奥平圏の城4 まとめにかえて | えいきの修学旅行(令和編)

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  まとめにかえて
  前稿 再掲
  奥平圏の戦国後期の動向と情勢を背景に、奥平圏の城の築城者は誰か、改修に影響をあたえた上位権力は誰なのかを、郭、虎口、土塁、横堀といった構造(パーツ)の比較を中心に、一年でしかないが私の修学旅行から考えたことを記してきた。
 
 遠江諏訪野原城の二の曲輪、二の曲輪北馬出・二の曲輪中馬出、主郭両袖枡形虎口は、徳川による構築であることが考古学的に証明された揺るがない基準になる。
 
 それ以外は私の現時点での知見からの、こうだろう、という考えでしかないが、今私はこのように考えている。
 
 ごちゃごちゃ書く前に、まずは表に簡潔に、そのこうだろうを示す。
(2019名倉3城の横堀は織田徳川圏下の構築と見解を改めました)
イメージ 1
 
 
 名倉奥田圏の城は、従来からの名倉奥平氏の城を、武田織田徳川(2019訂正)影響下に名倉奥平氏により改修されたものと考える。
 
 作手は、複雑で難しいが、文殊山城は、武田影響下に徳川方面を見張る城として奥平氏によって改修あるいは築城された城でいいのではないか。
 賽之神城は、武田の築城とされているが、武田の改修と考えることができそうな構造は井戸を守る大竪堀構造しかなく、縄張全体は奥平の築城術の範疇であり、作手奥平氏の従来からの城であろう。主郭が統率するその縄張は、ある時期は作手奥平氏の本城であったことを示していると考える。ただし、日近をも領有下に置いた大奥平の本城としては小さい。亀山城に本城機能を移したか。
 天正3年の設楽ヶ原合戦後の徳川の影響下、堀底通路などの改修を受けて、古宮城とともに徳川の城としての役割を担い戦国末まで機能したと考える。
 亀山城は、いうを憚るが、永禄以前からの作手奥平氏の本城とするには疑問を感じている。しかし、これは越後人である私が口を出す範疇を越えている。
 主郭全周囲郭の緊張、馬出の付随、導線から隠された虎口、大手口の方向・付け替えは、奥平圏では異様であり、私は武田の匂いを感じる。天正3年、勝頼は作手から野田、二連木、吉田を経て長篠城攻囲に着陣したので、作手に武田の拠点城郭があったことは確かであろう。それが古宮城というのが通説であるが、私は古宮城は武田の城ではないと考えるので、武田が拠点としたのは亀山城か賽之神城になる。賽之神は勝頼が入るには小さく武田の要素も少ない。どちらかというと亀山城のほうが相応しいか。
 天正元年の定能・信昌の武田離反後、武田が亀山城を接収し、三河進出の拠点城郭とすべく改修を行ったのではないだろうか。また、設楽ヶ原合戦後の徳川の影響下でも、大竪土塁、虎口脇の小郭を付随させる改修がされ、さらに慶長年間、松平忠明期に修築を受けたことと考える。亀山城の疑問は、そういった経緯により、所有者と周辺地域との関係が異なる状況の変遷によるものか。導線で虎口が隠されたように見えるのも、導線の付け替え次第では隠れない。
 
 古宮城、細かく書くと膨大な本編の繰り返しになるので、大筋のみ書く(それでも多い)が、諸先生指摘の如く山麓の囲い込み構造、そして諏訪原城同様の180度ターン、計画的に設定されたルート、これらは改修を経て強化されていった姿ではなく、当初から一貫した築城プランによって構築された構造である。奥平圏の各城を遥かに超える規模と工事量は、築城主体がより大勢力であったことを示す。その築城は、徳川によって諏訪原城が攻略された天正3年8月以降、牧野城として改修がされたと同時期に、徳川によって行われたものであろう。徳川による諏訪原城の改修は『家忠日記』に天正6年から9年にかけて記述がある(萩原 2009,p66)。佐伯先生の教示によると、古宮城の築城技術は天正12年の小牧長久手までは下らないということであり、虎口構造などから、信昌を新城に移した天正4年から武田滅亡までの同10年までの間の築城と考える。同14年の第二次小牧長久手勃発前夜まで徳川領国下は戦時緊張体制であり、徳川の城として軍事機能は有していたことと考える。
 古宮城は、通説としていわれている武田の強圧による従属下に奥平氏を監視するといった築城ではないであろう。こういった武田の奥平に対する強圧イメージは、後の徳川史観の影響が強いのではないか。武田にとっても奥平は三河制圧のためには重要であり、強圧的に従属を強いたとは思えない。武田徳川双方好条件の引く手の間で、あんがい奥平にとっては優位な交渉が行われていたのではないだろうか。
 天正3年の大賀弥四郎事件から天正7年の松平信康事件(松平信康切腹・築山殿殺害)に見られる信康家臣西三河衆と、家康麾下浜松衆との対立など(平山 2014,p.191)、武田が岡崎と繋がり、家康家中を分断し岡崎を手中にする危険性を孕んでいた。それは、織田と徳川の分断をも意味していたと考える。その接続地になるのが奥平圏であり、奥平定能・信昌の徳川従属に織田信長が関与した意義もそこに有ろう。設楽ヶ原合戦後も、武田の脅威は衰えたとはいえ天正10年の滅亡まで無視することはできなかったわけである。
 作手は、徳川領国岡崎と浜松、または織田領国との連携に重要な地帯であり、武田・豊臣方による侵攻・分断を防ぐために徳川にとっては不可欠な地帯であった。
 徳川従属下では、奥平信昌は家康息女亀姫を正室に迎えて新城に本拠を移している。
 徳川が一門に準じた奥平領に介入というニュアンスではなく、徳川領国全体の戦略として、徳川が主体となって徳川領国の連携・防衛拠点を設けることは不自然ではない。築城負担も奥平に負わせたものではなく、徳川が主体となって担ったものであろう。
 
 日近城は、従来の日近奥平氏の城を、徳川影響下に改修を受けたものと考える。
 
 4篇にわたり奥平圏の城として作手に嵌って一年の私の修学旅行の成果を記してきた。その修学旅行の過程においては、終始作手山城案内人原田さんにはご厚情をいただきお世話になっている。私にとって作手は、知る人が居て土と空気と光が身に沁み込む地になっている。中井均先生、佐伯哲也先生にも教示を頂き、深いところも探る機会を得た。
 
 しかしまだ作手の城の解明とまでは至っていない。至るどころか、当初奥平の基準として見た亀山城が、わからなくなっている…。
 
 さらに探求を重ねていきたい。
 
参考文献 平山優(2014)『長篠合戦と武田勝頼』、吉川弘文館
 
               萩原佳保里(2009)「諏訪原城」、NPO法人城郭遺産による街づくり協議会編『戦国時代の静岡の山城』、サンライズ出版株式会社