日近城2(愛知県岡崎市桜形町) | えいきの修学旅行(令和編)

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日近城
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日近奥平氏の動向、登り口は日近城1をご覧ください。
日近城1 日近奥平氏の動向 https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496900833.html
 
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日近城は、随所に石積がみられ、虎口の妙が映える城である。また、名倉・作手共通の構造の他、名倉奥平圏には見られず、作手で見られる大土塁、堀切通路が構築されており、作手の城の構築者と時期を考えるうえで重要と捉える。
記事中の郭・堀・地点名称は高田徹日近城概要図(『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版)に準拠します。
 
  記事構成
○まず大手虎口D(2017.2追補)付近の、主郭切岸、大土塁Fが一体となった防御構造。
○次いで、東から北に巡るJ-K-L-Mの横堀・犬走り防御ライン。
○ルートを辿りながら、主郭へ向かいます。西尾根の虎口の妙を堪能下さい。
○日近城主郭。
  
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まず大手虎口D付近の、主郭切岸、大土塁Fが一体となった防御構造。
                                                                                                           
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主郭南塁線土塁から虎口D付近
 
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大土塁F上から
 
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大手虎口D(2017年1月に再訪撮影、以下4枚追補)
高田の解釈を引用します。「南方の麓方面から直進したルートが、丁度石積部分で90度折れ、左方(写真右側)へ導かれる。折れを伴いながらも、虎口空間を確保するに至らず、道幅分を確保するに留まる。但し、この石積を設けることで明確な折れを伴う虎口を意識し、それを造り出すことに成功している」(高田 1995,p.67)。
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書き込みなし
 
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導線から枡形様空間
 
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石積
高田の観察を引用
「石積はおよそ3段積まれ、長辺(40~50cm)部分を表とし、奥行きを30cmほど する石材を積み上げている。石材は長辺を水平上とし、各端部に上方に置く石材が かるように積んでいる。現存の石積上端と曲輪面とほぼ同レベルであることから、 2,3段の石積であった可能性が高い。」(高田 1995,p.67)。
 
 一見、竪堀にみえる構造の上端で折れ昇降できる構造は、清水城、大給城でも私の心に掛かり、徳川影響下を示唆するのではないかと考えた。
 
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郭Ⅴ虎口D付近
虎口Dから郭Ⅴに入った付近は、主郭から東に張出し突出した東部と南塁線から頭上監視を受ける。その主郭辺縁には土塁が備わる。
郭Ⅴから東には大土塁Fが伸び、進行・見通しを阻害し、虎口Dを監視する。
大土塁Fと主郭との間は堀切Hが断つ。
この大土塁、堀切、という構造は、名倉圏には無いが、作手と日近に見ることができる構造である。大土塁は賽之神城、古宮城、亀山城。堀切は賽之神城。
 
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主郭南壁面には大石、石積が見られる
塁線上は土塁(後述)。
主郭へのルートはこの背方向ですが、大土塁F、堀切H、東から北の横堀防御ラインを辿ってきます。
 
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石積
 
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堀切H
大土塁Fと主郭を断っている。
遮断や郭を区切る堀切は、一連の名倉・作手の城では見なかった。この堀切は、大土塁伝いの郭主郭への進入を阻止するための堀切であるだけではなく、東から北へ巡らす横堀防御ラインへの通路であろう(高田.2010,p.160)。同様の構造は河尻城にもある。また賽之神城の堀イ・ウも私は遮断堀切ではなく、通路としての堀と考えている。
 
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大土塁F
名倉圏、また武田の竪土塁とはスケールが異なる。
同様の構造は、亀山城、賽之神城(古宮城はさらにでかい)にみることができる。
おっともう私の推論の核心に入っている。
 
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大土塁Fの南東は堀切G
高田は「堀切Gは大土塁Fとセットになって、尾根続きからの侵入を遮断している」(高田 2010.p.159)
 
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大土塁F上端
主郭と分断する堀切H。
段差を設けた通路でもある。
 

 
主郭の東から北に巡る横堀ー犬走りによるJ-K-L-M防御ライン
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鳥瞰図の主郭背面にある
 
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堀切Hを北へ出ると横堀J
横堀形状、高田は約4mの幅を測り、信濃の武田横堀と雰囲気を異にする。
北に向かって犬走り状に降る。
 
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犬走り形状から、Kで小横堀形状
 
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振り返り、Kから犬走り形状、L、Hを見る
 
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Kから西に南防御ライン
犬走り状
 
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再度Lで横堀状となる
 
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このあたりにも石垣とも呼べそうな石積がみられ、堅固な補強がされている。
 
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Lの西はMで、高田は「小規模な尾根を削ぎ落した、切岸のライン」としている。
小規模の尾根も、元々あった石の利用だと思うが、堅固な様相である。
 
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竪堀状の先に切岸ラインM
 
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切岸ラインM
Hから東ー北面の一筆の防御ラインが構築されていることになる。
 
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城門を彷彿させるかのような石積
賽之神城でも感じたが、石積で補強された土塁というよりも石塁、いや石垣に近いのではないか。
城戸でもあったのかと考えたが、尾根伝いルートの存在は確認できなかった。
 

       
虎口Dから主郭方向・西尾根ルートとの合流点へ
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虎口D入って郭Ⅴを左(西)へ
主郭塁線上からの後・横矢が掛かりながら、主郭南隅下を回り西尾根ルートとの合流点へ向かう。
 
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主郭南隅下
このあたりから帯郭通路状
 
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通路右、主郭切岸直下基底部に石積が見られる
ここに城戸があってもいい。
 
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基底部石積
高田は「切岸直下のラインを整えることで、導線部分のエッジを決め、主郭側の切岸をより強化する役割を担っているものと考える」
(高田 1995,p.67)と評価している。また石材は花崗岩で、城跡西尾根、広祥院本堂裏に同様の石材の露出を確認し、日近城の石積は城郭周辺地からの供給と推定している(同,p.69)。
 
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上方は自然石?
私は垂直に近い壁面を維持するため、石を用いて造作していると考える。
 
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西尾根から虎口Cに入ったルートが合流する。
虎口Cは城戸が連続し、さらに虎口Bに連結する虎口で、この城の虎口の妙が映える箇所である。
 
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虎口C上部、西尾根ルートが合流
虎口の妙を体感するため、西尾根ルートを辿ってきましょう。
 

          
広祥院背後からの西尾根ルート
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郭Ⅳ側面監視下の導線
虎口は高田図、鳥瞰図とも虎口名なし。
 
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虎口
郭Ⅳには入らず、郭Ⅲ壁下に当たり、右折れ。
虎口周辺、石による構築を思わせる痕跡あり。
 
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うにょ、っと右折れ
両脇、石を用いた堅固な虎口があったのではないか。
私は、さらにその先も石を用いた城戸構造を想定。
 
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郭Ⅳ側から
織豊の屈曲ではないが、石を用い折れた先の城戸は、奥平圏で発達した虎口の工夫と考える。
郭Ⅳから背を射ることができる。
 
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その先も石垣様の城門があったのではないか。
城門が連続していれば、かなり高度な構造であるが、私はそう観た。
日近奥平の大手はこちらではないか。
 
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ブログの容量が心配…
 
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二重城戸?、虎口、郭Ⅳを振り返る
 
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進みます
左、郭3監視下の導線。
 
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左にカーブし、虎口C
 
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虎口Cも城戸を連続させる虎口と観た
郭Ⅲは経由しない。
上方の小スペースが監視・迎撃可能だが、孤立している。
虎口Cの上城戸・下城戸はえいき命名。
 
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上方から虎口C下城戸
石により枡形を造っているが、やはり、張出に当てて入れる織豊の構造ではない。
右に郭Ⅲ。
ルートは左に進む。
 
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郭Ⅲ
 
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下城戸から上城戸へ連続する
 
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大石、石積で両脇を固めた虎口C上城戸
 
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郭Ⅲから虎口C
下城戸、上城戸が連続する虎口。
奥平独自の虎口の妙であろう。
 
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上方から上城戸
 
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上城戸を抜けると、先述の大手虎口D-郭Ⅴを経由する大手ルートと合流する。
虎口Dから郭Ⅴを経由する大手ルートは、日近奥平のルートではなく、後の時代の改修による設定と考える。
 

            
いよいよ日近城主郭へ
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虎口B付近
(高田がどの構造を虎口Bと指すのか読み取れなかった。この導線自体、矢印部郭へ入る地点、あるいは私が虎口C上城戸とした構造を指すのかもしれない)
郭Ⅱ監視下の導線を進み、遊歩道は主郭Ⅰへ直進するが、高田は→部で右折れ、郭Ⅱを経由するルートを提唱している(高田 2010,p.158)。
 
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主郭手前で右折れ
 
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郭Ⅱを経由し,左折れ、虎口Aから主郭に入る。
郭を経る導線が出現。
虎口Aに向かう導線は主郭からの横矢を受ける。
そして郭と郭が虎口で接続する。
郭Ⅱは南西に突出する形状で、その南東塁線は土塁を備え、下方大手通路に備えている
 
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塁線土塁は石積補強がされ強固である
 
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塁線土塁は下は虎口Dから入った郭Ⅴ・大手ルートを頭上監視。塁線土塁は監視・迎撃に必要な高さを切岸高と合わせ維持するための構築であろう。
 
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虎口Aから主郭へ
郭Ⅱ経ることにより直角に二折れの導線が造られている。今まで見てきた奥平の虎口構造とは異なる。

主郭も郭Ⅱから延伸する塁線土塁が東から北面に備わる。

 
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日近城主郭
西面には塁線土塁はない。
 
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東塁線土塁
 
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(城内最初の写真を再掲)
下方、大手虎口D、郭Ⅴ、大手ルートに対する監視・射撃射掛けのため、土塁は必要であろう。
 
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虎口A内から郭Ⅱ
南西に突出し、大手ルートと、西尾根ルートが合流し主郭へ向かう導線に対し、監視・迎撃を行う。
上写真から進む大手ルートに沿って塁線土塁が備わっている。
 
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西面は横堀Lから切岸壁Mに折れる上方部のみ土塁の痕跡があるのみで、他は塁線に土塁はない。
J-K-L-Mと主郭の東ー北ー西下方に構築された防御ラインに対する監視・迎撃機能のため、壁の傾斜・高さを考慮し、土塁は不要と考えたのだろう。賽之神城の土塁の無い辺縁と同様に解釈できる。
 
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下方防御ライン
土塁が無くとも、監視・射撃射掛けが有効。
 
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北突出部から東面、郭Ⅱまで塁線土塁が備わる
 
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北から東突出部をみる
 
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下方防御ラインに対し監視・射撃・射掛けるうえで、土塁が必要と考えたのだろう。
 
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東突出部
幾何学的な塁線形状に古宮城を想う。
 
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東突出下に大土塁Fと遮断する通路堀切H
監視・攻撃機能のための高さを保持するため、土塁が設けられたのだろう。
 
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大土塁F
東突出部は大手虎口Dから入った者を、大土塁Fアームで包み、監視迎撃する櫓機能でもあろう。
 
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このように突出している
 
 まとめ
 
 はじめに書いたことだが、日近城は、随所に石積がみられることと、虎口の妙が映える城である。また、名倉・作手共通の構造の他、名倉奥平圏には見られず、作手で見られる大土塁、堀切通路が構築されており、作手の城の構築者と時期を考えるうえで重要と捉える。
 
 石積を用い、重要地点の虎口や壁面を強化する普請は、奥平共通の指向と技術であり、郭を経ない西尾根からのルートが奥平の大手ルートと考える。そこには武田、同時期の徳川にはない奥平独自の城戸の連続や開口部・折れなど、虎口の工夫がされている。
 南麓方向大手虎口Dから、郭Ⅴを経るルートは、大土塁F・堀切Hとともに後の改修による構築と考える。郭Ⅱから主郭Ⅰへ至る導線も、郭を経る導線であり、そして郭と郭が虎口で接続している構造は、後の改修と考える。
 J-K-L-Mに至る一筆の横堀・犬走り防御ラインの構築も、後の改修による構築と考える。
 
 高田は「日近城は作手奥平氏、あるいは上位権力である徳川氏により築城(改修)されたと考えるのが妥当であろう」(高田 2010,p.160)としている。
 
 私が後の改修と考えた構造は、天正元年作手奥平氏の分裂・定能信昌の武田離範以降、同14年家康上洛までの間に、徳川権力によって徳川領国岡崎防衛(岡崎衆と武田の繋がり、あるいは武田または後の豊臣方による侵攻)構想のもとで構築された構造と考えている。
 そのへんの昨年の「作手へ」シリーズから今年の名倉・作手・日近奥平圏とその周辺を踏み歩いた私のあーだこーだは、奥平領国の城達のまとめとして書くことにする。
 (年明けになると思います)
 

参考文献  
高田徹(1995)「日近城の石積遺構」、『愛城研報告』、2、愛知中世城郭研究会
高田徹(2010)「日近城」、愛知中世城郭研究会・中井均編、『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版、pp.158-61