中野小館から鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城(山上右の平らな部分)
もとは中野氏の支配地帯であったが、小布施から北に勢力を伸ばした高梨氏が永正10年頃、中野氏を追い、間山から進出し本拠とした。
この辺の事情は年頭に書いた石動の館・真山城を参照下さい。
謙信道1・石動の館https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496894516.html
越後長尾景虎と甲斐武田晴信が争った弘治年間の川中島合戦の頃までは、当初、高梨氏も中野周辺おそらく鴨ヶ岳城に籠城したようですが、弘治3年2月、上杉方の落合氏が守る葛山城が武田に攻め落とされると、中野小館・割ヶ岳城から飯山城に退き、また長沼城の嶋津氏も大蔵城に退き、越後長尾景虎の救援を待ちます。井上氏は越後に逃れたようです。
永正7年には関東管領上杉顕定を打ち取りその武名を世に挙げた高梨ですが、これだけの山容の城に籠り抗戦すれば、数日の内には越後から景虎の来援が期待できるわけですから中野を維持できそうなものと思いますが、あっさり退いてしまします。そのあっさりが疑問でしたが、現地を歩き、また研究書を読み、そのあっさりの理由についても私なりに見えてきました。その後、武田滅亡までは、武田の支配するところとなり、信長が本能寺に死に森が去ると、越後の上杉景勝が北信に進出します。鎌ヶ岳城に景勝の天正期上杉の近代的改修を見ることができます。
そんなことを考えながら、息絶え絶えの登山となった鴨ヶ岳・鎌ヶ岳城、らんまる・ていびす両人のご指南のもと命懸けの登山となった高梨被官夜交氏山城を書き進めようと思います。
中野小館南面の堀
北東から郭内
東虎口土塁
高梨の庭
ダイジェスト、いきましょう!
鴨ヶ岳城登り口
もちろんクーさんもお住まいです。
息も絶え絶え鴨ヶ岳
山上郭1
堀ク
おっとこのへんでストップ。
本編、お楽しみに。
なにが居るやら鎌ヶ岳
無理だ。と断念しようと思いましたが、またあの息絶え絶えの急登を思い突入を決意。
緑に埋まる標柱
鈴、振り鳴らしまくり。
石塁で固めた内塁線
これが見たかった。
その南、山上に横堀
石塁で固めた内塁線
鎌ヶ岳もここでストップ。
高梨の被官夜交氏の山城
夜交氏は武田の侵攻に際し、分裂。夜交千代松と父、夜交源七郎は武田につき、千代松の親は討死し、千代松は高坂虎綱より永禄5年8月に当知行の安堵と新恩を受けている。上杉を頼った者の名に夜交九郎三郎・同民部左衛門がある。この二人は、御館の乱で景虎方につき、所領を没収されている。(池上 1998,pp.6-7)
あそこ(遠見)まで行ったと教えてあげたら、称賛を受けるだろうか。
レイアウト、かえてみます。
卒倒しそうである。
しかも落石の危危危険。
途中、こんなの見つける執念。
堀アを探索するていびすさん。
あ、そんなとこ。
危ないー!
他を見て我を知る…。
堀イ直上
ここまで登って藪かぁ
いや、ありました。夜交氏大城
箱状・石塁の堀ウ
郭1は石塁が囲う
郭背後の二重堀切
小城(女城)へ。
この登りを見ても、感覚が麻痺し、なんとも思わない。
この上が小城
小城主郭から西帯郭
らんまるさんが竪堀ケ上端に立つ。
遠見まで行くんですね。
ここまでの苦難を乗り越えた二人の意思は固い。
遠見
ピークをいくつか超えたので、ひょっとしたら最初の写真で遠見としたピークよりも、ひとつ上までいったかもしれない。
最初の写真
本編お楽しみに。
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
池上裕子(1998)「戦国期北信の武士と上杉氏の支配」、『市史研究ながの』五号