能登にみる天正期上杉の城郭普請 続編 A地区黒峰城
黒峰城
萩城から西に約6kmほど内陸(山中)に入った黒峰山頂、黒峰往還と法住寺道が交錯する要衝にある。
舗装林道が近接するが、標高は436mの山上である。
郭
堀・地形名称は佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房に準拠。
桃線は古道を概ね示し、①は黒峰往還、②は法住寺道で、両道とも城にがっちり扼されているが、特に北は二重堀切で遮断し、黒峰往還の③方向からの侵攻に厳重な警戒をしている。
主郭Aは重厚な土塁で囲郭され、なかなかに威容がある。南と北に開口し虎口が設けられている。南の虎口は法往寺道に対して開き、佐伯は法住寺道との親密性を指摘し、法住寺による築城の可能性を挙げつつ、②道西切岸斜面に畝状空堀群の痕跡があろことから、飯田城・萩城と同じく天正5~8年に上杉方武将により構築された可能性が高いとしている。
黒峰城主郭A
土塁で囲郭されている。
南北が開口し、虎口となっている。
南虎口から北虎口を対角にみる。
主郭は囲郭され、臨時構築ではない様相である。
越後侍の要害では、土塁は用途により限定され、多用はされない。上杉方武将による要害普請というより、法住寺、あるいは伝説の阿部判官など在地勢力の居住をしめすのではないか。
角度を変えて、北虎口西脇土塁上から
主郭Aは囲郭土塁塁線下に黒峰往還①と法住寺道②を監視する。
東塁線下
城壁様切岸下に黒峰往還①を監視。
西土塁
西は帯郭・緩斜面のためか、なかなか重厚。
西塁線帯郭下
法住寺道を頭上監視。
法住寺道下斜面には畝状空堀群が施設。
南西隅付近に切口ような箇所があり
南西隅先はやや緩く西尾根法住寺道折れ部を監視する。
北虎口周辺
北虎口
土塁が櫓台状に脇を固める。
虎口は平入開口だが、この虎口土塁外にもう一重土塁を備える。
北虎口西土塁
北虎口東土塁
幅広く構築され、櫓台であろう。
北虎口の北外
もう一重土塁が構築されている。
しかし、虎口前が開口している。
虎口前に衝立、ターンを強いれば、織豊の虎口にもなろうものが、そこまでは至っていない。
開口先北方は道を迎え入れていないので、黒峰往還③から北堀切を越え、寄せる者への備えであろうが、奇異な感じを受ける。
南虎口から郭Bへ
南虎口
主郭A内から南虎口
左(東)が高く幅広に構築され、櫓台であろう。
南虎口東櫓台
南虎口西
一部低く切られている。
南虎口
明確な通路は設定されていないが、虎口脇の櫓台が強固に守る。
南は法住寺道に接している。
郭Bと②法住寺道
郭Bを東から
(郭Aからみた郭Bは上の写真)
南端は法住寺道に接するため、土塁④で備えている。
南端に備えた土塁④
南端 土塁の先に南から法住寺道に接するが、土塁があるので、ここで迎え入れたかはわからない。
枡形様広場で城内に接続していたのではないだろうか。
高低差を効かして扼し、この枡形様広場で接続したのではないか
意図して構築された明確な枡形ではないが、枡形様機能も果たすであろう。
②法住寺道
②法住寺道から枡形様広場(上の写真)
監視・迎撃が集中するなかなかな要害
②法住寺道を城域西から北へ辿ります。
西尾根のつけね
佐伯が北からの侵入者への迎撃ポイントとする郭Cか。
手前に竪堀⑥、西尾根には堀切が一本。
頭上(右上)は主郭A南西隅と迎撃側は連絡していそうだ。
城側側面
西尾根堀切
西尾根で、北へ折れる
左下斜面に上杉勢による改修の根拠とする畝状空堀群。
ただし、盗掘により荒らされている。
畝状空堀群の痕跡には、埋蔵文化財包蔵地の標柱が建つ。
平成11年に上戸知ろう会が発行した『上戸集落誌』によると、七つ塚と呼び、「黒峰落城のときの死者を葬ったとか、武具などを埋めた塚であるとか、また山伏修験の祈禱場であったとか、いや村やあ山境の塚であるとなど種々に言い伝えられている。」江戸期以来のにより荒れている。和嶋俊二は七つ塚は「七仏薬師信仰」との関係を指摘している。
越後侍の土木作業がこのように伝わるほど、能登において畝状空堀群は奇異なのだろう。
残念ながら、盗掘の影響でよくわからない。
城域北端堀切へ
城域東側を通る黒峰往還と合流する。
城域北端となる堀切
二重堀切である
では、舗装林道からの誘導がてら、舗装林道から①黒峰往還を辿り、ここまで来ましょう。
アクセスと黒峰往還①③
舗装林道退避帯から黒峰往還と思われる山道に接続している。
このあたりhttp://yahoo.jp/4lKRIm。
黒峰城入り口の案内は無い。
山道とはいえ、近年まで主要道であったのではいか。
古道を歩くこと6分、城域東尾根先下に至る。尾根にはロープがあり昇降できる。直進し尾根先を伝い登ると3分で郭B東端に至る。 黒峰往還は右に、城域切岸下を東から北へ通る。
城域切岸下を東から北に通る①黒峰往還。
城壁様の切岸上は、郭が完全監視。
黒峰往還は、先掲の城域を区切る北の鞍部堀切付近で、②法住寺道と合流、③部となる。
その先掲の堀切を黒峰往還から
二重堀切で、北からの侵入を厳重に警戒している
二重堀切から黒峰城
威容をもって立ちはだかる。
軍艦の艦橋のよう。
『上戸集落誌』には、黒峰落城に関する伝承を伝えている。
要訳し引用する。
○黒峰城は天嶮の要害で、家臣団の結束も固く、上杉勢の攻撃を受けても容易に落城しなかったが、阿部判官(伝説の謎の城主)は正月だからと家臣を帰し、一人で腹あぶりしていたので、戦いにもならず敗れたともいう。
○判官は城を抜け出し、炭焼き小屋へ紛れた。追手が来たが、炭焼き男が「何をボヤボヤしている」といって判官の尻を蹴ったので、怪しまれずに助かったという話もある。
○上杉勢が上陸したのは大晦日で、上戸真頼家に宿をとり、元朝に雑煮のカツオブシを、カツキバシで食べて攻めのぼった。判官も雑煮を食べている最中で、箸が一本折れて「おやっ」と思った隙に首を切られてしまったという伝えもある。
参考文献 佐伯哲也(2015)『能登中世城郭図面集』、桂書房
上戸知ろう会(2009)『上戸集落誌』、能登物産商会