信濃最奥野尻湖周辺 | えいきの修学旅行(令和編)

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  能登越中から北信濃に移り、しばらくは北信濃最奥、北国街道沿線の越後国境近である野尻湖周辺の城を書こうと思います。
 
 武田が北信濃から越後に迫る口は、北国街道沿い野尻湖周辺、富倉峠を越える富倉口、千曲川下流の志久見口、小谷から糸魚川に出るに根知口がありました(根知口は今回エリア外)。
 
 謙信は、富倉口には飯山城・山口城・中条城・富倉城を、志久見口には城坂城(仙当城もか)を構え、武田の侵入に備えます。
 これら富倉口・志久見口の城は昨年書きましたので、北信濃のページからご覧になってください。
 北信濃のページ:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496881710.html?frm=theme

 山口城は近々リニューアルを考えています。武田の平沢・替佐城は既に書いてあるのですが、蓮城は、野尻湖周辺ではありませんが、今回書き加えます。

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今回は、ここ野尻湖周辺
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 黒を上杉方、赤を武田方、紫を争奪の的となった城で示しています(田草・小田草は見踏査のため帰属判断せず白字で記)。
この地域の熾烈な様相がおわかりいただけるかと思います。
 
 永禄年間、武田は飯山城攻略を目指すとともに、野尻湖周辺域にも軍勢を進め、越後境を荒らしまわりました。
 
 割ヶ岳城は、永禄4年武田に落された鰐ヶ岳城と考えられる(宮坂 2014,p60)。
 
 野尻島(野尻城)も武田により攻め落とされているが、上杉方に取り返されている。
 【史料1】 色部修理進宛上杉輝虎書状「(前略)野尻島敵乗取候処ニ、不移時日取返候(後略)」(上越市史別編560号)
 【史料2】 蘆名氏家老鵜浦氏宛信玄書状「去頃野尻落去、城主已下数輩討取、至鵜于越国乱入、処々郷村撃砕、則越信之境、差置人数」(『戦武』1260号)
 
 この野尻争奪は、研究者によって年代比定が異なる。
宮坂武雄は【史料1】を永禄7年(宮坂 2014,p66)。
遠藤公洋と上越市史は【史料1】を永禄10年(遠藤 2011,p277)。
柴辻俊六は【史料2】ほか情勢から永禄11年(柴辻 2011,pp15-19)に比定している。
 
 国境を荒らしまわれた上杉方は、旧来の野尻島では抗しきれないと考え、永禄10年から12年の間に野尻湖畔に新たな新城を取り立てている。
 【史料3】直江大和守ほか宛上杉輝虎書状「(前略)其内信州口堅固之仕置簡心候、飯山・市川・野尻新地用心目付油断有間地敷候(後略)」(上越市史別編799号)
 
 【史料3】の野尻新地を野尻新城と考える。
 
 
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武田に攻略された上杉方前線割ヶ岳城https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496881708.html

(2011作成)

永禄4年、この城の落城が政虎の逆鱗に触れ川中島合戦を引き起こしたとも云われている。
 
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割ヶ岳城に対した武田方前線若宮城https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496901127.html

(2017 リニューアル)

 
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髻山城

  一向宗願生寺の城であったが政虎に乞われ、政虎に譲ったとされる。しかし、永禄7年9月5日に比定される岩船藤左衛門・堀江駿河守宛て直江政綱書状に「…敵もととり山江小簱五本ニ而、毎日致武見由申候…」(上越市史別編433)とあり、武田方が入り固めている。https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496888617.html(2013作成)           

ここからが今回書き綴る城です。
 
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蓮城(野尻湖周辺ではありませんが、今回書きます)
 上杉の飯山城防衛の前線であったが、武田に奪われ、信玄の飯山城攻めの前線となった。信玄の飯山城攻めの本陣とも伝わる。飯山城まで直線距離僅か5.5km。
 
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愚図ですが、書かないことには上達しないため、今シリーズは概念図作図します。
 
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蓮城は、前線砦の雰囲気が濃厚
 
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北信最奥
貉倉城と古海城
なにゆえ私はあのような山の上まで行かねばならないのか…。
 狢倉城は上杉の狼煙台と伝わるが、狼煙台程度の普請ではない。郭の規模は小さいが、防御ラインとなる厳重な二重の堀切が構えられている。
古海城は、信濃最奥だが、武田中枢の普請技術による築城がなされている。
 
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 貉倉城、宮坂本には「南東搦手の鞍部から登ると楽である」とあるが、南東尾根は鉄条網が横線ではなく縦深に設置されているような状況で、けっして楽ではなかった。
 
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貉倉城の堀切
あの山の上に、この構築は凄い。
その山の上に行って写真を撮った私も凄い。
 
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しかも、この堀幅で二重構造
 
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甲陽軍鑑 丸の具現
 
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古海城は、らんまるさんの足跡を追って直登。
息絶え絶え。
 
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山上、主郭を取り巻き円形に掘られた武田の横堀
もっと深い箇所もあるのですが、本編で。
 
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放射状竪堀
こんな、武田にとっては最奥の城にまで掘ってくれていることに感謝してしまった。
 
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野尻島は、琵琶島城・野尻城とも呼ばれ上杉方の防衛拠点であったが、武田方に襲撃され落城した。
上杉方は湖畔に新城を築城し、武田に備えた。
野尻新城は、本能寺の変後に北信に進出した景勝によって、さらに改修され利用されたようだ。
 
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横堀による囲い込み構造
信濃に打って出る軍勢を収容する区画か。
野尻新城には、謙信期よりも新しい、景勝期の普請技術が見られる。
 
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打って出る軍勢を収容するスペース
とはいっても、この笹藪を突破するのは勇気が必要だった。
 
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前面に土塁を備えた、これも景勝期の構造
 
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大堀切も鋭い
 
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これは虎口
 
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城は、ときに生き物のように見える。
 
 では、北信濃最奥の城、堪能ください。
 蓮城、古海城、貉倉城、野尻新城、山口城リニューアルと書き進めようと考えています。
 
参考文献 
宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
遠藤公洋(2011)「新潟県上・中越地域から長野県北部地域における織豊期の城館遺構~空間を囲む施設と上杉氏の「へい」からみえるもの」、『中世城郭研究』、第25号
柴辻俊六(2011)「甲斐武田氏の北信濃進攻と支配実態」、『信濃』、第63巻2号