謙信道1・石動の館(長野県中野市間山津島) | えいきの修学旅行(令和編)

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津島公会堂の奥に、石動社がある
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この付近が「石動の構え」という。http://yahoo.jp/QRTbkt
  高梨氏が中野氏を滅ぼし中野小館・鴨ヶ岳城を本拠とする永正10年(1513)年以前、本拠とした館跡と推定される。
 その頃(永正7年)高梨政盛は越後長森原で関東管領上杉顕定を討ち取り、日本に響く武名を挙げる。
 年頭にあたり、高梨の武勇にあやかりたいと平成27年の記事は石動の館からスタートします。
 
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石動社
 宮坂本では「政盛の軍は牛頭天王の社前(一説には石動社)で戦捷を祝し、それから間山館へ帰る。石動の構えなり」との記録が残るとある。(宮坂 2014,p.428)
 間山区史では館の守護神としての性格を推定している。
  
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その南東約2kmに真山城 
高梨氏の本城・要害であったであろう。 
 
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石動の館と真山城の位置を地図で見ておきます。
真山は山に囲われた要害地で、中野制圧を目指す高梨が本拠とするには最適な地です。
 文明16年(1484)、政盛は分家高朝が高野山へ参詣しているの留守を衝いて枡形城(山田城)を奪う。
永正10年(1503)頃、ここから北上、中野氏を滅ぼし、中野小館・鴨ヶ岳城に本拠を移す。
 飯山ー中野ー間山峠ー灰野峠ー井上を繋ぐルートは、後に越後上杉謙信が川中島へ進軍したと伝わる謙信道です。
 昨年書いた、雁田城、菅の山城・更科峠旗塚も地図中に在るのですが複雑になるのでポイントしません。
   

 時は越後長尾景虎と甲斐武田晴信が争った弘治三年(1557)第三次とされる川中島合戦の頃に移ります。
 
 中野を拠点に北信に勢威を張った高梨であるが、弘治3年2月、上杉方の落合氏が守る葛山城が武田に攻め落とされると、中野小館・割ヶ岳城から飯山城に、また長沼城の嶋津氏も大蔵城に退き、越後長尾景虎の救援を待ちます。井上氏は越後に逃れたようです。
 景虎はこの年、信濃更科八幡宮、小菅神社へ、信濃諸氏の依頼による信濃救援の出陣を宣誓し、晴信打倒を願う(誓う)願文を奉じている。
 景虎は信濃に出陣、謙信道沿いにある枡形城(山田城)、竹の城北西約2.5kmの福島城を攻め落とします。善光寺から村上氏旧本拠坂城まで攻めこみます。そして8月、上野原で合戦が起こります。(矢田 2005,p173)
 
 しかし高梨氏が本拠中野に復帰した形跡は確認できず、景虎が兵を退くと武田の勢力下に戻ったようだ。
 武田晴信は弘治三年3月山田左京亮に山田領500貫、伊藤右京亮に高梨間山郷之内300貫文を宛がっている。注:池上裕子はこの文書をもって高井郡がほぼ武田の支配下に入ったとしているが、柴辻俊六は偽文書としている。(柴辻 2013,p.31)
 が、永禄には山田には山田左京亮が、間山には伊藤右京亮・丹後守(右京亮の子か)、須田対馬守の在住を示す史料があり、そう時を経ず武田の勢力下におかれたことは間違いない。
 
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 字馬場の伊藤屋敷と伝承される屋敷地。間山区史によると屋敷添・屋敷付という居館地名、敷地内には海野文書に記された滝竜権現と推定できる小さい祠があるとされている。
  
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裾無川沿いの開墾屋敷
(信濃の寒さで、バッテリーが消耗。携帯で応急撮影)
  
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石動社南100mの字津島の墓地に、酒井家の墓と須田対馬守霊屋と刻んだ石碑、五輪塔、地蔵堂がある。
津島は対馬であろう。酒井家は須田対馬守の家老家で、景勝の会津移封に同行せず土着・帰農し、地蔵堂の中に須田対馬守御内仏と伝わる延命地蔵菩薩を守り伝えている。
  
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須田対馬守霊屋と五輪塔
  
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須田対馬守御内仏と伝わる延命地蔵菩薩を守る地蔵堂。
 酒井様にお願いし、特別に拝観・撮影させて頂きました。
 ブログ掲載の許可も得ましたが、人が押し寄せると困るとのことです。読者の方々には配慮を願います。
  
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紋は酒井家の家紋
お堂、霊屋は明治39年に改築建立されたようだ。
  
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延命地蔵菩薩
 
  須田氏は武田の侵攻に対し、分裂。大岩城に本拠を置き大岩郷を領していた満国の系統は越後に逃れ、須田城(臥竜山城)を本拠とし、須田郷を領した信正の系統は武田に属する。対馬守は武田のに属した須田信正系の一族であろう。
 
 参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
                間山区史編纂委員会(2005)『間山区史』、第一企画株式会社
        矢田俊文(2005)『上杉謙信』、ミネルヴァ書房
         柴辻俊六(2013)『戦国期武田氏領の地域支配』、岩田書院

 
 第三次川中島合戦で8月に合戦があったとされる上野原の戦いの比定地は、長野市妻科上野原説が有力で、他に長野市上野(若槻村)、飯山市静間説も力説されている。(柴辻 2013,p32)
 
 しかし、引き金となったのは長尾方葛山城の落城ですが、重要な要因・舞台となったのは須坂・井上・中野(高梨)といった千曲川東岸地域です。まさに謙信道が通るルートが第三次川中島合戦の舞台です。その謙信道沿い灰野峠北月生城北麓の上野を、上野原の戦いの地とする説がこっそり須坂市で提唱されています。
 私も謙信道沿いの月生城北麓の上野を第三次川中島合戦の上野原の戦いの地だと思います。
 昨年10月に井上周辺のみ書き、年末は氏邦鉢形領紀行に懸かりました。年も改まり、第三次川中島合戦の舞台となった謙信道沿いのロマン溢れる城達を辿って行きたいと思っています。
 
 今年もよろしくお願いします。