亀山城追補 主郭西虎口ー西曲輪北虎口ー北麓導線・日近城追補 | えいきの修学旅行(令和編)

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奥平圏の亀山城、日近城に関し、以下の内容を追補します。
 
○亀山城 主郭西虎口ー西曲輪北虎口ー北麓導線を考察。
 
○2016年12月公開の日近城2 大手虎口D (日近城2記事書き改め)

 
 亀山城 主郭西虎口ー西曲輪北虎口-北麓導線
 
 北麓から(破線現況不明推測)北虎口をへて主郭西虎口へ至る導線を、2017年1月に作手山城案内人原田先生に御案内いただき検討してきました。
 
現地設置縄張図をブログ説明用に加筆し引用します。
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 北麓から入ったルートは、竪土塁に抱かれるように左に折れながら西曲輪北西下から腰曲輪に入り、右折れ、北虎口から馬出機能の西郭を経て主郭南西土塁墨隅にあたり、主郭西虎口へと入る。
西郭は主郭虎口を守る馬出機能を有し、北西塁線は土塁を備え、櫓状直下に折れから腰郭へ入る導線を監視している。さらに主郭南西土塁隅が、主郭西虎口に至る導線に対し張出し、迎撃。当たり折れ入る構造になっている。
 これは、天正3年以前の奥平・武田圏下の構造ではありえず、天正3年以降、徳川圏下に大土塁とともに設定された先進的ルート構造と考える。
 
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北麓破線付近
現況では導線は不明。
 
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北麓から入ったルートは、竪土塁に抱かれるように左にカーブしながら西曲輪北西下から腰曲輪に向かう。
竪土塁構築とセットになった導線構造である。
 
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近世城郭の櫓を思わせる西曲輪北西塁線直下に当り、折れ腰曲輪へ
 
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西曲輪北西塁線直下
 
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腰曲輪端へ入る
 
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腰曲輪端へ突入する時は、竪土塁上から背に後矢が掛かる
二本の竪土塁の間は、格好の武者隠しにもなる。
 
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西曲輪北西塁線は、直下に完全監視
 
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書き込みなし
 
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 腰曲輪端に上がったルートは、右折れし、西腰郭と主郭の間を主郭南西土塁隅に当たり、左折れ、西虎口から主郭へ入る
 
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主郭西虎口
虎口というより城門である。
 
 これらルート設定とルートに備えた防御構造は、天正3年以前の奥平・武田圏下の構造では有りえず、天正3年以降、徳川圏下に竪土塁とともにルートが設定され構築されたと私は考える。
 竪土塁の運用と合わせ、日近城と亀山城が、奥平信昌が新城へ移った後に徳川圏下において改修を受けたこと示すと考えている。
 
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作手山城路案内人原田純一先生(左)と、わたし
 
 また、2015作成の亀山城2では、二本の竪土塁のうち一本が藪で不明瞭でした。二本とも明瞭な写真を撮影できましたので、以下の写真を同記事中に差し替え・加えました。
 
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二本の大竪土塁に挟まれた下方には井戸の跡がある。
二本の竪土塁は井戸を守り、右側の竪土塁は、北麓からのルートを限定する機能を持つと考える。
土塁間の堀は、井戸と腰曲輪をつなぐ通路でもあり
、北麓からルートを進む敵に備える武者隠しにもなる。
 
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井戸の痕跡
 
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下方、井戸跡付近から
井戸から上方は西曲輪南西下の腰曲輪に接続する。
 

 
日近城大手虎口Dは、2016作成の日近城2記事を書き改めました。
                 
日近城大手虎口D
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大手虎口D(2017年1月に再訪撮影追補)
以下、高田徹さんの解釈を引用する。
     
     「南方の麓方面から直進したルートが、丁度石積部分で90度折れ、左方(写真右側)へ導かれる。折れを伴いながらも、虎口空間を確保するに至らず、道幅分を確保するに留まる。但し、この石積を設けることで明確な折れを伴う虎口を意識し、それを造り出すことに成功している」(高田 1995,p.67)。
 
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書き込みなし
 
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導線から枡形様空間
 
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石積 
以下高田さんの観察記述を引用。
 
     「石積はおよそ3段積まれ、長辺(40~50cm)部分を表とし、奥行きを30cm程と する石材を積み上げている。石材は長辺を水平上とし、各端部に上方に置く石材が掛かるように積んでいる。現存の石積上端と曲輪面とほぼ同レベルであることから、元々2,3段の石積であった可能性が高い。」(高田 1995,p.67)。
 
  一見、竪堀にみえる構造の上端で折れ昇降できる構造は、清水城、大給城でも私の心に掛かり、徳川影響下を示唆するのではないかと考えていた。
 
参考文献  
高田徹(1995)「日近城の石積遺構」、『愛城研報告』、2、愛知中世城郭研究会