戦国期上杉圏の特徴的な普請シリーズ
入河沢城記事作成(https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/19122044.html)を機に、上杉圏に見られる逆四角錐台形に掘り込まれた虎口を、私の画像コレクションから特集します。
上杉圏には逆四角錐台形の他に、鍵穴型や直方体に掘り込まれた虎口もあります。
虎口は、城や郭の出入口であり、重要な防御施設です。同じ城内でも形態が異なる虎口が採用され、その出入口の役割や機能によって、虎口形態が異なって構築されたと考えます。
城の大手筋に設けられた虎口は、防御施設という機能のみならず、表玄関としての役割もあり、城や在城主の格を示す意図ももって構えられたと考えます。
逆四角錐台形虎口は、遠藤公洋先生の命名で、『長野の山城ベスト50を歩く』「鞍骨城」(p79)と「鴨ヶ岳城」(p.36)で、上杉勢力下の越後・信濃にその構造を見出し、北信では鞍骨城、野尻城、鴨ヶ岳城での構築例を明記されています。
遠藤先生の他の研究論文では、天正6年~10年頃に出現としています。
しかし、能登、越中、越後、北信濃と天正期上杉の城郭構造をテーマにインターネット記事を綴ってきた私は、能登の上杉方城郭(https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/folder/509686.html)に逆四角錐台形虎口構造は見いだせず、能登を越後上杉が勢力圏としたのは天正4年12月から天正7年9月に限定できること、また中野以南の北信濃を越後上杉が勢力圏としたのは第三次川中島合戦が起きた弘治3年以前と、本能寺の変以が起きた天正10年以降に限定できることから、天正10年頃を目安に出現し、本能寺の変後北信に進出していく過程や、新発田重家の乱鎮圧を経て越後の領域支配を進める過程で上杉圏に構築された構造と捉えていました。
これらの構造の構築主体は、築城主体が景勝政権中枢を担う高級直臣(上田衆)や、景勝により編成された派遣軍など、景勝に近い主体によって構築された城郭にみることができる構造であり、土豪階層主体となって独自に構築する構造ではないとも捉えていました。
では逆四角錐台形虎口のコレクション、いきましょう。
まずは『長野の山城ベスト50を歩く』明記の北信鞍骨城から。
同書では『景勝一代記』から、景勝が山城守其外三十騎を率いてくらかけ山へ御あかり、関東勢を御覧被成と引用し、景勝在陣を示唆している。
掘りこみに限定されて入った攻城兵に、より多数の城兵の迎撃が、三方から集中する。
逆四角錐台形は、城によって奥深さに相違がある。
鴨ヶ岳城
開口外から
野尻城
(『長野の山城ベスト50を歩く』では、近隣土橋城を野尻新城としているが、私は同書で野尻城としているこの城を野尻新城とした)本記事中では野尻城とする。
開口外から
野尻島(野尻城)も武田により攻め落とされているが、上杉方に取り返されている。
【史料1】 色部修理進宛上杉輝虎書状「(前略)野尻島敵乗取候処ニ、不移時日取返候(後略)」(上越市史別編560号)
【史料2】 蘆名氏家老鵜浦氏宛信玄書状「去頃野尻落去、城主已下数輩討取、至鵜于越国乱入、処々郷村撃砕、則越信之境、差置人数」(『戦武』1260号)
この野尻争奪は、研究者によって年代比定が異なる。
宮坂武雄は【史料1】を永禄7年(宮坂 2014,p66)。
遠藤公洋と上越市史は【史料1】を永禄10年(遠藤 2011,p277)。
柴辻俊六は【史料2】ほか情勢から永禄11年(柴辻 2011,pp15-19)に比定している。
国境を荒らしまわれた上杉方は、旧来の野尻島では抗しきれないと考え、永禄10年から12年の間に野尻湖畔に新たな新城を取り立てている。
【史料3】直江大和守ほか宛上杉輝虎書状「(前略)其内信州口堅固之仕置簡心候、飯山・市川・野尻新地用心目付油断有間地敷候(後略)」(上越市史別編799号)
【史料3】の野尻新地をこの城と考える。(長野の山城ベスト50をあるくでは土橋城)
この城の逆四角錐台形の構築は、永禄後期の可能性もあるが、囲い込み構造とともに、天正10年以降景勝勢の進出に伴い、構築された可能性もある。私は後者と捉えている。
長野の山城に記載がないが、竹の城、桝形城など、景勝勢による頑強な構築・改修が推定できる城にも見ることができる。
竹の城
ここは凄い。
外から
導線に石を用いた段差。
さらに下層の郭3にも重ねているのではないか。
郭3虎口
石使い。
頑強な虎口構造。
善光寺背後に築かれた桝形城
武田説もあるが、この虎口から、天正期景勝勢の改修も考えられよう。
若槻山城
屈曲を伴う強固な構造。
このように、奥行きの長さに差はあれど、逆四角錐台形に掘り込んだ虎口は、天正10年以降、北信に進出した景勝勢による改修が考えらる。
しかも、この構造が構えられている城は、景勝期に北信に環住あるいは復帰した旧信濃国人が居城とした城ではない(鴨ヶ岳城は高梨氏の旧本城であるが、天正期には安源寺城に入った)。
鞍骨城の構築から、私は、景勝自身が在城(在陣)する(可能性のある)城にのみ構築された虎口構造と考えていた。
上杉当主の格式を示す構造と…。
では、越後を見ていきましょう。
まずは頸城郡内から
※米山寺城の虎口は、遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」,p.13では、直方体虎口としているが、川西克造・三島正之・中井均編(2013)『長野の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版,p.36では逆四角錐台形の典型としている。
米山寺城には箱掘、横堀も構築されています。御館の乱の際、景虎方憲政家臣篠宮が居たとされます。
私は、米山寺城は、御館の乱後に再興を許された柿崎千熊丸(憲家)に差添えられた景勝旗本の片桐内匠助により、景勝権力が柿崎領内に介入し、改修したと考えています。
外から
鳥坂城
この城も御館の乱の際は景虎方でした。
信濃飯山、牟礼から主要街道が集まるこの鳥坂城は、信濃から侵入する敵に対し、越後防衛の要となる城である。天正10年、越後に迫る織田の侵攻に備え、景勝は南部に大規模な箱掘りを構築し(新城)、織田勢の鉄砲戦闘に備えたと考えています。この虎口構築もその頃の改修ではないでしょうか。
越後中郡 大面城
外から
護摩堂城
下から
ここまで掲載した逆四角錐台形虎口のある越後の城は、いずれも天正6年に想起した御館の乱の際、景虎方であった城です。
景虎方の城にみられることから、ブログを書き始めた当初、景虎方の城のほうが景勝方よりも先進的な構造なんだ、と思っていました。
憲政の流れによる技術指導もあったのかとも思いました。
しかし、研究論文を読みつつ城を歩くうち、これらは、御館の乱後に景勝側近上田衆など景勝政権中枢の意を受けた者が入り、景勝政権の領域支配を固める過程で構築された構造と考えるようになりました。
次の雷城は、謙信期も会津蘆名との国境近くに位置し、国外勢力の越後侵入に備え、謙信期・景勝期とも強化された城です。
永禄十二年四月、本庄の乱に呼応し、蘆名勢は菅名口を荒らしました。
この時、輝虎は栗林次郎左衛門尉を凶徒退治に差し遣わしています。(上越市史別編722)
栗林の改修も考えられますが、近似する年代以降である永禄末から元亀以降に栗林が謙信の命を受け志久見口に構築した(上越市史別編1432)と考える城坂城には、逆四角錐台形・屈曲登路は見られないことから、雷城の逆四角錐台形、屈曲登路は、天正15年まで続く蘆名と組んだ新発田重家の反乱に対し改修されたものと考えます。
雷城主郭虎口
この虎口は、屈曲登路の上に構えられています。
屈曲登路セットになった虎口
雷城には、もう一箇所、南麓夏針のトンタテから主城域に入る箇所に逆四角錐台形虎口が在る。
謙信後期ー景勝期に対織田戦線となった越中
越中は上杉にとって最も熾烈な戦線であり、私は上杉の城郭普請能力は越中において進化したと考えています。
最新鋭の城郭構造・防御施設が常に求められ、強化されたと考えます。織豊勢力とのせめぎ合いの中で、城郭構造にも影響を受けた可能性もあるのではないでしょうか。
樫ノ木城
樫ノ木城は、元亀元年(1570)8月10日越中に在陣している村上源五に宛てた上杉政虎書状で、飛騨の三木良頼に軍役として相守るべき旨、申すよう伝えています。
「樫木出城之儀、良頼為軍役可相守之旨、可被申含候、越中可半可属謙信之方、…後略」(上越市史別編924・謙信呼称年代に検討の余地がある)
また、天正元年(1573)樫ノ木城の城将と伝わる村田秀頼に大田上郷の料所取扱いを命じています。
「今度改而、太田之上郷吾分ニ為料所申付候、(後略)」(上越市史別編1176)
同日、河田長親に大田下郷の料所取扱いを命じている。(上越市史別編1175)
ここででてくる太田保の上郷・下郷は、もともと室町幕府体制では細川家領であり、椎名被官神前筑前の預かり地となっていたものを謙信が自領化し料所(直轄地)としたもので、料所の扱いを側近で越中在陣衆のリーダー的な地位にあった河田長親と、旗本・村田秀頼に命じたわけです。
つまり、樫ノ木城は、越中中央部謙信直轄地太田保を掌握する謙信直轄の城と考えます。
太田保の私領化と、神保父子の内紛は、織田信長に越中進出の名義を与えることになり、謙信死後の天正6年9月、信長は庇護していた細川昭元と神保長住を担ぎ、斎藤新五を将として軍勢を越中へ派兵します。そして10月4日、太田保津毛城前月岡野で河田等上杉軍と合戦に及び、敵首(上杉方)360を討ち取っています。(信長公記)
この敗戦で、上杉勢は魚津城ー松倉城まで後退することになります。
天正元年~6年までの間に枡形や要害部を区画する横堀など、上杉にとっては最新鋭の改修をしたのではないでしょうか。樫ノ木城がこれら構造の嚆矢に思える。
形状は、藪のためで鍵穴か逆四角錐台形か不明瞭だが、掘り込まれた虎口空間を確保しています。
越中に進駐していた栖吉衆を中核とする部隊が、天正4年9月以降に築城、臼ヶ峰越えで能登に抜ける街道を掌握、能登を志向しました。
郭内から
中村山城は、藪も熾烈だった
井田主馬ヶ城
近隣城生城の斎藤氏は上杉氏に属し、後一時織田方に属したが、天正9年秋以降景勝に附き織田方と抗戦している(11年落城)。
この虎口は、あるいは逆四角錐台形の進化であるかもしれない。
あるいは増山城主郭虎口も上杉逆四角錐台形虎口の進化か。
増山城は、後に佐々、前田の城としても機能するが、謙信期の天正年間、謙信旗本吉江宗信が在城し、富山県西部における上杉方最大の拠点城として機能した。上杉勢は謙信死後も天正9年5月まで同城を維持しています。
井田主馬、増山城とも、桝形虎口脇に櫓台を備える堅固な構造であるが、織豊であれば、張出し折れを伴うが、そういった構造ではありません。
まとめにかえて、いちおう愚考の途中の整理
逆四角錐台形虎口は、謙信期天正年間(6年まで)に謙信直営の越中樫ノ木城において構築され、上杉にとって熾烈な対上方織田勢北陸戦線(越中)において、上杉権力において重要な城に構築されたと考えていました。謙信期天正年間頸城郡内は、戦争の心配はなく、新たな城の取り立てや改修は必要なかったことと考えています。
越後国内の国境境目以外の城は、天正6年3月の謙信の死によって想起した御館の乱によって、越後国内が戦乱の最中となったことにより、景勝権力中枢、景虎権力中枢、国人、城下人、それぞれが拠る城がそれぞれによって改修されたと考えています。
私は、これまで、越後国内の逆四角錐台形虎口が構えられた城の格、それに北信濃においてそれが構築された城の時期と機能から、逆四角錐台形虎口は天正10年頃を目安に出現し、本能寺の変後北信に進出していく過程や、新発田重家の乱鎮圧を経て越後の領域支配を進める過程で上杉圏に構築された構造と捉えていました。
これらの構造の構築主体は、築城主体が景勝政権中枢を担う高級直臣(上田衆)や、景勝により編成された派遣軍など、景勝に近い主体によって構築された城郭にみることができる構造であり、土豪階層主体となって独自に構築する構造ではないとも捉えていました。
入河沢城逆四角錐台形虎口
それが、天正6年の御館の乱での土豪層の戦闘を伝えるこの入河沢城に構築されているということが、私にとって大きな衝撃であり、私が温めていた説は、崩壊してしまいました。
とすれば、逆四角錐台形の桝形虎口は、天正期に上杉最新鋭として開発され、謙信・景勝中枢に近い城に構築された構造ではなく、永禄以前から山内上杉圏内にあった比企型虎口をルーツとし、越後では、ありふれ構造という線も考える必要があります。
もしくは、入河沢城が、謙信・景勝中枢に近い城であったか…。
上杉の虎口に関する私の記述は、愚考途中のあーだこーだです。
今後の修学を深め、さらにあーだこーだする可能性があります。
参考文献は、各城の記事末に載せてあります。
平成29年7月 追補
自説に固執 逆四角錐台形にほりこまれた虎口https://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/19266572.html