鉢形城3(氏邦鉢形領紀行クライマックス) | えいきの修学旅行(令和編)

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 鉢形領を掌握した氏邦は、支城主として北条氏当主より領支配の権限を委譲され、自らの領国を経営、自らの軍団・鉢形衆を養い率い戦国関東に立つことになる。

 
 永禄11年に甲相同盟が破綻、翌年越相同盟が成立すると、鉢形領は同盟関係から一転し敵対することになった西上野・信濃を勢力下におく武田勢との最前線、また敵対関係から一転し同盟関係となった上杉家との交渉口となる。
 越相同盟締結においては、氏邦が氏邦→由良成繁→沼田在番衆→山吉豊守→上杉輝虎の由良手筋を担い奔走する。武田方の攻撃に対しながら、鉢形城は北条の外交施設として他国使者との会談場所ともなっていた。
 
   現地設置鉢形城跡曲輪配置図(ブログ説明用に白・ピンク加筆)
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 三の曲輪の秩父曲輪が池を備えた会所、その南逸見曲輪は弁天島と池の痕跡があり、小船を浮かべて楽しむ園地だったのではないだろうか。
  
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 私は大手馬出を経て土橋で三の曲輪への虎口へ至るのが大手と思っていたが『関東の名城を歩く 南関東編』や現地説明板では、そのようには記載されておらず、 逸見曲輪に入る大手を想定しているようだ。
 大手馬出は大手の出入口ではなく大手口を側面から防御する施設ということのようだ。
  この記事では大手馬出から三の曲輪へ入ります。
 
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道路右側は水堀 
 
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大手馬出
(鉢形城1で紹介・参照ください)
 
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大手馬出から土橋で三の曲輪虎口へ接続している。
ややスケールが小さい気はするが、これが大手だと思っていた。
  
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右土塁上に櫓を備えた頑強かつ壮麗な門を想像していた。
  
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入ると武者溜りのような空間。
内面には北条の石垣。
左、秩父曲輪の門前には蔀が設けられ、門への階段を隠していた。
また蔀により、武者隠し区域・ルートが屈曲している。
写真奥が二の曲輪、右が逸見曲輪方向。
  
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内から 
 
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武者溜り内面・櫓台下の石垣 
  
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櫓台上から秩父曲輪復元門をみる
 
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秩父曲輪へ 
 
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門前から、大手馬出から接続する武者溜り・櫓台・虎口をみる。 
 

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門入って、秩父曲輪内西面。
全長100mの河原石による石積土塁。 
秩父曲輪は、上下段二層に分かれている。 
 
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 入ったところが下段郭で、説明板によると掘立柱建物跡と自在鉤や鍋などの生活用具が出土しており、日常生活の空間を推定している。 溝は石組排水溝。 
 
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東端付近に石組井戸。 
東は堀を挟んで二の曲輪 
 
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堀を挟んで二の曲輪 
こちら三の曲輪側が城外側になるが、見通せている。
土塁が見通せないほどの高さであったとしたら、相当な高さで、どれほど凄い城壁であったであろうか。
  
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ちょい右、南東方向 
 しかし堀向う柵後ろ土塁前に守備兵が居ても、こちらから射放題な気がする。ましてや背後の土塁が城壁状であったらなおのこと…。 
 
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振り返り、南東から秩父曲輪
左が低い曲輪で生活空間を想定。右が上段郭で、奥に池のある庭園があり、庭園を囲うように建物が建てられていました。茶道具やカワラケが出土していることから、宴会や歌会などを行う特別な空間を想定してる。(説明板より) 
 
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会所であろうか 
掘立柱建物跡を四阿と丸太で表示。 
 翕邦挹福を行った地か。 
 
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庭園池跡
石垣も庭の景色か。 
 
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掘立建物裏
井戸跡
  
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雁木(階段)が設けられている 
 
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北西隅から西面
  

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三の曲輪虎口脇櫓台上から逸見曲輪・弁天社方向 
弁天社は池中の弁天島祀られていたと考える。 
 
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見曲輪
 広大な園地を所持する者など、北武蔵のみならず、後に上野を領有化し、大名級の実力と格を持つに至った氏邦ならではの所産ではないだろうか。
同じく他家(大石)に入った氏康の男子・氏照の滝山城内にも設けられている。
  
 越相同盟締結・稼働に中心になって奔走した氏邦であるが、永禄12年6月に越相同盟成立を示す血判起請文が輝虎と北条父子の間で交換された際、氏邦の血判起請文は作成が確認されていない。黒田は氏邦の立場が外交儀礼的に北条一門の格を有する位置ではなかった可能性をしてきしている。(黒田 2014,p.53)  
 
 氏邦は、武田との同盟復活の成った元亀三年閏正月以降天正4年2月までに、山内上杉歴代の受領名安房守を称し、その支配を上野へ向け進めて行く。甲相一和の国分協定は西上野を武田、北条は東上野を領有とされた。といっても実力による制圧・併呑である。
 
 このころ、上野国境に近い八幡山城を軍事拠点として取り立て、城将に鉢形衆横地左近を据える。八幡山城は次記事で修学をまとめます。
 
 天正6年謙信の死後発生した御館の乱に際し、氏邦は北条より上杉に養子に入っていた景虎を支援するため上野から越後にまで侵攻する。しかし勝頼と景勝が同盟し景虎が敗死。越後への進出は頓挫する。武田との同盟は崩れ、上杉より上野割譲をとりつけた武田が、西から沼田に迫る。氏邦は天正7年7月に沼田城を攻略しているが、天正9年6月、沼田城内にいた藤田信吉は武田方に内応、沼田領は武田のものとなる。この時、沼田城を守備していた鉢形衆は、信吉と武田勢に城の内外から攻めたてられた随分討死があったようだ(『管窺武鑑』)。藤田信吉は氏邦がはいった藤田氏の一門で用土氏であり、用土氏の権力は藤田に入った氏邦から次第に排斥されていたようだ。沼田城と沼田領は、勝頼からもう一人の安房守真田昌幸に預けられる。用土信吉は藤田に復姓、藤田信吉となる。(『北条安房守と真田安房守』)
 
 北条が本格的に上野を領国化するのは天正10年3月武田の滅亡後で、真田は北条に従属(のち徳川→上杉に従属)、6月本能寺の変後、神流川の戦いで滝川一益を破ると信濃・甲斐にまでその鋭鋒を進める。この時期が先の北信竹の城でとりあげた、景勝制圧下の北信井上を狙う真田重臣矢沢頼綱への北信濃井上の宛行を約束する印判状が発行される時期(天正10年7月)である。(景勝に阻まれ、井上の領有化は成らなかった)
 
そして氏邦は、天正10年7月以降同15年11月に、北条名字に復し北条氏邦と称している。
 
 永禄12年越相同盟成立時には外交儀礼的に北条一門の格を有する位置ではなかった氏邦の北条内での立場・地位は、北武蔵から上野へ領国を広げ、大名級の実力を備えた経過をもって、その立場・地位が北条一門・北条氏邦と成ったのではないだろうか。
  氏邦の地位が低かった背景に、氏邦の生母が側室だったのではないかという推論(朝倉直美 2014,p.65)がある。氏邦の母は氏康正室瑞渓院殿とされているが、側室で、三山綱定の姉あるいは娘であったのではないかという説で、越相同盟締結により上杉に養子に入った景虎と付き従った重臣遠山康光の例から類推している。三山綱定は北条二代目当主氏綱の重臣で、氏康が乙千代(氏邦)を藤田家に入婿させる際に取次に指名し乙千代に付き従わせ、以後氏邦が鉢形領・鉢形衆を掌握していく過程を後見・奏者として支えた重臣である。
 
 藤田乙千代から藤田氏邦へ、そして北条氏邦へと成る背景には、北武蔵掌握のため藤田家を継承し、一乱を経て領国統治機構ならびに軍勢の再編を行い掌握、北条の最前線として戦闘・外交に奔走、そして上野へと北条の勢力を拡張した氏邦が、実力・力量から藤田家名を必要としなくなったという状況と、その氏邦の働きを小田原北条当主が認めて一門に引き上げたということも考えられるのではないだろうか。
 
上野への進出については今回の修学・氏邦鉢形領紀行とはずれますので、本記事が11月以来書き綴ってきた氏邦鉢形領紀行のクライマックスになります。
 次に鉢形領の上野への進出軍事拠点として整備された八幡山城をまとめ、エピローグへとなります。
 
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野への地図
 
 参考文献 現地説明版
 伊藤拓也(2011)「戦国期鉢形領成立過程における「一乱」」、『埼玉史談』第58巻第一号(通巻305号、埼玉県郷土分化会)
 鉢形城歴史館(2009)『北条安房守と真田安房守』、寄居町教育委員会鉢形城歴史館
 黒田基樹(2014)「北条氏邦と越相同盟」、『関東三国志-越相同盟と北条氏邦-』、寄居町教育委員会鉢形城歴史館
 朝倉直美(2014)「越相同盟と鉢形領-氏邦と三山綱定と鉢形衆-」、『関東三国志-越相同盟と北条氏邦-』、寄居町教育委員会鉢形城歴史館