町屋砦(石川県七尾市町屋) | えいきの修学旅行(令和編)

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能登にみる天正期上杉の城郭普請 続編 C地区町屋砦
 
                   町屋砦
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 釶打郷を見下ろす尾根上に築かれている。佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』では、西谷内城の支城とされ、国分佐兵衛あるいは岡部某が居城したと伝わる伝承を記しているが、その縄張構造から、天正4年頃上杉氏が新たに築城したと推定している。
 写真左側の鞍部に林道が通り、道は無いが、鞍部から城に至ることができる。
 
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南西鞍部舗装林道
道幅が広くなっており、駐車できる。ここhttp://yahoo.jp/d7IEDM
右の斜面を直登。
 
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遊歩道など、あるわけが無い
 
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直登2分10秒、尾根上到達
そのまま北東へ直進。
 
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6分30秒で町屋砦城域到達
 

              
町屋砦概念図
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左下から来ました。
 構造・地点名称は佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房に準拠。竪堀⑥は南東に約30m振り降る。
 佐伯の読み解きから縄張の概要をまとめる。
町屋砦は、主郭南西部の一段高い高所Aが統率する単郭の砦で、南西・北東を堀②・⑤で遮断し、西隅にL型土塁を構え、強固に備えている。主郭へのルートは、南西からは、堀②南の土塁上と土塁⑧を架橋し、土塁⑩伝いに入ったと推定している。北東からは堀⑤南端竪堀⑥上端を架橋し、土塁⑨伝い、あるいは④途中竪堀伝い、あるいは横切り⑧⑩伝いに入ったと推定できる。
 戦時、その架橋は撤去される。架橋が絶たれると、敵は堀②・⑤を南からは土塁に塞がれ渡ることができず、北に回るよう誘導される。特に西から北への誘導時は、主郭西L土塁に拠る城兵からの迎撃が強烈であろう。回り集められた主郭北切岸下には、櫛の歯状畝状空堀群が施設され、進退が著しく制限される。そこを頭上から主郭に拠る城兵が殲滅する。
 この畝状空堀群に向かわせる統一された縄張は、時代差を感じさせず、その畝状空堀群も上杉氏城郭で多用される櫛の歯状畝状空堀群であることを、佐伯は天正4年頃の上杉築城の根拠としている。
 
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上図左下 南西から
堀切⑦痕跡のみならず、鞍部が大きな箱堀状。
 右(南)は土塁伝いのルートが想定できるが、堀②の土塁から土塁土橋⑧への架橋が絶たれていれば、土塁が進攻を塞ぐことになる。よって、左(北)へ回り込むように誘導される。
 
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堀②西土塁の北西端
主郭L土塁が睥睨している。土塁により城内を見通すことできない。
右(南)に堀②を土塁ー土塁土橋⑧架橋コースを見てきましょう。
 
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堀②
 
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土塁上を南東へ進む
 
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この辺りで架橋か
 
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土塁土橋伝いに上がり、主郭へ至る
戦時、架橋が断たれていれば、土塁は土橋にはならず、寄せ手を塞ぐ塁となる。
塞がれた寄せ手は、南からの侵入はできず、北へ回ることになる。
 

     
もう一度主郭L土塁が睥睨する堀②西土塁北西端写真
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 上述の土塁伝いルートが戦時に架橋が絶たれていれば、土塁が進攻を塞ぐことになる。よって、左(北)へ回り込むように誘導される。
その回り込みは、主郭L土塁に拠る城兵の頭上監視下にあり、寄せ手の損耗は避けられないであろう。
 
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堀②底を北に降り、
 
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北面に回り込む
 
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その回り込みコーナーは、主郭西隅L土塁①の厳重監視下
あの上から射掛けられたら、堪らない。
 
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北面 主郭北面切岸下の、ほぼ平地の緩斜面に畝状空堀群③
 このゾーンに集められた敵兵は、主郭切岸下、畝状空堀群に著しく運動を制限されたところを頭上主郭から迎撃を受ける。かろうじて切岸下際が通行できるが、そこは側面直上主郭から、弓のみならず鑓でさえも刺殺可能。城兵にとって狙いを定め易い線である。寄せ手殲滅を図る縄張である。
 
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畝状空堀群③
 
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上端が揃った櫛の歯状
 
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佐伯図では13条を数える
 
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主郭北隅下コーナー
13条畝状空堀群③の最北東空堀はやや幅広で上端が高い。北東尾根への備えであろう。
堀⑤は主郭北東の遮断線

 

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北コーナー先、北東遮断堀切⑤
 
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北東遮断堀切⑤
左 北東尾根。
右上 主郭。
 
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 北東尾根先に対し、土塁を備えた銃撃陣地に見えなくもない。北信でよく見る天正期上杉の後背切岸上陣地とセットになった防御施設の先駆けか。
 
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南端方向
 堀⑤南端は竪堀⑥が振り降り、城内側には土塁⑨が備わる。平常なら土塁⑨に架橋により④方向に接続するが、戦時には架橋を断てば竪堀⑥土塁⑨によし回り込みは阻止されることになる。
 
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堀⑤南端
鋭い。
さらに竪堀⑥が振り降り、回り込みを阻止、城内側には土塁⑨が侵入を塞ぐ。
 
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竪堀⑥
約30m振り降る。
 
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土塁⑨
 下端に架橋接続か。戦時、架橋が断たれれば、遮断堀切⑤・竪堀⑥・土塁⑨のセットによって侵入は阻止。
 南回りを阻止された北東からの寄せ手は、先述の畝状空堀群の施設された主郭北切岸下に誘導されることになる。
 
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南端から堀⑤
ここを戻ったか。しかし、主郭切岸下を側面頭上から執拗な迎撃を受けながら進むことも損耗が激しい。
 
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北コーナーを回り込み畝状空堀群③が施設された主郭北面切岸下へ誘導
左切岸上主郭の、頭上監視下。
 
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畝状空堀群により、展開・運動が制限される。
  佐伯は、東からも西からも、この畝状空堀群に向かわせる統一された縄張は時代差を感じさせず、その畝状空堀群も上杉氏城郭で多用される櫛の歯状畝状空堀群であることを、天正4年頃の上杉築城の根拠としている。
 

 
では郭内へ
 
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④から北東からの回り込みを塞ぐ土塁⑨
 
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南西土塁⑩から郭内 
主郭南下区画
 
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土塁⑧⑩を土橋用途に伝い登ると、いったん切れて、主郭北西隅L型土塁①
この切れが郭内への出入り口か
 
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土塁のきれから主郭内
笹ぁぁー。
 
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北西隅をL型土塁①に囲われた主郭 高所A
主郭内は北西を高所Aに区画している。
 
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L型土塁①から南西遮断堀②
 
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L型土塁①南西隅付近から
 
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L型土塁①上から主郭内
手前高所Aの北東は低い区画となる。
 
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高所Aを区画する段差
 
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南東に竪堀が降り、あるいは④との連絡通路かもしれない
 
 町屋砦、薮期は到達・観察とも不可能と思います。
 私が踏み込んだのは3月上旬です。もう一週遅ければ、藪猛って、踏み込めなかった可能性があります。
 時期を選んでチャレンジすれば、天正の能登の動乱の最中、上杉方越後侍が外征地で拠った砦を堪能できることと思います。
  なぜか主郭から切岸下に畝状空堀群をみる写真がありません。
  冬、飯田城と共に再訪を誓っています。
 
参考文献 佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房
 
再訪を誓った町屋砦、平成29年2月に行ってきました。
平成29年3月2日以下写真三枚、追加します。
 
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いまいち不明瞭ですが、主郭から北切岸下の畝状空堀群をみる
 
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切岸中からだと畝状が少しわかり易い
 
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切岸下、畝状空堀群が施設された帯郭
霰が降りはじめました…。
私は、霰降る能登の山中で、いったい何をしているのやら…。