氏邦鉢形領紀行 終章 | えいきの修学旅行(令和編)

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  ブロ友たけださんから頂いた研究論文をテキストに、4度の北武蔵遠征を経て11月7日に書き始めました氏邦鉢形領紀行、ようやく終章となります。
  
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   長々とおつきあい頂いた方が御座いましたら、感謝申し上げます。
 
 ざーとまとめますが、書いてきた内容ですので、横線のところまでとばしていただいてもかまいません。水色アンダーラインは追記。
 
   乙千代(氏邦)が北武蔵の有力国人藤田氏に入婿、一乱を経て、支城領・支城衆を形成・編成していく過程を、たけださん研究論文を基に、えいきのフィールドでの修学からその様相をブログ紀行にまとめてきました。
 永禄初期に入婿した氏邦ですが、永禄3年の越後長尾景虎の関東侵攻により藤田家は長尾方(上杉方)と北条方に分裂します。当初、反北条の上杉方が、泰邦遺族を立て本拠花園城周辺や天神山城を押さえ大勢をしめていました。北条方で確認できる城は用土氏の千馬山城のみでした。劣勢だった氏邦方ですが、北条直臣と用土氏等の協力を得て天神山城・高松城・日尾城を攻略、劣性を跳ね除け、永禄6年には一乱を平定、鉢形領を掌握します。上杉方であった藤田被官や遺族は北条の介入を受け没落。猪俣氏には北条家臣富永氏から邦憲が入ります。一乱を経て鉢形領を制圧・掌握した氏邦は、国人藤田氏統治機構による支配体制から氏邦を領主とし小田原北条勢力を背景にした統治機構へと再編します。知行宛行の権限も、小田原北条当主から氏邦に移行され(永禄7年6月以降)、氏邦は北条分国の支城主・その鉢形領は支城領・その軍勢鉢形衆は支城衆と成ります。
 
 氏邦鉢形領を取り巻く情勢が、甲相同盟の破綻(永禄11年(1568))、越相同盟の成立(永禄12年)、越相同盟の破綻・甲相同盟の成立(元亀二年(1571))と、大きく変わります。
  
 氏邦の鉢形領は、同盟関係から一転し敵対することになった西上野・信濃を勢力下におく武田勢との最前線、また敵対関係から一転し同盟関係となった上杉家との交渉口となります。
 
 氏邦の鉢形入城の時期は諸説あり断定できないが、永禄5年8月4日以降、同12年2月以前の間と考えられる。初めての入部先が鉢形であった可能性も比定しきれない。(伊藤 2011,pp.4-5) 
  
 おっと、たけだんは2012年に「戦国期武蔵八幡山(雉岡)城周辺における地域編成-衆編成を中心に-」のなかで、『長楽寺永禄日記』永禄8年8月19日条から、永禄8年八月段階では氏邦は鉢形城以外の城を居城としていることを後注(1)で指摘し、氏邦の鉢形入城時期を永禄8年8月以降に絞っていました。(平成27年1月2日追記)
 
 
 鉢形城周辺には新井氏が勢力をもっていたが、鉢形城は山内上杉氏が去って後は、城郭としての利用はされていなかったようで、この間(永禄8年8月以降、同12年2月以前(H27.1.2改訂))に氏邦が改めて居城として築城(改修)された。氏邦が居城とするのは藤田本城花園城でもよかったようなものだが、武田に抗するには、花園城よりも荒川南岸の鉢形のほうが有利であろう。そういった防衛上の事情と、新統治機構の秩序の体現のためには鉢形城居城は有効であったと思います。
 
  氏邦は、武田との同盟復活の成った元亀三年閏正月以降天正4年2月までに、山内上杉歴代の受領名安房守を称し、その支配を上野へ向け進めて行きます。 
 
 北条が本格的に上野を領国化するのは、天正10年3月武田の滅亡後で、真田は北条に従属(のち徳川→上杉に従属)、6月本能寺の変後、神流川の戦いで滝川一益を破ると信濃・甲斐にまでその鋭鋒を進めます。そして氏邦は、天正10年7月以降同15年11月に、北条名字に復し北条氏邦と称します。
 
 永禄12年越相同盟成立時には外交儀礼的に北条一門の格を有する位置ではなかった氏邦の北条内での立場・地位は、北武蔵から上野へ領国を広げ、大名級の実力を備えた経過をもって、その立場・地位が北条一門・北条氏邦と成ったのではないでしょうか。
 
 上記ような情勢を追いつつ、花園城→天神山城→千馬山城→日尾城→鉢形城→八幡山城と記事を書き進めました。
 
 研究者は文献史料や考古史料で証明できないと書けませんが、私は歴史好きな素人ですので、修学からの感想で書きます。
 
 氏邦入婿前(入婿時)の藤田の本城は、花園城だと思います。大藤田の本城に相応しい規模と構造です。後に北条の手が加わったとは思いますが、もともとの藤田の花園城の構想が大きく、構想を変えるほどの改修はできず、手を加えたとしても部分的な補修・補強程度であったと思います。一乱後、城としの使用が見えない天神山城にも、出入口の内枡形、横堀、折れ、石積による壁の補強が見られ、氏邦入部前から藤田の城郭普請技術として、これら構造を用いていたのでしょう。
 
 千馬山城は藤田時代からの城ですが、一乱時唯一北条方の城であり、一乱を平定していく過程でも制圧され帰順した勢力の人質を留め置くなど、北条方の拠点として機能します。一乱当初は氏邦は小田原に居たようで氏邦が入部するまで実質的に北条の出先最重要拠点城でした。北条の最新の普請技術が加えられ、横堀のラインの雰囲気(研究者ではないので雰囲気で書きます)、折れが、横矢を掛ける張出に進化したと考えます。
 
 さらに、鉢形城を居城とするに及び、鉢形城は城郭として機能しておらず、北条の構想による縄張、構造を用いた築城が可能で成されたのではないでしょうか。そして北武蔵防御から上野への進出という軍事要塞としての八幡山城へと、私には藤田から北条への時代の移りと軍事技術の進化にともなって進展していった様子が見えます。
 
 では、出入口の防御が郭の中の内桝形から郭の外の郭馬出へ、石積が壁の補強から見せる意図の石垣に、横堀のライン・折れが郭線防御構想による幅と直線・張出の組み合わせに、そして郭が巧妙に連携する縄張へと、目につく変化を写真を抜粋して掲載します。詳細は各城記事をご覧ください。
 
まず出入口の桝形の変化
 
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花園城 内桝形
  
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天神山城出郭 内桝形
  
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  天神山城出郭内桝形の前には、土橋で接続して馬出様区画があるが、背の城内側に土塁があり、またその郭からの出撃路が機能的には思えない。 
 
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鉢形城大手馬出
 桝形は郭の外に出で構えられ、桝形自体が出撃部隊を収納する郭馬出となる。
出撃部隊を敵から守るように、また敵から見えないように、土塁は郭の外に向かって設けられている。
 
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鉢形城 三の曲輪と二の曲輪を接続する郭馬出 
曲輪と曲輪が、土橋と馬出をj経て接続する。その土橋には横矢が掛かる。 
天神山城出郭に比べ機能的に進化している。
 
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八幡山城 郭馬出 
鉢形城と同様、北条の郭馬出 
しかしこのようにもろにそのまま利用されると味気ない。
 
                                    
次に石積から石垣への変化
 
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天神山城 

石積による壁の補強
 
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花園城 
石積による壁の補強にとどまらない美しさを感じる。
 
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鉢形城 三の曲輪虎口内
河原石を用いた石垣になる。
 
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鉢形城秩父曲輪 
会所の池の背後、内に向け設けられている。 
会所に通された人物が見る。
 
                                         
次いで横堀の折れの様相
 
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天神山城出郭の横堀の折れ 
 
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花園城 堀の折れ
 
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花園城 堀の折れ 堀底から 
 
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千馬山城の横堀の折れ
藤田の堀・折れと雰囲気が変わる。 
 
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堀底から折れ部を見る
 堀の直線の雰囲気が防御線のように意図され、さらに折れが明確に張出構造になり、堀線に横矢を掛けているように見える。北条の最新の築城術による改修か。
 
                                  
ここからは明瞭な北条の氏邦の城 
                                  
私の余計な講釈はいらないでしょう。
 
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鉢形城
 
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八幡山城ほうき郭
堀の折れと張出
 
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鉢形城
郭の外線を喰い違わせ、郭が郭の外線を防御する。
 
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 八幡山城の記事で、郭が郭の外線を防御する構造や、郭の配置と、その郭の土塁の配置から郭によって郭を監視する構造を、わりと出来良くかけていると思います。
 

 では、紀行中で扱えなかった事項で、関連し私が興味を持った事項を3つ。 
 
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八幡山城に近い生野山 
 氏邦が豊臣軍北国勢に鉢形城を開城する二日前の天正18年6月12日、上杉景勝軍が進軍。八幡山城周辺は豊臣方に制圧された。その日、八幡山城衆であったと考えられる加藤出雲(良秀)は生野山で打死にする。
  
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鉢形城下の良秀寺 
 加藤出雲の子供が出雲の屋敷地の跡地に親の菩提を弔うため建立した。八幡山城・鉢形城落城後の七月に豊臣方の岡本義勝が発給した史料(「武州文書」『新編武州古文書』上、角川書店、1975年、606頁)に良秀寺建立の経緯が読みとれる。(伊藤 2012,pp.57-8)
  
 加藤出雲は鉢形城下に屋敷を構える氏邦家臣であり、小田原合戦時は八幡山城の城衆であり、6月12日八幡山城近く生野山において打死にした。敗れた側であるが、屋敷地に寺を建立することを許され、また寺を建立する力のあるほどの家であったと考えられる。
 現在も周辺に吉田・新井と並び加藤姓は多く、小田原武士ではなく、元々鉢形城周辺に土着していた者が鉢形衆として氏邦家臣になっていたものと思われる。北条が滅び氏邦が去って後も、これら土着の侍達は許され元々土着の地に帰農、現在に子孫が続く家も多い。
 
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久米六の井戸
八幡山城下久米家当主の館跡に今も残る井戸。
 
 たけださんは「戦国期武蔵八幡山城周辺における地域編成」のなかで久米氏を特筆している。
久米家は児玉の有力町衆で、永禄7年6月18日、一乱を平定して間もない氏邦から過所・氏邦知行分に於ける諸役免許の朱印状を得ている。氏邦は八幡山城下の整備を久米家を活用し行った。久米氏は、北条が北武蔵に勢力を伸ばす以前の天文13年(1544)にも北条家より過所を得ている。武家の軍事支配が及ばない広域で商業を行う大商人であったようだ。
 八幡山落城の天正18年6月12日には、即、前田利家より地下人・百姓の還住を保証する印判状を受けている。また小田原合戦後、領主となった竹谷松平氏も天正18年12月8日に久米氏等に児玉新宿役免許判物を与えている。(伊藤 2012,pp.58-9)
 
 秩父衆の軍役・軍装・鉢形城内の掃除当番などの関しては、リアルな史料が残りますが著名でもあり、本ブログでは取り上げませんでした。
 
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日尾城近くの小鹿野町両神簿の薬師堂 
付近は人民断絶と評されるほどの武田勢の襲撃を受けた。
説明板によると武田の兵火により焼け落ちたのを鉢形城主氏邦が再建したという。
天正13年から14年頃に氏邦は家臣とともに、薬師如来坐像と木造十二神将立像を奉納している。
この十二神将立像の、ほぞには、それぞれ奉納した人物が旦那として墨書銘がある。
代表的な銘を鉢形城歴史館発行の『鉢形城主北条氏邦の信仰』より拾ってみた。
 
                      子守 願主成範 旦那吉田存 札
                      寅神 旦那猪豊後□久繁
                      午神 日尾城主旦那 諏訪部達江守
                      申神 旦那安房守 氏邦本命 星
                      酉神 旦那宝積坊 □鑁僧都
                      戌神 本郷越□神                   
                      るで氏邦帷幕のようではないか。
 
 
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  上段左から 申神、未神、午神               上段左から 寅神、丑神、戌神 
 下段          亥神、子神、酉神               下段          巳神、辰神、卯神  
 
 天正18年6月14日、豊臣北国勢に攻囲された鉢形城は、降伏開城する。氏邦は前田家に預けられ能登七尾で千石を宛がわれる。17年後の慶長二年(1597)8月8日に、能登で生涯を終える。
 
  鉢形開城に際しての氏邦の行動は「北国人数および浅弾人数、押寄すべく支度候処、急ぎ懇望申し、身命を助け候」  「前代未聞の比興者の由、敵味方申し候」 と武人としての氏邦の評価はよからぬもののように評されるむきがある。しかし、そうであろうか。私が寄居町で修学した限り、寄居町の人々の氏邦を慕う風は強い。また豊臣北国勢は、鉢形開城まで、秀吉に叱責されつつ2か月余りを要している。
 
これは鉢形城に拠る氏邦の武威・人望が「豊臣北国の大軍を寄せ付けなかった」と私は解釈したい。 人望故、氏邦自身も助命されたのだろう。
 
 
 たけださん論文を隅々まで読み返し、愚考しつつ思いついたことなどもあり、たいへん深い修学となりました。世のため人のためになれば、とも思いますが、まずは私自身の修学のため、ブログ書きつつ勉強しようと思います。
 たけださんの深い研究に敬意を表し、また御厚情と御教示を頂きました寄居町公民館長、郷土史家、鉢形城歴史館学芸員の先生方、鳥瞰図転載・参考とさせていたきました余湖さん、訪問の道標とさせていただきました るなさん、他応援いただいた皆様に感謝申し上げ、紀行を終わります。
                                                  平成26年12月27日
                                            えいき拝
 
参考文献
伊藤拓也(2011)「戦国期鉢形領成立過程における「一乱」」、『埼玉史談』第58巻第一号(通巻305号、埼玉県郷土分化会)

伊藤拓也 (2013)「新井氏と吉田氏ー鉢形衆の構成員ー」、『埼玉史談』59巻4号

伊藤拓也(2013)「戦国期日尾城における衆編成」、『埼玉地方史』67
伊藤拓也(2012)「戦国期武蔵八幡山(雉岡)城周辺における地域編成―衆編成を中心に―」、千葉史学 第61号
黒田基樹・朝倉直美(2010)『北条氏邦と武蔵藤田氏』、岩田書店
黒田基樹(2012)『戦国北条五代』、戎光祥出版株式会社
鉢形城歴史館(2004)『鉢形城開城ー北条氏邦とその時代ー』
鉢形城歴史館(2007)「鉢形城主北条氏邦の信仰」
鉢形城歴史館(2014)『関東三国志-越相同盟と北条氏邦-』