![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/24/17/j/o0314020914510033893.jpg?caw=800)
割ヶ岳城全景(北西から)
割ヶ岳は、柴津の城山ともいわれ、標高767.8m、ふもと集落からは120mほど登る 険しい山です。
北には野尻湖から信越国境を望み、東に豊田から飯山、西に柏原、南には三水、牟礼 へとつながる交通の要所にあたります。頂上には、本丸などがあった7つの曲輪と堀があります。城へ登る大手道もかなり残されていて、信濃町では、最も良く残された城跡です。もとは柴津為信という在地領主の城であったといわれていますが、戦国時代には信越の前線にあって、重要な軍事拠点となっていたようです。永禄四年(1561)五月には武田軍に攻め落とされたという記録があり、すぐ後の九月には川中島八幡原の戦いがおこっています。同七年には、野尻城の取り合いがありました。 このように、割ヶ岳城跡は典型的な中世の山城であり、上杉、武田両軍の戦いの跡を残す重要な史跡です。(現地説明板より)
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/8e/0f/j/o0336036314510033899.jpg?caw=800)
に少し書いてあります。
こっちのほうが次元が高い:信濃最奥野尻湖周辺 https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496898135.html
最後に柴津為信の護り仏と伝わる仏様を紹介しています。おつきあい下さい。
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/17/f3/j/o0374033614510033907.jpg?caw=800)
現地にあった宮坂武男先生の推定図です。
南麓に登り口の看板があり、民家の敷地を通らせていただいて取り付きます。http://yj.pn/4GmEI6
大手道と思われる登山路をあがり、2カ所の石遺構のある城戸?をぬけ、五郭→四郭→その西先を見て→主郭→ニ郭→七郭→六郭と黄線のルートでまわりました。四郭と主郭間の二重堀切の間が三郭のようです。
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/47/07/j/o0314020914510033913.jpg?caw=800)
民家裏手、大手付近と思われます。
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/39/21/j/o0314020914510033921.jpg?caw=800)
登山道5折れのところに一つ目の竪掘りが走ります。
![イメージ 22](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/9b/78/j/o0314020914510033930.jpg?caw=800)
竪堀で折れて、途中に何やら自然石と石組の跡があります。城戸があったのでしょうか。
ここで侵攻を停めて上から迎撃とすると、実際に戦闘があった城なので、先鋒が討ち死にした場所かもしれません。
![イメージ 23](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/15/84/j/o0314020914510033935.jpg?caw=800)
6折れ、物資運搬用にも利用されたように描かれている竪堀。
その利用はどうかな。
![イメージ 24](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/7d/75/j/o0314020914510033946.jpg?caw=800)
折れて、二つ目の石組遺構。ここも城戸か。
![イメージ 25](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/d1/ad/j/o0448029914510033957.jpg?caw=800)
西からみる五郭。
わりと広い郭です。井戸の跡があります。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/98/f1/j/o0314020914510033963.jpg?caw=800)
三郭と四郭間の堀切。
ここが最も厳重な堀切に思われます。
南東斜面へ降り落ちる
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/e9/92/j/o0314020914510033976.jpg?caw=800)
北西斜面へ降り落ちる
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/0e/97/j/o0314020914510033981.jpg?caw=800)
四郭
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/eb/a2/j/o0448029914510033989.jpg?caw=800)
四郭の先
尾根先の斜面を堀切と自然石地形を使った土塁で固めています。
東麓への道があったかもしれません。
主郭方向へ戻ります。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/b8/ac/j/o0448029914510033996.jpg?caw=800)
三郭と主郭を隔てる二重堀切。
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/41/ed/j/o0448029914510034000.jpg?caw=800)
割ヶ岳城主郭(北東から)
南東中央付近に五郭と繋がる虎口あります。
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/19/b8/j/o0448029914510034005.jpg?caw=800)
主郭南東中央の虎口
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/ad/50/j/o0314020914510034012.jpg?caw=800)
主郭北面は急崖
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/1d/10/j/o0448029914510034015.jpg?caw=800)
主郭南西端は、水掘りであったかもしれない堀切の先にニ郭(祠と説明板がある)があります。
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/d8/26/j/o0448029914510034023.jpg?caw=800)
ニ郭
こちらが主郭より高い位置づけの郭であったかもしれません。
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/69/f8/j/o0314020914510034029.jpg?caw=800)
ニ郭南西下の七郭
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/e5/6a/j/o0314020914510034039.jpg?caw=800)
振り返ってニ郭を見上げる
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/41/81/j/o0314020914510034046.jpg?caw=800)
ニ郭から見た六郭。
ニ郭、七郭の南一段下に五郭と並ぶ。
割ヶ岳城は、見た目ほど登りはきつくなく、山上には甲越の実際の争奪の戦闘が行われた郭と堀切りが残る、迫真の遺構です。
根小屋と城下集落がどこにあったかた定かではないようですが、東麓の柴津集落に称名寺という浄土真宗のお寺があり、昭和まで寺屋敷にあった別のお寺に納められていた、柴津為信の護り仏が伝わります。
称名寺は、上杉が会津移封以降に治安のため入地したそうです。
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/5d/a4/j/o0314020914510034053.jpg?caw=800)
称名寺
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/dd/d9/j/o0200031414510034060.jpg?caw=800)
伝 柴津為信護り仏