頸城村の山城 花ヶ崎城と茶臼山城 | えいきの修学旅行(令和編)

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えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

  能登続編の途中ですが、10月15日(土)16日(日)に開催される、くびき野レールパーク特別イベントhttp://kubikino-rp.jimdo.com/に勝手に合わせて、頸城村の山城を書きます。
 レールパークイベントにおいでの方で、山城にも興味のある方がございましたら、頸城の山城にも出かけてみてください。

はじめに
 
頸城村には雁金城と茶臼山城の二つの山城があります。
花ヶ崎の雁金城は、保存会が結成され、遊歩道の整備や謙信交際に合わせた狼煙上げなど史跡としての啓発が行われています。その仰ぎ見る山容とダイナミックな眺望とともに、広く上越市民にも認知されていることと思います。 
矢住の茶臼山城は、御館の乱における落城悲話が知られていますが、城の構造までは注目がされていません。
しかし、茶臼山城には、2004年に遠藤公洋(現長野県立歴史館上席専門主事)が「戦国期越後上杉氏の城館と権力」のなかで、天正期上杉権力によるハイテク構造と評価・分析した堀底段差通路、その段差に相関を持つ土塁との組み合わせなどの貴重な遺構が眠っているのです。
残念ながら、そのハイテク城郭構造の啓発がされていないため、茶臼山城の文化財・史跡としての価値に気付いている人は多くはありません。

  茶臼山城の価値を啓発する一助になればと願い、このたび2013年に作成したインターネットブログ『えいきの修学旅行』茶臼山城記事を、一部写真を入れ替え、内容を修正して公開しました。

山城オタク薬剤師の探究の集積ですが、頸城村に眠る戦国の山城「茶臼山城」を、現代に呼び起こすきっかけになることができれば幸いです。

 


 
 私が頸城村(1)で仕事をさせてもらうようになってから、かれこれ20年になろうとしている(平成30年で)。
 私が勤務するほたる調剤薬局は、人口1万人未満の村の二つの調剤薬局のうちの一つということもあり、私は頸城村に住む方々の半分程度の皆さんのお顔がわかるといっても過言ではないほど、村に沁み込んだ仕事をさせていただいている。
 そんな愛着のある頸城村にも、二つの山城がある。
  ひとつは花ヶ崎城こと雁金城であり、もうひとつは矢住の茶臼山城である。このブログで各地の城を何百も書き綴っておいて、沁み込んだ村に在る城を書かないでいるわけにはいかないであろう。
 
 まずは花ヶ崎城から
                        
 花ヶ崎城(雁金城)
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麓の花ヶ崎は、脇街道の宿場として機能し、要害はその街道と宿場を眼下に監視している。
        
慶長2年頸城郡絵図花ヶ崎周辺(ピンク線加筆)
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 花ヶ崎は慶長2年の頸城郡絵図では、本納185石1斗2升、縄ノ高183石6斗7升、家数24間、人数90人の町として描かれ、街道が交錯する宿場の賑わいが漂う。
 
 花ヶ崎城は、御館の乱における景勝の書状にも登場、史料に登場する城としての価値がある。
 

 天正六年六月十七日 吉増伯耆守 佐藤平左衛門尉 長尾右京宛 上杉景勝書状(上越市史別編1549)

 (前略)花か崎ハいらさる事ニ候条、無人しゆニて、小よふかいとも相かゝへ候も如何ニ候間、花か崎ヲは無用ニ候、くと嶋ヲハのたせしかるへく候、(後略) 
 
 御館の乱の最中、景勝が本拠上田庄と頸城春日山城を繋ぐ要衝直峰城将達へ送った書状で、兵が足りない(無人衆)から、花が崎は放棄し、九戸の要害を確保しろと命じている(2)。
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 花ヶ崎城は、山容も整った仰ぎ見る山であり、保存会も結成され、謙信公祭では山城ネットワークで狼煙上げイベントも行われている。
頸城村希望館にはジオラマも展示され、上越市内ではわりと知られた山城である。
 
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 主郭南東下に駐車場・遊歩道も整備され、城跡からは日本海から妙高信越境に至る頸城平の眺望を楽しむこともできる。 http://yahoo.jp/0eWTD5
 上地図、県道253側からの林道が見えないが、南西麓県道253側からも舗装林道があり、雁金城登り口の標柱もある。
 
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稜線鞍部に出、主郭へ
 
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稜線鞍部
現地説明版では、稜線鞍部を堀切としている。
 
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主郭に付随する高地
 
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高地から主郭
 
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付随する削平地
 
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二の郭
 
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三の郭
 
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三の郭下方の空堀
 

 
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狼煙台への稜線ルート
 遺構を破壊しないように、ロープ、階段が設置され、安全に見学できるように遊歩道が整備されている。保存会の方々の、見学者への配慮のみならず、文化財に対する配慮をも感じる。
 
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安全とは書いたが、北西面は山城の険しい本性のままであり、慎重に遊歩道を歩けばの話である。
 
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狼煙台
 
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眼下に頸城大池
日本海、九戸要害方向を望む。
 
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春日山方向
 
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妙高方向
 
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ズーム
黒姫、妙高、火打、焼山を望むことができる。
 
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狼煙台南東の堀切
 
 見てきたように、花ヶ崎城は険しい山の上に削平地を設け尾根を堀切る、といった普請による中世の山城の様相を平成の私達に伝える格好の遺構であり、山上の城跡からのダイナミック眺望は、謙信の時代とそうかわならい頸城平の様子を私達に味わせてくれる貴重な山城である。
 保存会の方々の心とともに後世に伝わっていって欲しい。
 

 

では、頸城村もう一つの山城、茶臼山城はどうか。
 
 茶臼山城は、上杉憲政に従って越後に下向した手島氏の城と伝わる。また、黒金摂津守が城主であったとも伝わる。町田城・顕法寺城に近く、御館の乱では景虎方の城であったようで、景勝方に攻められ落城、城主の姫が井戸に身を投げ命を落としたという悲話伝承が有名である。天正7年3月7日、景勝方柿崎猿毛城将上野九兵衛尉の攻撃を受け、町田・顕法寺両城が落ちた際、時を同じく落城したのであろう。
 
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砦に立つ展望台。砦には姫が身を投げたと伝わる井戸がある。
 
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展望台は、新潟市島見町の西厳寺の門徒方によって建てられた。
西厳寺の祖は、御館の乱で敗れ茶臼山城から落ち延びた手島景行と伝わる。
 
 しかし、これが茶臼山城ではない。
 
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茶臼山城
 
  茶臼山城は、落城悲話で終わらすには惜しい城である。
 
 花ヶ崎城は、険しい山の上ということもあり、普請は山上の削平と尾根の堀切といった造作にとどまっている。
 比してこの茶臼山城には、堀底ルートが設定され、ルートには段差普請・段差に伴う堀幅の変化・城門の構築・上方郭土塁とを相関させた巧妙な仕掛けが施されている(3)。
 また幅・高さの異なった土塁が効果的に用いられ、機能に沿った普請がされたものと考えることができる(4)。
 主郭の北、五郭下に、緩い斜面に向かって低い土塁を胸壁とする塹壕状陣地aを設けている(5)。
現地設置茶臼山城概念図(ブログ説明用に加筆)
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設定された堀底ルートに対し、上方郭に土塁を設け、重層的な迎撃を可能にしている。
この上方郭土塁は堀底段差と連携した構造である。
 
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主郭(左)、二郭(右)間の堀底は、堀底に設けらた城門により枡形になり、側面頭上から挟撃を受ける。
 
 堀底段差と上方郭土塁を相関させた高度な出入口などの近代的普請が施された茶臼山城を、御館の乱で落去した手嶋氏の城としておいていいのであろうか。
 
 頚城村の茶臼山城、三部構成にて紹介します。
 
 茶臼山城記事は、2013年作成した記事の一部写真を入れ替え、内容を修正して公開(10/1)します。
 
 註
 (1)頸城村は平成15年に上越市に合併し、現在は上越市頸城区となっている。本ブログでは、愛着を持って旧称を用いる。
 (2)福原圭一・水澤幸一編(2016)『甲信越の名城を歩く 新潟編』、吉川弘文館P45を参考に要約。
 (3・4・5) 遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」