八幡山城(埼玉県本庄氏児玉町八幡山) | えいきの修学旅行(令和編)

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 鉢形城は資料を方々に求めて内容が拡散し過ぎてしまいましたが、紀行最後はえいきの修学旅行の原点にもどり、たけださんの研究論文(2012)「戦国期武蔵八幡山(雉岡)城周辺における地域編成-衆編成を中心に-、『千葉史学』 第61号 をテキストに八幡山城の修学をまとめます。
 城以降の解釈は私の独善ですが、歴史背景については上記たけださんの研究論文を基に記述しています。
 
八幡山城は鉢形城よりも上野国境に近く、東は深谷・北東は本庄・西は御嶽城に通じる要衝に位置します。
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 元亀年間は氏邦家臣鉢形衆が寄親が城衆として在り、その筆頭に横地や黒沢がついていたようだ。黒沢については伝承のみであるが、横地左近については元亀4年(1573)以降八幡山城周辺を管理していた史料・成田氏長書状写(「百家系図57」戦北4783)があり、横地左近が八幡山城の城将であったことが証明される。横地の先代左近が小田原北条氏の家臣であったのが、氏邦につけられ、氏邦家臣鉢形衆に直ったものと考えられる。
 元亀四年というと、武田との同盟復活が成り、氏邦が山内上杉歴代の受領名安房守を称し(元亀三年閏正月以降天正4年2月まで)、その支配を上野へ向け進めて行く時期にあたる。
 氏邦の上野進出軍事拠点として整備された城と考える。
 
 天正7年6月横地は越後国境に近い猿ヶ京付近の土豪とみられる田村角内という人物に名乗りを認定する官途状(「細谷文書」『群馬県史』資料編7-2961号)を発行している。氏邦は、天正6年御館の乱に際し、軍勢を率いて沼田から越後樺野沢へ侵攻進駐している。横地も氏邦重臣として上越国境に進出したのであろう。
 
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別名雉岡城とも呼ばれ雉岡城跡公園として整備されている。
写真の公園入口はここ
入り口は南東隅から 分厚い土塁をぶち抜いている。
     
現地設置雉岡城縄張想定復元図
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白字はブログ説明用に命名・加筆してあります。
大手は鉢形城方向に向いており、上野方向に向かって二の丸・ほうき郭、さらに三の丸が構えられています。
 郭の配置と、その郭の土塁の配置から郭によって郭を監視する構造が読み取れます。
 本丸は二の丸・ほうき郭・南二郭を土塁越しに監視し、監視される郭の本丸側は土塁が切れていて本丸から見通されます。また本丸側には土塁が設けられ、それら郭からは見通すことかはできません。
 さらにほうき郭は南三郭東部低地を監視し、東面に張出を設け東面堀線に横矢を掛けています。
花園城、天神山城とは異質な北条ばりの堀、直線、張出、馬出を見ることができます。
いちぶ学校敷地となっていますが、永禄の後の元亀天正期の北条の城を十分堪能できる名城です。
 A・B地点は回遊のポイントになる地点です。
南三郭→大手→馬出→南二郭→本丸→ほうき郭と左回りに辿ります。
 
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公園入り口の左、車道は、大手前南の堀にあたる。
  
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入り口右は南西の水堀
内には分厚い土塁。 
 じつは私の氏邦鉢形領修学旅行は、この八幡山城から始まりました。
 いきなり、興奮気味のスタートでした。
  
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 入口はいると南三郭で、見えているのが低い東部。
分厚い土塁が巻き、その外に上の写真の堀が巡りっています。
奥、きれているところに南三郭とほうき郭の間を本丸際まで入りこむ堀。
 ななめ左上に高い区画。
左に南面土塁。
  
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南三郭北東カーブ分厚い土塁下の堀際で城デート。
  
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土塁のきれた先は、上の堀がほうき郭と隔て、本丸際まで入り込む。
この土塁の切れは、ほうき郭から監視・撃つことができるための構造と考えます。
ほうき郭には土塁が設けられています。
  
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こんな凄い城公園、羨ましい。 
 ほうき郭は北条らしい直線と張出が設けられ、これも胸とおなかが一杯になるほどの遺構ですが、ぐるーと左からまわってきて後ほど紹介します。 入り口に戻ります。
  
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 高い区画へ
大手口が入り、南二郭へ接続する馬出があります。 
左には南三郭南面土塁。 
 
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高い区画 
塙塙保己一記念館が馬出に建つ。 
右に堀で隔たり南二郭。堀底には夜泣き石。 
左に大手。 
 
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南二郭と南三郭を隔てる堀。
堀底には夜泣き石。
  
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出前、南に大手口
西は中学校で切り取られているが、じゅうぶん遺構を堪能できる。
  
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馬出前から南三郭南面土塁をみる。 
 
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大手に入ると鉤型に折れ、馬出に入る。 
塙保己一記念館の、この乙な立地、素晴らしい。 
 
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土橋で馬出に入り、右に折れさらに土橋で南二郭に接続する。 
 
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に折れ、土橋。
  
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さらに右に折れ登る 
 
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折れ登る。 
 
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登り、左に折れる
  ここからはルートではなく、南二郭当面土塁かもしれない。 
ここまで大手から4折れの導線。 
 
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進むと金毘羅神社 
南二郭の東面土塁上か。 
左に南二郭は中学校に削り取られている。 
あまり残念にも感じない。 
奥、本丸との間にも堀があり、木橋で接続していたようだ。 
 
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南二郭北東 
左上に本丸 
写真、木の緑でよくわかりませんが、堀(白塗り)が見事です。 
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線なし 
斜め右上に堀底に降ります。 
 

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少し降りると堀が見易い 
 
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先に辿ったA地点から本丸際まで入り込むと書いた堀がここまで入りこんでいる。
奥に見える土塁はほうき郭の南面土塁。本丸側には土塁がない。
二の丸は高校敷地になっている。
  
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北条の堀! 
大手馬出方向を振り返る。
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夜泣き石がみえる。 
奥突き当り上が馬出(塙記念館)への土橋。 
 
本丸へ登ります。
 

 
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本丸、二の丸は学校敷地に削り取られています。
  
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さきの南二郭と本丸の間の堀 
木橋架橋で接続していたのだろう。 
 
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本丸側架橋部か 
 
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本丸
削り取られているが、左側に郭があったようだ。 
 
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本丸に児玉中学校 
削り取られたのではなく、この高さの土塁で、郭内に建っているのか? としたら、凄!
  
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北、行き止まり下に児玉高校グラウンド、校舎。
 グラウンドが二の丸、校舎付近が三の丸。
こちらには高低差があり、土塁がなくとも見通されないのではないか。 
校地向う、三の丸北の堀線は写真とりました。後掲。
 
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東下、ほうき郭との間の堀 
ほうき郭の西面本丸側には土塁がない。 
本丸から監視・制圧できる。 
 
堀底に降り、ほうき郭へ向かいます。
  
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この堀幅、まさに北条の軍事要塞。
 

 
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ほうき郭 
南東隅をみている。
北部は消滅しているが、北条の直線と張出は明瞭に残る。
私はこの土塁だけでも胸が一杯ですが。
土塁下は南三郭と隔てる堀。
 
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北部は消滅 
が、気を落とすことはありません。
 
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東・張出部の堀 
張出から横矢を掛けることができる。 
 
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角度を変えて 
八幡山城が紀行のラストですから写真ふんだんにいきましょう。 
 
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張出から横矢が掛かる堀線 
おくに最初のポイント南三郭・A地点。
ぐるーっと周ってきました。 
車の後方に城デートの二人。
羨ましい。
  
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堀の南三郭との接合部も、喰い違い・張出すことで横矢を効かすことができている。
巧妙な仕掛け。
 
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堀は南三郭との間、本丸際まで入り込む 
 
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ほうき郭から堀を隔てて南三郭A地点をみる。
ほうき郭側には土塁があるが、南三郭は土塁がきれている。
南三郭の低い東部は、ほうき郭から監視・撃つことができる。
 
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ほうき郭南土塁西端より本丸を望む。
堀底左はB地点。 
本丸は高い。 
ほうき郭の本丸側には土塁がない。 
 
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すこし引いて、ほうき郭内から。 
土塁は南面南三郭側 
本丸側・西面には土塁がない。 
ほうき郭は本丸から監視されている。 
 
 八幡山城、いちぶ中学校・高校敷地になり消滅していますが、このように巧妙な郭の配置や、北条の堀、張出が堪能できます。氏邦が上野に乗り出す軍事拠点・要塞として、その武威を上野に向け放ったことでしょう。
 
 八幡山城は城将は横地左近ですが、氏邦の城であり、領域支配権や知行宛行の権限は氏邦が握っていました。横地左近は城将として城の管理や城衆の軍事指揮し、九郷用水の上・中流域の管理、城下の再編や開発を氏邦の指揮のもと行ったようです。
 
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児玉高校校地南・三の丸外郭線 
 
 八幡山城は天正18年6月12日、鉢形城開城の二日目に落城する。
周辺では豊臣方と戦闘が行われ、生野山に進軍した上杉景勝勢との合戦で八幡山城衆の加藤出雲が討死する。エピローグで触れます。
 
 小田原合戦後、八幡山城周辺は竹谷松平氏に宛がわれ、氏邦と横地に分かれていた支配に係る権限は竹松松平氏に委譲され一本化される。竹松松平氏は慶長6年に転封になり、八幡山領を統轄する領主はいなくなる。
 近世に残る八幡山城周辺の児玉町市街は、氏邦・横地によって整備され形成されたものといえるだろう。 
 
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児玉市街 
再編には久米氏ら有力町人も関わった。
久米氏に関してもエピローグで触れます。
 
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金谷天竜寺 
横地氏の菩提寺のような寺院で、天正13年に現在地に移転されたと伝わる。
氏邦・横地によって城下町の形成が行われた証であろう。
 
 参考文献 伊藤拓也(2012)「戦国期武蔵八幡山(雉岡)城周辺における地域編成-衆編成を中心に-、『千葉史学』 第61号
 
参考サイト 旦さまと私 http://blogs.yahoo.co.jp/lunatic_rosier/55871723.html