能登にみる天正期上杉の城郭普請 続編 C地区枡形山城(ネット初出)
枡形山城
枡形山城は、国分氏の居城西谷内城の尾根続き、至近750mにあり、佐伯哲也は『能登中世城郭図面集』のなかで、西谷内城の支城であったかもしれないが、天正4年の上杉軍による能登侵攻において上杉方によって攻め落とされ、上杉勢によって改修されたという仮説を提唱している。
佐伯仮説を基に、天正期上杉方の城として枡形山城を辿ってみたい。
構造・地点名称は佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房に準拠。
主郭を北・西・尾南の根続きを堀切②・①・⑥で厳重に遮断しているが、南は⑥⑦の二重堀切堀間を馬出し様小郭C(上杉の戸張か)とし、ルートとしている。東切岸下帯郭には畝状空堀群⑧を施設し、B南東部⑤をやや突出させ横矢を掛けている。
主郭内は高低差でABに区画にされ、北東突端櫓台様の高地③としている。
また南東約120m尾根先に、ルートに備えた堡塁と考える横堀⑨・郭Dを設けている。横堀⑨は、L型に曲げ、横矢を掛けながら城内に入れるルートを設定している。城内側郭Dは、横堀⑨の折れに沿いL型土塁を設け、ルートを圧している。
堀⑦
南尾根を遮断する二重堀切の外線
城内側(左)は馬出様小郭C。
郭Cと、南尾根・南東尾根堡塁郭D方向とは、窪地⑩から架橋で接続していたようだ。
南尾根架橋部窪地⑩
南尾根から城内側
堀⑦・⑥の二重堀切間の郭Cが、馬出として機能する。
郭C
奥は堀⑦、郭B。
郭C内を西(上写真左)から
城内側堀⑥は厳重堅固に主郭を守る
郭C・郭B双方に窪地があり、架橋もしくは堀⑥へ降りて登ったか。降昇のほうが堅固か。
郭B側から横矢は掛からない。
郭C堀⑥側の窪
架橋ではなく降りたのではないか。
堀⑥堀底
郭B南東隅下を左に折れ、畝状空堀群⑧が施設された東腰曲輪にまわることができる。というか、寄せ手の居場所は、堀底と東腰郭に限定されてしまう。後掲します。
まずは郭内へ入りましょう。
郭B堀⑥側窪
坂虎口とみた。
矢は掛からないが、塁線には土塁の痕跡があり、頭上郭Bからの追い落としは熾烈であろう。
堀⑥側窪から主郭内
AはBよりも高く区画される。
郭B南東隅櫓台⑤
堀⑥底を強烈に頭上から監視する。また佐伯は、東に張出す構造とし、東腰郭に横矢を掛けるとしている。
⑤ しっかりと櫓台
⑥堀底を強烈に頭上から監視
しかし、先述の郭Cとの接続に対し、横矢は掛らない。
南東コーナー
張出からの東腰郭畝状空堀群⑧への横矢掛けは、崩落もあり、明瞭ではない。
東面には、郭A④に一体化する塁線土塁を備える。この塁線土塁は、北東隅櫓台③で西に折れ、西遮断堀切①まで伸びる
北東隅
櫓台③が北遮断堀切②東腰郭畝状空堀群を頭上監視する。
東面に備えてきた塁線土塁④は、西に折れ、西遮断堀切①まで伸びる。
まず、西遮断堀切①へ
塁線土塁④北部から郭A
西尾根遮断堀切①
完全に断っている。
櫓台③北は北尾根遮断堀切②
北尾根遮断堀切①は、櫓台③頭上監視下、北東コーナーで東腰郭と繋がっている。主郭周囲は急切岸壁で、堀底⑥①②東腰郭から攀じ登るのは無理であろう。唯一堀⑥から郭Bへ窪のみ開いている。しかし、先の示したように熾烈な妨害を受ける坂虎口である。
郭内に侵入できない寄せ手は、周囲の堀底、畝状空堀群が施設された東腰郭で右往左往するのみであり、そこに頭上から弓矢あるいは丸太・投石を浴びる。
東腰郭には畝状空堀群⑧
櫛の歯状で、上杉方侍による構築であろう。
切岸に畝状竪堀様にもある
降りてみましょう。
北尾根遮断堀切①
畝状空堀
東腰郭への切岸に畝状竪堀様の構築もある
南東隅の櫓台⑤(写真奥右手)からの横矢が懸かるかは、微妙な現状である。
櫓台⑤下南東コーナーで堀⑥に接続。
コーナーは、頭上櫓台⑤の熾烈な監視を受ける。
堀切⑥底
南尾根 南東尾根郭D・堀⑨へ
堀⑦南 南・南東尾根
約120m南東尾根先に郭D・横堀⑨をL型に構えた堡塁を設けている。
横堀⑨がルートになっていて、L型に折れる。
郭Dは横堀⑨ルートを監視し扼す堡塁であろう。
横堀⑨のL型に沿って土塁を備え圧している。
ルートは左に直角に折れ横堀⑨になる
その折れには、上方から、沿ってL型に折れた土塁を備える郭Dが監視する。
郭DとL型土塁
L型土塁下には、土塁に沿って横堀⑨
L型土塁
土塁下、土塁に沿って折れた横堀⑨
登り口
冒頭の写真の矢印部
民家の脇から一段あがる。案内板などはなし。
萎えず、勇気があれば、突入ください。
倒木、藪、坂、試練を乗り越えた者は、堀⑦に西から至る。
車道から堀⑦まで私の足で8分。
枡形山城は、佐伯の仮説のとおり、馬出、畝状空堀に加え、横堀の折れを伴い、天正期にこの地域に進駐した上杉方によって、改修もしくは築城された城の様子を示している。
ただし、郭B南東張出⑤による東腰郭への横矢は不明瞭である。
また、郭C-郭Bの接続に、なぜ横矢掛け構造を機能させないのか、疑問である。
甲山城ほどの、折れ歪・横矢掛け構造には及ばないように思えた。
甲山城進駐上杉方侍と、C地区(熊木城・町屋砦・枡形山城)一帯に進駐した上杉方越後侍の築城レベルとの差と、私は捉えた。
参考文献 佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房