『えいきの修学旅行』の初期、2011年に若宮城を書いている。しかし、大手散策路を歩きつつの紹介といった内容であった。
昨年末に2011年には踏み込まなかった尾根筋を踏み歩き撮影した遺構の写真を加え、改めて書いてみたい。
若宮城
若宮城は、甲越境目に近く、武田方最前線芋川氏の城と伝わる。
遠藤公洋は芋川氏の本拠を、若宮城ではなく、2kmほど南にある鼻見城と東麓の館跡付周辺としている(1)。
では、だれが…。
前編では概要と主郭、外郭を、後編では城内大手ルート他尾根普請を辿る二部構成で書き進めます。
若宮城は、武田方芋川氏の城と伝わり、そうであれば、市川氏の平沢城と並んで、上杉に対峙する武田方最前線城郭になる。
黒:上杉方 赤:武田方
紫:上杉方だが争奪有
対峙する上杉方割ヶ岳城は直線距離約2.5kmの至近に位置し、野尻城とともに武田により争奪があった激戦エリアである。
甲越争奪の情勢は、信濃最奥野尻路湖周辺をご覧ください。
また芋川領も2011年に書いたものがありますのでご覧ください。
現地設置鳥瞰図(作図 宮坂武男)
まずは城を統括する戦闘指揮所、山頂郭1(標高703.3m. 比高110m)。
屹立した山容に加え、尾根筋の遮断堀切の凄まじさが、戦国争乱最前線の戦闘指揮所の様相を現在に示す。
記事中の郭名、小屋名、測量値は宮坂武男に拠り(2)、ブログ説明用に白字で加筆し用いる。
主郭南壁下大堀切
南大堀切(郭2側)から主郭を見上げる
最前線に厳しく屹立する戦闘指揮所の様相である。
壁途中から主郭南下大堀切を見下ろす
主郭(郭1)
12×9mほどの方形上段と、それを数m南から東へ取り巻く広さでしかない。
まさに、戦闘指揮所である。
上段から
床几を据えた気分。
取り巻く下段
手すり部、大手尾根虎口(遊歩道)。
まさに戦闘指揮所の様相ではあるが、ひとつ提起したい。
方形上段から斑尾山の姿を望む。
周辺地帯が戦場であった戦国期は、戦闘指揮所だが、平時は、人々の信仰を集めた斑尾山の遥拝地だったのではないか(齋藤慎一 2016,講演『岩櫃城跡が語る戦国時代』をヒントにした)。
もう一度、上段方形区画
遥拝地説、いかが。
主郭塁線・壁には石積が見られる
西塁線
西壁面は石積。
西壁面石積補強
主郭後背北西面
後背のこのような厳しい尾根にも、三重堀切を設けている。
北西尾根鞍部三重堀切
北西を最も警戒している(後編で)。
小屋
白字はブログ説明用に加筆
尾根に挟まれた谷は小屋利用されたようで、井戸を備え、北小屋、字(城)、南小屋、舟竹小屋の地名が伝わる。
北小屋
恒常的な居住を目的とした削平ではないようだ。
字城
この谷は、広く、あるいは根小屋であった可能性もある。
字城井戸付近
2011撮影時には明瞭に水場が存在した
南小屋(南南西尾根から)
大手尾根と南南西尾根に挟まれ、他の小屋とは分断され、連携が悪い。
舟竹小屋上方
谷の小屋は、字城以外は削平も完璧ではなく、恒常的な居住区域とは考えられない。また、それぞれが尾根で分断され連携も悪く、機能的でもない。
戦時下の臨時の小屋掛け、物資の集積地、避難地としての利用であろう。
若宮城には、謙信・信玄の時代にしては異な構造が構築さている。
それは、先述の内小屋を内包し、外郭を囲うように、尾根沿いの土塁を伴う浅い堀、段丘壁、横堀、テラス構造を巡らせている構造(白囲い部)である。
遠藤公洋は、天正10年の織田勢の侵攻が契機となり築かれたとしている(3)。
上図右から時計回りに掲載する
東尾根北、前面に土塁を伴う堀
ただし、この東尾根北の構造に関しては、武田の横堀構造とも考えられないか。
西部
西端
竪堀となり降る。
私はここを落ちるように脱出した。
字城下の段丘壁
西園寺堀
2011年当時、武田の横堀と思っていたが、遠藤論文によると天正の上杉の構築。
北東端は竪堀となり終わる
西園寺堀線から南塁線は、土塁が無くテラス状に段丘壁に臨んでいる
南線段丘壁
南小屋下方付近段丘壁
また、遠藤先生は記述していないが、南南西尾根段丘壁よりも上方に、天正期上杉の防御施設と観た構造がある。
ここ
遠藤は、2004年(4)と2009年(5)に、緩斜面の設けられた塹壕状遺構(2009)は土塁を伴う浅い堀)と背後の切岸、切岸上に設けられた土塁を伴わない削平地がセットになったプランを天正期上杉の防御施設としている。
南南西尾根 切岸下に前面に土塁を備えた浅い堀
背面切岸上は土塁を伴わない削平段で、上下二段になった天正期上杉の防御施設と観た.
前面に土塁を備えた浅い堀
天正期上杉の射撃(弓・鉄砲)陣地と観る。
後方斜面上は土塁を備えない上段陣地
上段陣地から下段横堀陣地を見ると二段セットの構造。
天正10年卯月18日 吉江与太郎以下信越境派遣諸将に宛てた上杉景勝書状
「永々在陣、殊新地普請苦労心尽、別而下々労兵痛入候、」(上越市史別編2356)
遠藤は、この軍勢は、牟礼を根拠地に善光寺平をうかがう集団(国道18号ルート)なので、「新地普請」の場所は、信濃町から飯綱町経由で長野市に至る経路上のどこかであるとし、書状中にある信越境に普請された新地を、若宮城か若槻山城としている(6)。2013年には、それをこの若宮城に絞っている(7)。
現在の国道18,292号を赤線でなぞった。旧道は鳥坂城北麓で分岐する。景勝の派遣軍は、18号沿いに長沼城を目指した軍勢と、292号沿いに飯山城を目指した軍勢があった。
前編はここまで。
後編では、大手ルート伝いに城内へ入り、大手他尾根筋の構造を見て歩きます。
註
(1) 遠藤公洋(2013)「若宮城」、川西克造・三島正之・中井均編(2013)『長野の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版p.38
(2)宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版pp.37-9
(3)前掲註(1)p.40
(4)遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」
(5)遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」、『市誌研究ながの』、第16号p.33
(6)前掲註(5)p.46
(7)前掲註(1)p.40