髻山城(長野市若槻西条・飯綱町平出境) | えいきの修学旅行(令和編)

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髻山城           
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 もと、飯綱町平出・願生寺の城であったという。牟礼から善光寺へ出る要地にあり、善光寺平を巡って武田と熾烈に争う上杉政虎に望まれ、譲ったという。
願生寺8世平出祐賢は、平出入道と名乗り、手兵を率い上杉軍に属し川中島に戦い戦功をたてたと伝わる。政虎は七ヶ寺を付け遇した。
 が、永禄7年9月5日に比定される岩船藤左衛門・堀江駿河守宛て直江政綱書状に「…敵もととり山小簱五本ニ而、毎日致武見由申候…」(上越市史別編433)とあり、武田方が髻山城に入り固めている。
 
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髻山城の位置
 善光寺後背の山にずらりと上杉方の城塞が連なる。
 髻山城は、越後勢が善光寺平に出る主要ルートのひとつ、越後内堀之内館から牟礼矢筒城付近に宿営し髻山城麓を通り善光寺に出るルートを扼している。善光寺平に打って出るにしても、越後に退却するにしても、極めて重要な城である。
 越後勢が春日山から善光寺平に出るルートは、他に、堀之内館から現国道292富倉峠を越え飯山城に入り南下するルート。
 飯綱山をまわり戸隠を経て葛山城にでるルートがある。
 髻山城より越後に近い割ヶ岳城は永禄4年、野尻城は永禄7年に、武田勢により落とされている。
 
 武田は、永禄7年には善光寺平をほぼ手中にし、長沼城を拠点に、替佐ー壁田ー毛見と前線を張り飯山城を圧迫する。上杉輝虎は「たけ田はるのふあくきやうの事」等の願文を多く捧げている。輝虎にとっての厳しい状況がうかがえる。永禄11年には本庄の乱に連動するように飯山城を攻城している。
これら善光寺後背のずらりならぶ城塞、飯山城を圧迫する武田の城塞は、北信のページにずらり掲載してますので、ご覧ください。
 
宮坂武男著 信濃の山城と館2より引用 説明用に郭名・堀名等を補記 イメージ 19
北から見ています。
西斜面に竪堀と横堀を組み合わせ、武田の普請を思わせる。
山上は見事な虎口を備え、また石垣造りを思わせる痕跡もあり、なかなか堅固威厳ある造りになっている。
本能寺変後、景勝の手が入った可能性もある。
 
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東南に位置する小山は小城とされ、出城であったようです。私は未踏。
  小城の南東は、川中島から越後へ退却する越軍を支援するため宇佐美定行が陣を構えたと伝わり、宇佐美沢という地名が残る。
 
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宇佐美沢バス停 
 伝承として地名が残るということは、テレビの影響ではなく、幾度かの善光寺平に於ける甲越戦闘に際し、越軍の退却がこのルートで行われ、この地に退却を支援する部隊が陣したのは事実であろう。また、その将が宇佐美であるかはわからないが、宇佐美の名が越軍の勇将として、この地に響いていたのであろう。
 
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小城と髻山城の間の伐採林道を通ってくると、観音清水に辿り着きました。
伐採林道、迷います。気をつけたほうがいいです。
ここに至る登山遊歩道ルートがにあるはずです。
  
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観音清水
 謙信が守り本尊として大切にしていた黄金の千手観音を井戸に投じて祈願したところ、こんこんと水が湧きだしたと 説明版にある。
 では北から西の長大な横堀・竪堀ゾーンからみていきましょう。
 
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 横堀カ

説明版では馬かくしとし、謙信が馬を隠したとしている。
長さ80m
 
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竪堀キ
 
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横堀ア
87mと長大
 外を土塁としている。
この横堀アと竪堀ウ・イで囲われた斜面の区画が郭5
 
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郭5北西コーナー
横堀アと竪堀イでつくられている
 
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郭5北西コーナーちかく虎口
 
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竪堀イ
 
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横堀アと組み合わさる竪堀ウ
 
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竪堀ウ上端から郭5をみる
この竪堀、横堀、また竪堀横堀で囲われた区画は、どう使ったのか?
 見事だが運用がいまいちわからない。
 
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竪堀ア上端の横堀エとやや食い違い南斜面へ落ちる堀切オ
竪堀ア、横堀エ、堀切オで、城道を関門としている。
 
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ここ関門から上は、その2で。
 
願生寺の写真を少々。
 
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髻山の北西麓 飯綱町平出字寺屋敷 
溜池のうえ辺りが願生寺跡と伝わる
 
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 髻山城を謙信に譲った願生寺は、越後内現妙高市新井別院が建つ地に、謙信により移されたという。
 髻山城が武田に奪われ、越後内のこの地を宛がわれたということか。が、願生寺は天正5年織田信長と戦う石山本願寺に兵糧十俵一升を送っているので、配下七ヶ寺のいずれかがこの地に移ったのか飯綱に残ったのか。
 
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現 妙高市除戸 願生寺
 1685年宗門内の争いから全財産没収のうえ追放、上の地を追われた。
謙信とともに武田との死闘を潜り抜けた気骨ゆえか。
 
現世の院家様も平出入道と同じく平出姓で、髻山城主であった伝承をしっかり伝えている。
 
 その2へ。
 
参考文献 宮坂武男著[信濃の山城と館2]  願生寺所蔵研究資料
       願生寺様より、伝承お話いただきました。ありがとうございました。