若宮城まとめ | えいきの修学旅行(令和編)

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    まとめ
 
 若宮城記事は、主郭・小屋・外郭に加え尾根筋も5本辿ったので、膨大なブログ記事になってしまいました。
 しかし、2011当時よりも詳細に若宮城を紹介することできました。病気の方々の役には立てることと思います。
 その膨大な記事をまとめます。
 
 若宮城の尾根筋のうち、堀切による遮断が成されているのは、越後に向いた北西、東の尾根筋であり、東尾根筋の北下に沿って設けられた前面土塁を伴った堀と合わせて、越後勢の侵攻に備えた構造と考えます。大手南尾根、南西、南南西尾根筋は、武田圏に向いた方向であり、特段の防御構造は必要とされなかったのではないでしょうか。
 永禄期から天正6年まで、芋川領は武田方最前線でした。
 同時期の芋川氏の主城(要害)が鼻見城山であったとすれば、鼻見城山は芋川領内部にあり、領内への越後の軍勢による侵攻はもちろん、乱波による略奪・人捕りを防ぐには、境を固める必要があります。宮坂先生も永禄12224日の芋川右衛門尉宛武田晴信書状を挙げ、晴信が堺筋は無事であるか問い合わせる状況を示しています。
 若宮城は、まさに武田圏最前線芋川領の境を固める地に在ります。
 若宮城の越後に向かった構造は、同時期の武田圏の築城術と比較しても矛盾はなく、武田圏最前線境を固める要害として築かれたものでしょう。
 
 また、内小屋を内包し、外郭を囲うように、段丘壁、横堀、テラス構造を巡らせている構造は、信濃に向かった方向です。 
 天正10年の本能寺の変を契機に、越後上杉景勝が派遣した軍勢の一集団が、牟礼から長沼城を目指します。
 内小屋を内包し、外郭を囲うように、尾根沿いの土塁を伴う浅い堀、段丘壁、横堀、テラス構造を巡らせている構造で軍勢を収容するスペースを確保し、武田圏下では警戒を要しなかった南大手尾根、南西尾根、南南西尾根筋に手を加えた構築は、遠藤先生の天正10年上杉新地説に当てはまります。 
 
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現地設置縄張図(宮坂武男作図)にブログ説明用に加筆
 
  越後に向かった武田境普請を赤で囲い、信濃に向かった上杉新地普請を黒で囲った(赤黒反対の方が下地図と対比しやすいが、逆の色分けになるのでしない)。
 東尾根筋北の塁線構造を、遠藤先生は天正10年上杉構造としている。
しかし、芋川氏と共に対上杉最前線を張った市川氏平沢城横堀構造と比較して、武田の横堀構造と観ても不自然は無く、志向する方向から、私は武田構造とした。天正期の上杉勢によっても、外郭囲い込み構造の一環として、畝型や竪堀なども添えて利用されたことと考える。
 
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 若宮城の今に見る遺構は、通説である武田方芋川氏の要害説と、遠藤先生の上杉新地説と、どちらかが正しいというのではなく、境の要衝の城が、時代の情勢に応じて改修され機能したことを示していると考える。
 また、山頂から遥拝する斑尾山のみならず、若宮城自身の気高き山容は、気高く美しい信濃の国の山川草木に宿る霊性への信仰と、周辺地帯の鎮護を願う人々の祈りを合わせた象徴でもあったのではないだろうか。
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若宮城山頂からみる斑尾山
 
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若宮城の山容は、戦国最厳境目に屹立し、気高く美しくもある
戦国最厳甲越境目に在る若宮城は、中世の城の意義を考えるうえで、貴重な文化財といえよう。
 
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斑尾山麓から割ヶ岳城を望む
 若宮城から割ヶ岳城攻略へ向かう武田勢がみた景色と、そう変わらないのではないだろうか。
 そして、滅亡の淵から、運を開くべく善光寺平へと進む上杉景勝勢が背にした景色でもある。