日近城1 日近奥平氏の動向 | えいきの修学旅行(令和編)

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  日近奥平圏に移ります。
 
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日近奥平の位置を確認。
 先述の名倉奥平氏は、美濃・信濃・三河に接し、織田・武田勢力圏の境目に位置する。日近奥平氏は三河岡崎に近く、奥平にとっては徳川との境目に位置する。
 
 日近奥平氏に関して、鍬塚城記事中に高田徹著述を引用させていただきました。
 
 以下に、柴裕之(2014)「三河国衆奥平氏の動向と態様」,『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』より日近奥平氏の動向を要約し追加します。
 
 奥平貞昌の弟貞友は、今川義元の時代の天文16年8月24日付け今川義元判物写(『松平奥平家文書写』戦今1141)によると、今川方として作手奥平定能と共に医王山砦を攻略し、拠点を日近に移している。そして日近奥平貞友は義元に謀反を企てたようだ。 永禄4年4月以降、松平(徳川)氏と今川氏との抗争が本格化した際、作手奥平氏は今川方であったが、日近奥平氏は徳川方に属していた。
 永禄7年2月以前、作手奥平氏は徳川氏へ従属するが、同年同月の松平家康判物写によると「日近、如近年其方方可為家中事」とあり、徳川方に従属していた日近奥平氏を家中として統制するようになった。
 元亀三年、奥平氏は武田方に従属するが、その際、日近奥平氏の娘おふうは奥平定能の子千代丸(仙丸)とともに武田方へ人質として送られた。
 天正元年8月、奥平定能・信昌は、三河牛久保領の領有を調停できなかった武田から離反し、徳川方へと移る。作手奥平氏は定能の父道紋(定勝)は武田方に残り分裂した。
 名倉奥平信友も徳川方へ転じる。徳川方とはいっても、背景には織田信長の意向がつよく、信長の意を受けた織田・徳川方への従属とみるべきである。
 日近衆の動向はわからないが、武田方に送られていた仙丸とおふうが同年9月21日に鳳来寺にて処刑されていることから、日近奥平衆も定能・信昌と共に織田・徳川方へ転じたものと考える(これは私)。
 長篠・設楽ヶ原合戦後、作手の武田方は駆逐され、奥平信昌は作手領の他に山家三方衆の領域であった奥三河地域、さらに三河国吉良・田原、旧来からの遠江での知行地を支配する(柴 2014,pp.235-62)。
        
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日近奥平の郷
(奥平貞友隠居屋敷と伝わる瑞屋敷から)
 
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桜形駐在所の背後一帯は「オヤシキ」と呼ばれる。
高田徹は日近奥平氏の屋敷と比定している。
 
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日近城の麓
広祥院 ここhttp://yahoo.jp/kM-kXJ
 
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広祥院後背に日近城
 
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瑞屋敷
奥平貞友隠居屋敷と伝わる。
左、西尾根から日近城へ、中央から大手に至る。
右におふうのお墓。
 
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西尾根から郭Ⅳへ至る
 
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大手虎口へ至る
 
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そして、おふうの墓
 
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左がおふう、中央がおふうの祖母貞子、右が仙千代の墓と伝わる。
 天正元年9月、鳳来寺口で処刑になった後、説明板によると、「乳母と柳田専念寺の僧永順と百姓助左衛門はひそかに三人の首を奪って、おふうを生地であるこの地に葬った。」
 
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上方に日近城
 
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日近城鳥瞰図
(岡崎市教育委員会設置説明板より)
城の様子は稿をあらためます。
 
参考文献 
高田徹「日近城」、愛知中世城郭研究会・中井均編(2010)『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版、pp.158-61
柴裕之(2014)「三河国衆奥平氏の動向と態様」,『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』、岩田書院