割ヶ岳城(長野県信濃町柴津) | えいきの修学旅行(令和編)

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割ヶ岳城全景(北西から)
 割ヶ岳は、柴津の城山ともいわれ、標高767.8m、ふもと集落からは120mほど登る 険しい山です。
北には野尻湖から信越国境を望み、東に豊田から飯山、西に柏原、南には三水、牟礼 へとつながる交通の要所にあたります。頂上には、本丸などがあった7つの曲輪と堀があります。城へ登る大手道もかなり残されていて、信濃町では、最も良く残された城跡です。もとは柴津為信という在地領主の城であったといわれていますが、戦国時代には信越の前線にあって、重要な軍事拠点となっていたようです。永禄四年(1561)五月には武田軍に攻め落とされたという記録があり、すぐ後の九月には川中島八幡原の戦いがおこっています。同七年には、野尻城の取り合いがありました。 このように、割ヶ岳城跡は典型的な中世の山城であり、上杉、武田両軍の戦いの跡を残す重要な史跡です。(現地説明板より)
 
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に少し書いてあります。

こっちのほうが次元が高い:信濃最奥野尻湖周辺  https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496898135.html

 

  最後に柴津為信の護り仏と伝わる仏様を紹介しています。おつきあい下さい。
 
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現地にあった宮坂武男先生の推定図です。
 南麓に登り口の看板があり、民家の敷地を通らせていただいて取り付きます。http://yj.pn/4GmEI6
大手道と思われる登山路をあがり、2カ所の石遺構のある城戸?をぬけ、五郭→四郭→その西先を見て→主郭→ニ郭→七郭→六郭と黄線のルートでまわりました。四郭と主郭間の二重堀切の間が三郭のようです。
 
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民家裏手、大手付近と思われます。
 
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登山道5折れのところに一つ目の竪掘りが走ります。
 
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竪堀で折れて、途中に何やら自然石と石組の跡があります。城戸があったのでしょうか。
 ここで侵攻を停めて上から迎撃とすると、実際に戦闘があった城なので、先鋒が討ち死にした場所かもしれません。
 
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6折れ、物資運搬用にも利用されたように描かれている竪堀。
その利用はどうかな。
 
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折れて、二つ目の石組遺構。ここも城戸か。
 
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西からみる五郭。
わりと広い郭です。井戸の跡があります。
 
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三郭と四郭間の堀切。
ここが最も厳重な堀切に思われます。
 

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南東斜面へ降り落ちる
 
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北西斜面へ降り落ちる
 
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四郭
 
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四郭の先
尾根先の斜面を堀切と自然石地形を使った土塁で固めています。
東麓への道があったかもしれません。
 
 
主郭方向へ戻ります。
 
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三郭と主郭を隔てる二重堀切。
 
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割ヶ岳城主郭(北東から)
南東中央付近に五郭と繋がる虎口あります。
 
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主郭南東中央の虎口
 
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主郭北面は急崖
 
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主郭南西端は、水掘りであったかもしれない堀切の先にニ郭(祠と説明板がある)があります。
 
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ニ郭
こちらが主郭より高い位置づけの郭であったかもしれません。
 
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ニ郭南西下の七郭
 
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振り返ってニ郭を見上げる
 
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ニ郭から見た六郭。
ニ郭、七郭の南一段下に五郭と並ぶ。
 
 割ヶ岳城は、見た目ほど登りはきつくなく、山上には甲越の実際の争奪の戦闘が行われた郭と堀切りが残る、迫真の遺構です。
根小屋と城下集落がどこにあったかた定かではないようですが、東麓の柴津集落に称名寺という浄土真宗のお寺があり、昭和まで寺屋敷にあった別のお寺に納められていた、柴津為信の護り仏が伝わります。
 称名寺は、上杉が会津移封以降に治安のため入地したそうです。
 
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称名寺
 
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伝 柴津為信護り仏