 
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郭1側
土塁で郭内は見通すことができない。架橋するには、高さはいいのではないか。
 
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堀キ側
こちらも架橋可能な高さである。
 
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やや斜から
堀キ-ク間まで架橋可能な畝状の多重空堀と捉えた。
 
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西は竪堀降下
 
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キと収斂し降る
 
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カーキ間頂部
 
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郭1側
こんなとこで伏せて撮るわしは、…。
 
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堀キ
 
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西、竪堀降下
先のカと収斂し降る。
 
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堀キ越しにキーク間をみる
 
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堀キ-ク間頂部
やや幅広。
 
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ここに西からのルートが上がってきて、郭1へ架橋接続したとかもしれない(2参照ください)。
 
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郭1側
 
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堀ケ、ク側
堀クは幅広く、架橋は無理であろう。
この北方は土橋で接続し、堀ケ線を警戒できる。
 
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直下 堀ク
開いた口が塞がらない。
 
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…。
 

            
 堀ク底は、幅広く、平らである
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遮断・防御を意図した箱掘というよりも、郭利用であろう。
 天水溜があり、搦手の防御拠点という戦闘空間というよりも、隠蔽された居住性を感じる。妻子や家財を隠蔽し秘匿する郭ではないだろうか。
 東は急傾斜、西は竪堀降下(搦手か)。南の城内側は小山のような壁から三重堀切。北は西から土塁伝いにあがり、土橋で堀ケに至り後方を警戒する。
 
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東は傾斜がきつい
 木が斜め、あるいは下方に向かって生えていて、トラバースは過酷である。私は試みた。そして、木の下を潜ろうとした瞬間、あの事故が起こった。
 何故か安全ピンが抜けていた熊スプレーを腹部でプッシュ、屈んだ背の上には木があり、起きること能わず、猛噴射は数秒続いた…。
 
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東斜面城外側から
城内三重堀切側は小山のような壁。あるいは、接続はせず、隔絶・隠蔽されていたのかもしれない。
 
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天水溜と土塁土橋
歪みは、レンズに付着した熊スプレーか涙か鼻水か。
小境城で、死ぬかもと思いました。
11月はここで中断、ともかく下方へと、竪堀降下を決意。
 
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西
竪堀降下
堀オよりも穏やかで、通路利用可能とみた。
薮期は、過酷だったが…。
どうにか、弥勒寺に至り、信濃の国の人々の助けを得て、九死に一生を得ました。
 
 信濃の国の皆さん、ありがとうございました。感謝の意をもって、飯山市にふるさと納税をいたしました。
 やめとくべき、という考えもあろうかと思いますが、 この苦難が、私の小境城調査・ブログ掲載への執念の源泉です。

 

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竪堀部(上写真の倒木付近)から堀ク山上
 
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土塁伝いに後背土橋へ
 
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試練を経て鍛えられた私には、この程度の枝は、苦ではない
 
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土橋南端より堀ク
 
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土橋
約18m北先に堀ケ
 
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北端より堀ク
 
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堀ケ
小境城北端にあたる。
 
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東端
 
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西
竪堀降下。
 
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城外から堀ケ
 
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城外東斜面から
 

 
   まとめにかえて
 
 小境城は、山腹居住区郭3、山上要害部の郭1・2のスケールから、伝えるところの会津分限で150石とされる西堀氏の分限に相応しい城と考える。
 しかし、山上後背から西山腹にかけて厳戒・長大に掘られた堀は、西堀氏一手で普請できる構造ではないであろう。より上位権力の関与(要求)があったのではないだろうか。上位権力といえば、永禄以降では、謙信期上杉、勝頼期武田、森海津入部期織田ー景勝期上杉が該当しよう。
 
 虎口、郭は天正期での発達はみられないが、堀の塁線構造、段差普請、通路利用に関しては、謙信期より後の天正の技術と考えることができるのではないか。
 勝頼期武田も該当するが、多重堀間の構造は武田よりも上杉圏と同類の様相で、また、勝頼期武田圏においては、無二の同盟国越後との境であり、両国関係の状況から、ここまでの鬼気迫るが如き厳戒構造は不要であろう。虎口と城域を明示する普請で、武田治政下を示せば足りる。
 
 小境城の、郭に比して恐ろしいまでの長大・厳重な堀構造は、やはり、迫りくる熾烈な危機(情勢の厳しさ)を現わしているものと考える。
 
 情勢としてもっとも厳しい時期は、本記事に縄張図を引用させていただいたらんまるさんが指摘するように、織田徳川連合軍が武田滅亡を期して武田領に侵攻を開始した天正10年2月から、本能寺変により森が退去する同年6月までの間が最も相応しいであろう。
 本能寺の変後に信濃へ打って出た景勝勢の状況は、奥信濃においては厳しいものではない。
 
 撮影時、またブログ書き始めた時点では、この城は、謙信領国の絶対国防圏であり、武田勢の越後侵入を阻止するための死守すべき境目の城。あるいは、謙信死後の景勝ー勝頼による甲越同盟締結後は、勝頼領有下となり、父信玄以来の悲願であった信濃全域領有を果たした勝頼の意を受けて改修された可能性のラインで考えていたが、記事を書きつつ検討するうち、そのように思い至った。
 
 史料で根拠を探すと、天正1044日に景勝が信濃在陣の小倉伊勢守・千坂対馬守に宛てた書状(上越市史別編2332で、景勝が、下線部外様之者共との連絡に力を注いでいることが明確にわかる(池上 1998,p.11 )。
 外様之者共は飯山城周辺の在地領主のことで、西堀氏は外様十人衆に列す。
 次がその書状。
 
     「芋川・外様之者共へ書中遣之候、被相届尤候、重而安田弥九郎・新保源六差越候間、如何共両地被相擬肝要候、人不宵ニ不依抽粉骨於有一動者、存分之儀可為望次第之條、此旨何も被申聞尤候、珎儀之一左右待入候、謹言、」
 
 45日、芋川は一揆し反森に蜂起する。
 『信長公記』によれば、8千もの一揆であった。一揆は織田勢によって7日には鎮圧され、2450余とも3000余とも記される首が信長のもとに送られる殺戮が行われた。
 
 小境城周辺に迫る危機も、同じであろう。
 西堀氏が景勝に依り、反信長で周辺民衆と一揆することにより、景勝からの人員の提供は無くとも、この小境城の郭に比して恐ろしいまでの長大・厳重な堀構造を構築することは可能であったかもしれない。堀ク下端が堀オ・ケに接していないのは、接続口を隠す意図もあったと考えるが、突如勃発した本能寺の変により森が北信より逃走したため、普請を中断したゆえかもしれない。
 調べが至っていないが、会津に移った西堀氏が米沢で続いていれば、菩提寺がわかるかもしれない。真宗であれば、仏敵信長に降らなかった理由ともなろう。後の課題としたい。
 
 登り口に所在する弥勒寺は、曹洞宗寺院であるが、城との伝承は伝わっていない。
 弥勒寺脇からの林道は、昨年主郭到達以前にも幾度も訪れているが、刈られていたことが無く、回数を覚えられないほど断念した。降雪時、雪消時の両前後1週間程度が限られた踏査可能時期となろう。主郭後背の堀オは、降りたら登ることは難しいかもしれず、また斜面や尾根では雑木が下を向き待ち構えている。冒頭でも書いたが、この城は、藪、傾斜きつく、踏査は困難を極め、危険である。それなりの覚悟と装備、天候・季節・クーさん状況をリサーチのうえ、危険を感じたら撤退する意思をもって臨んでください。
 
 末筆ながら、縄張図を提供、森進駐時の可能性を指摘いただいたらんまるさんに、特別なる感謝を申し上げる。
                                                         えいき
  参考文献
 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
 池上裕子(1998)「戦国期北信の武士と上杉氏の支配」、『市史研究ながの』五号
  上越市史別編2